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第72話


 俺の前に姿を現わした沙紀。その花嫁衣装。
 宴会場の隣の控室のような部屋で、俺は紅いドレスを呆気に取られながら見詰めていた。その美しさは感動に近いものがあった。
 もう何年前になるか、俺達が結婚した時だが、式は海外で二人で、披露宴は行わなかった。式でそれなりの沙紀のドレス姿を見た時も確かな感動を覚えていた。そんな記憶が残っている。
 しかし今、時間が経ったとはいえ、目の前の姿が素敵すぎるのだ。


 俺が見詰める沙紀は、照れがあるのか、それとも笑うと化粧が崩れるのか、ずっと黙ったままだった。
 「さあ、砺波さんも着替えてや」
 沙紀の姿に心を奪われていた俺は、キムさんの声に我に帰った。
 振り返るとキムさんに手招きされた。ホテルのスタッフが、こちらに遣って来るところだ。その手は白い物を持っている。俺が着る衣装か。
 「馬子にも衣装って事はないわな」キムさんが笑いながらスタッフからソレを受け取った。白いタキシードだ。
 掲げられたタキシードを見れば、淡い記憶が甦ってくる。
 式で俺が着た衣装も、白のタキシードだった。沙紀も同じ白のドレスを纏っていたはずだ。
 今、俺の視線に映る沙紀は、紅い派手目なドレスを着ている。その姿がスタッフに連れられて離れて行く。


 「沙紀ちゃんはまだ、化粧の仕上げが残ってるから」
 沙紀の後ろ姿を見送りながら、俺は黙ったまま頷く。
 「どうしたんや砺波さん」キムさんが覗き込んできた。「ひょっとして隣の勝野さんの事が気になるんか」
 あっ、キムさんの一言でその事を思い出した。今ごろ隣の会場では、あの夫婦が淫靡な寝室を再現しているところなのか。
 「さあ、それより先に試着してや。ほら」
 俺はキムさんに急かされ、衝立ての向こうに連れて行かれる。沙紀の方を見れば、端の椅子に座って、スタッフらしき女にメイクを施されてるようだった。


 試着を始めた俺の耳には、時おり声が聞こえてきた。隣の会場の声だ。中には笑い声や叫び声も混じっている。やはり勝野さん夫婦が、俺にも見せた絡みを披露しているのだ。
 頭の中には、客達の下品な顔が浮かぶ。俺達はあの中国人達の前で、披露宴をするのか。たった今、沙紀の姿に心躍った俺に、億劫な気持ちが寄せてくる。俺は無意識に唇を強く噛み締めた。


 「ふふふ、何か顔が怖いですよ」隣で俺の様子を見ていたキムさんが囁く。
 俺はキムさんに顔を向けてから、ふぅーっと息を吐き出した。同時に鬱憤も吐き出した。
 「やっぱり変ですよね、こんな所で披露宴だなんて」
 「あらら、今更それを云います?」
 「だって、どう考えても…」と云ってる途中で、キムさんが顔を近づけた。「砺波さん、沙紀ちゃんはああ見えて、内心は喜んでますよ。メイクしてる横顔見ました?絶対ウキウキしてるでしょ」
 「え、喜んでって…いや、それはないでしょ」
 「いやいや、女性にとってウェディングドレスは何回着てもいいもんですし、それが異国の人の前だとしてもね。それに張さんや周さんも根は優しい人やから、祝福の気持ちは本物ですよ」
 「いや、それにしたって…」云いかけて俺は、口を噤んだ。キムさんの言おうとした事は分かる。しかし、それをこの環境で、この場所で、このシチュエーションで行うのが変だと云いたいのだ。とは言えそんな俺の気持ちも、諦めの境地に差し掛かっているのだが、とにかく全てがおかしくて怪しいのだ。このホテルに集う人間、全てがおかしすぎる。
 俺は小さく顔を振って、溜め息を吐き出した。もう、成るようにしか成らない境地だ。我慢して時間が過ぎるのを待って、後は沙紀が喜んでいればそれに合わせて俺の方も愛想笑いをするだけだ。
 耳には相変わらず隣の声が聞こえている。勝野さん夫婦が行う変態ショーは、佳境に入っているのだろうか。


 「沙紀ちゃんの方は、もう少しかかりそうやなあ」
 見ればキムさんが奥に目をやっている。「じゃあ砺波さん、ちょっとだけ隣を覗いてみますか」
 えッ!俺は驚き、続いて、どうして、と聞きそうになってしまった。
 「ふふ、ちょっと位やったら大丈夫でしょ。さあこっちへ、上だけ脱いどきましょか」
 タキシードの上を脱ぐと、連れて行かれたのは沙紀がメイクをしているのとは反対方向にあるドアの所だった。
 「このドア、隣のスタッフの部屋と繋がってるんですわ。ほら、食品庫の隣の」
 その説明で昨日の記憶が蘇った。ホールの仕事もやらされた俺は、料理も運んでいたのだ。確かにスタッフ用のそれらしい部屋があった気がする。
 そのドアを開けたキムさんに手を引かれるようにして、俺は進んだ。タバコ臭い部屋を通ると、喧騒が一段と激しく聞こえてきた。
 人集りの後ろを這うように歩いて行くと、二人の大柄な男の後ろに辿り着いた。


