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第42話
俺は初めて会う張さんの前で、身体を強張らせていた。
目の前の歪んだ口が、ついに沙紀の事を喋り始めたのだ。
「そう、小姐(シャオ)の情緒が不安定に見えたので、精神が安定するツボを圧してあげようと申し出たわけですよ。彼女は旦那の不始末を早く謝罪したかったようだけど、貴女も被害者だからと慰めながらね。しかし彼女は、私の指圧を受けながらも謝って来ましたよ、こう首を後ろに向けるようにしてね」
頭の中にはうつ伏せの体勢の沙紀が、腰の辺りを揉まれながら首を亀のように伸ばして、振り向きながら何度も詫びる様子が浮かんで来た。
「そのうちに小姐は、落ち着きを取り戻してきたので、私は一応言う事だけは云っておきましたよ」
それはどんな?俺は心の中で黙ったまま問いかけた。張さんはこちらの声が聞こえたのか、歯切れよく応えてきた。
「貴女の御主人が強姦したのは私の恋人の冬子で間違いありません。酒を飲んでたとはいえ、か弱い女性を力付くというのはいけません、とね」
瞬間、俺は心の中で唸りを上げた。飲んだのは酒ではなくて、怪しいドリンクと言いたいところだ。しかし今更、それは云えない。それに、冬子とセックスしたのは間違いのない事だから。
「砺波さん、そこまで言ったら小姐は先ほど以上に謝罪の言葉を口にし始めましてね。それが止む事なく続くもんだから、私も尋ねましたよ」
「そ、それは何て…」俺の口から、やっとの事で小さな声が発せられる。
「ええ、逆に貴女は何をしてくれるんですか、それはよく聞く誠意と言うやつですか、ってね」
「さ、沙紀はそれで…」
「ああ、沙紀さんと言う名前でしたね。ええ、彼女は何でもしますから、と云いましたよ」
「何でもですか…」
「はい。なのでこちらも正直に云いました。私、エロチックな事が大好きなんです、するのも見るのもってね」
ううっと、驚愕の唸り声が漏れた。
「でも、この場で私からセックスを誘うわけにはいかないでしょうと。そんな事をしたら貴女の御主人と変わらないからねと」
「じゃ、じゃあ、何を…」
「ええ、その時もう一人そこにいましたからね。はい、金(キム)さんです。彼と今から、ここでセックスして私を楽しませてほしいと云いましたよ」
ああっ!又も唸り声が漏れた。同時に、身体の中を電流が走り抜けた。
俺は口が開いたまま、目の前の男を見詰める。張さんの口元が歪な形で吊り上がっている。
「ふふっ、沙紀さんも今の貴方と同じように驚いてましたよ。けれど肝が座っているのか、懺悔の気持ちが強いのか、私が納得するならと申し出を了解しましたよ」
「本当ですか!」
「ええ、本当ですよ。それに、貴方への当てつけの気持ちもあったのかもしれませんね」
うっ!俺の中を、またしても電気が流れていった。確かに沙紀は、妙に責任感が強く、それに思い込みも人一倍強いのだ。
「沙紀さんはね、私がキムさんに了解を取ろうとする前に、キムさんお願いしますと三つ指をついて頭を下げましたよ。その時、日本人は何て素敵な人種なんだと思いましたね」
そこまで云い終えた張さんが、初めてグフフと薄く笑った。口元からは真っ白で綺麗な歯が覗く。しかし、眼差しからは笑った気配など全く感じられない。
静まった部屋の中、俺の身体の中は冷たく、しかし得体の知れない何かが蠢き出した感じがした。視線を何処にやればいいのかと、そっと隣を見た。勝野さんも百合子さんも、人形のように身動きしていない。この夫婦には、事の成り行きが分かっていたのだろうか。
コホン。態(わざ)とらしい咳払いが聞こえた。
「どうしたんですか砺波さん。顔には続きを聞きたいと描いてありますよ」
えっ、声と同時に背筋が伸びてしまった。そんな俺を、細い目が更に狭まり見詰めて来る。
「あの、まさかその場で…」
「ん?ああ、そうですよ。キムさんもずっと隣に居たわけだしね」
「と言う事は、このマンションですよね…」俺は怖々、視線をクルリと廻した。
「はい、ほら」
張さんが顔を向けたのは、奥に見える木彫のドアだった。
「あの奥の部屋で、二人は絡みを見せてくれましたよ」
あっけなく告げらた言葉に、先ほど感じた得体の知れない何かが膨らんでいった。ソレを抑え込もうと唾を飲み込む俺。