 目の前、二人の身体が振り向いた。張さんに周さんだ。俺は軽く会釈するが、身体中に緊張が回って行く。
 二人は俺をジロリと睨むように見た。しかし興味がないのか、フフンと鼻を鳴らすと前に向き直した。
 二人の肩越しに目を向けると、ガウン姿の勝野さんを見る事が出来た。よく見ると勝野さんはガウンを羽織っているが、その下は素っ裸のようだ。ショーは終わったのか。その足元では、息絶え絶えの和らげな肉体が横たわっている。全裸姿の百合子さんだ。
 そこに小柄な女が近づいた。女の顔は、ここからではよく分からない。
 女に促されてか、勝野さんが布団の横に置かれていた椅子に腰掛けた。そして一旦、足元の百合子さんを見下ろす。
 俺の位置から、勝野さんが座った事で女の顔が見えるようになった。
 その瞬間、心の中で驚きの声を上げてしまった。同時に心臓の鼓動が跳ね上がった。
 小柄な女は冬子だったのだ。


 冬子が手をマイクの形にして、徐ろに勝野さんに向けた。インタビューの真似事か。
 息を詰めた俺の視線の先で、冬子が言葉を発する。
 「○○○○○○○~~」
 それは日本語のようだったが、小さくて何を言ったか分からなかった。続く言葉も聞きづらかったが、インタビューごっこをしているのは間違いない。勝野さんがウンウンと頷いているのだ。
 冬子の質問が途切れたところで、勝野さんが顔を上げる。すると人集りに向かって言葉を発した。
 「そうですね、ふっと酔える瞬間があるものなのです」
 勝野さんの言葉は冬子と違って、大きくハッキリと聞こえた。
 その言葉を、冬子が中国語に換えて客達に通訳し始める。それが終わると「○○○○○○~~」又も聞き取りづらいが日本語による質問が始った。
 今度の質問は長かった。
 それでも勝野さんは落ち着いて日本語で答える「秘密を隠し持つのは快感の一種だったんです。でも、その秘密を吐露するのもまた快感 。なぜならその秘密が私達夫婦に深みを与えるものだったからですよ」
 その勝野さんの言葉も又、冬子が客達に通訳した。
 冬子がした質問は、どんなものだったのだろうか。そしてそれは、冬子が考えたものなのか。いや、それは無いだろう。余興の一環として、張さんか周さんが考えたのではないか。
 俺はそっと目の前の二人の大柄な男の顔を覗いた。二人は何やら言葉を交わしている。勿論、中国語だから分からない。
 俺の肘が引かれた。キムさんの目が、こっちへと云っている。
 「お二人の会話、気になるんでしょ。ちょっとだけ通訳してあげるわ」俺にだけ聞こえる声で、キムさんが囁いた。俺は静かに頷いている。
 「では」キムさんが声を潜めてーー。
 『勘どころを知り尽くした相方とセックスする時でも、相手を支配するつもりでないとねぇ』
 『仰る通り、獣的な交尾でも自分の快感は二の次。その為には男は射精を目的にしてるようではダメだからね。その点、勝野さんはさすがだ』
 『はいはい分かります。それにね、百合子さんにドサ回りのストリッパーのような味が出て来たからね。私的には、それが生々しくて淫らな性を感じるんだよね』
 キムさんがそこまで通訳し終えたところで、肩を竦めた。張さん周さんが、チラリとこちらを向いたからだ。


 コホン、キムさんが咳払いをして笑みを作った。
 「さて、そろそろ戻りましょか。沙紀ちゃんの仕上げも終わってるでしょ」
 俺は頷き踵を返そうとして、もう一度だけ勝野さん達の様子を見届けようと前を見た。
 そこでは百合子さんが上半身を起こして、勝野さんに枝垂れ掛かるように膝に頭を乗せていた。
 この夫婦にとって淫靡なセックスショーは、互いの信頼と愛情を確認するスパイスだったのか。そしてこの様なショーを披露する事が病みつきになっているのだ。それにしても、今ほどの張さんと周さんの会話、あれの意味するところは何だったのだ。勝野さん夫婦は、張さん達の思惑通りに成長しているという事なのか。
 そんな事を考えながら、俺はキムさんの後に続いて控え室へと戻って行ったのだった。