「それから直ぐに、二人はそれなりの痴態を見せてくれましたよ。キムさんの事はよく知ってましたが、沙紀さんの事は知りませんから楽しみでしたよ。そうそう、彼女は欲求不満が溜まってたみたいですね」
「ええっ!そんな…」筈は、と続けようとしたが、舌が絡まってしまう。
「そう、それで二人には泊まってもらったんですけど、私が寝た後も…フフフ、やってたかも知れませんねぇ」
「ああ…」
「そして今日も、勝野さん達が来る前にも、もう一度見せて貰いましたよ」
と言う事は、沙紀は昨日からこのマンションで、キムさんとずっと肌を合わせていたのか。
「ですが、沙紀さんも御主人と顔を合わせづらいでしょうから、午前中のうちに帰って貰いましたよ」
「じゃあ…」
「はい。真っ直ぐ帰ったなら、今頃はご自宅に居るんじゃないですか」
張さんが口を閉ざした後は、再び静けさだけを感じた。隣の勝野さん夫婦も黙り込んだままだ。俺の中では、沙紀が金田さんことキムさんとセックスしたと聞かされても、既に勝野さんと交わった事実があるからか、特に怒りが浮かんで来る感じがしないのだ。それよりも。
「ふふっ、どうしました砺波さん。何か想像を働かせようとしてますか。私の知る日本人にはムッツリスケベと言われる人がいますよ。貴方もそのタイプですか」そう云って俺を見詰めながら、張さんが口元を更に歪めている。
「では、あっちの寝室を見てみましょうか。想像がもっと膨らむかもしれませんよ」云うなり、張さんがユッタリとした動作で立ち上がった。どうやら、奥の木彫のドアの方に行くようだ。
俺がフラリと立ち上がると、隣でも勝野さん夫婦が立ち上がっていた。
ドアの前で「どうぞ」と張さんがノブを回した。
大柄な身体に続いて入ると、暗がりの中に白っぽい膨らみが見えた。パチパチっと灯りが点くとそれの様子が分かった。ベッドの上で、毛布が丸まっていたのだ。
「さあ遠慮しないで」張さんがベッドの奥側へ進むと、俺達をベッドの際へと手招きした。俺の隣に勝野さん、百合子さんが並び、視線は自然とベッドへと注がれた。
するとゴクリ、無意識に唾を飲み込んでしまった。その音を聞いてか、張さんが薄い笑いを立てたのが聞こえた。
「砺波さん、遠慮しないで顔を近づけて下さいよ」
何が遠慮なのか、俺はどう振る舞えばよいのか視線が彷徨ってしまう。
「あぁ何だか…」その時、百合子さんの小さな声がした。
「うん、この臭いは…」隣からは勝野さんの声。
二人の声に、俺は臭いを嗅ぐようにそっと息を吸い込んだ。
確かにこの臭いは。
「フフフ」
今度はハッキリと聞こえる張さんの笑いだ。
「分かりますか。二人が帰った後は、もっと凄い臭いがしてたんですよ。キムさんも…いや、沙紀さんの方の欲求が強かったんですかね。部屋いっぱいにオスとメスの臭いが充満してたんですよ」
そう、俺の鼻孔は確かにその臭いを感じていた。男と女の情痴の後の臭いだ。
「おや、ここにティッシュが落ちてますね」
張さんの声に視線を向ければ、間違いなく丸められた白い塊がいくつか落ちている。そんな俺の視線はゴミ箱を探していた。まさかゴムは…そんな事まで浮かんでしまう。
「どうですか砺波さん、奥様の残り香を感じますか」
「え、いや、その…」
「遠慮しないで想像を働かせて下さいよ。奥様…沙紀さんの肢体が見えてきませんか?」
意識の奥から、沙紀の肉体、そして、あの時の声が聞こえて来るようだった。沙紀は本当に欲求不満だったのだろうか。結婚前の不倫相手、上司だった外科医との愛欲の日々でも思い出していたのだろうか。
「さて、もう良いですか」
俺の思考を遮ったのは、落ち着き払った張さんの声だった。それにしてもこの男は、沙紀と知人の交わりを黙って見ていただけだったのだろうか。心の中に、改まって疑問が浮かんできた。しかし、ここでそんな質問は出来やしない。
「さあ、あっちに戻りましょうか。お茶を淹れ直しますよ」
「それはアタシが」横から百合子さんが口を挟んできた。
「そうですか。コーヒーでも紅茶でも、場所は分かりますよね」
「はい、大丈夫です」
「では砺波さん、貴方はこの部屋を綺麗に片付けてから来てください」
俺はその声に、一瞬にして心臓が縮んだのだった。