第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話 第13話 第14話 第15話 第16話 第17話 第18話 第19話 第20話 第21話 第22話 第23話 第24話 第25話 第26話 第27話 第28話 第29話 第30話 第31話 第32話 第33話 第34話 第35話 第36話 第37話 第38話 第39話 第40話 第41話 第42話 第43話 第44話 第45話 第46話 第47話 第48話 第49話 第50話 第51話 第52話 第53話 第54話 第55話 第56話 第57話 第58話 第59話 第60話 第61話 第62話 第63話 第64話 第65話 第66話 第67話 第68話 第69話 第70話 第71話 第72話 第73話 第74話 第75話 第76話 第77話 第78話 第79話
第59話
品川の勝野邸ーー。
このマンションに来るのは、あの冬子の件で謝罪に訪れた時以来だった。
部屋には百合子さんしか居なかったが、勝野さんもわざわざ帰って来てくれるとか。
「ご、ご無沙汰しています…」リビングに通された俺の第一声は、久し振りに会う緊張に震えてしまっていた。
当の百合子さんは、記憶通りのセミロングの黒髪だったが、最近美容室にでも行ったのか一層綺麗に整って観えた。そしてそれも、中国からのお客達を迎え入れる心構えの一つなのかと思ってしまった。
「どうしたんですか砺波さん、突っ立ってないで座ったら」百合子さんがキッチンから声を掛けてきた。
俺は百合子さんに軽く頭を下げ、ソファーに座った。
百合子さんが盆を持ってやって来る。乗っているのは、二つのグラスにウイスキーボトルと氷のようだ。
「砺波さんは車でしょ、だから冷たい紅茶ね。私は」
ウイスキーを濃いめで、と呟いて百合子さんが自ら水割りを造り始めた。
俺はグラスを持つと、乾杯の仕種をしてから口を付けた。
喉を潤し前を向くが、妙な緊張は続いている。目の前の清楚に観える婦人は、修善寺の温泉旅館で俺が間違いを犯した相手なのだ。目を瞑れば、あの時の肢体を思い浮かべるのは容易い筈だ。勿論、股間のTATTOOの事も。
「ねぇ砺波さん、どうしたの。相談があるから来たんでしょ。それとも主人が帰って来るまで世間話でもして待ってる?」と、百合子さんが薄く笑った。
俺の方は「そうですね…いや、そうじゃなくて…」と、シドロモドロだ。
「ふふっ、今日の砺波さんは何か可笑しいわね。それより沙紀さんは元気?上海はどうだったの」
「あ、上海ですか」
「ええ、うちの主人は御一緒しなかったけど、どうだったのかしら…なんて、実は金田(キム)さんから大まかなところは聞いてるんですけどね」と、今度は意味深な笑みを浮かべている。
「じゃあ知ってたんですか…」
「そうね。それに張さん達を接待する時のパーティーの内容は、だいたい分かってるつもりだしね」
「え、そうなんですか」
「そうよ、私達だって沙紀さんと同じような事をして来たのよ」
「えッ、じゃあ!」
口元を歪めた百合子さんに、俺は目の前の人の痴態を想像しようとしてしまう。
「うふふ、周さん」ボソリと百合子さんがその名前を呟いた。そして俺を、何かを問うように見詰めた。
「周…さん、って知ってるんですね?」
「…そうね、張さんのお友達だし、何回か会った事はあるわ」
「そうですか…その周さんって人が今度来るんですよね」
「ええ、そう聞いているわ」
「………」
百合子さんの返事の後は、何を言えばいいのか言葉が出なかった。ただ、百合子さんが身構えた感じからも、癖の強い男なのは間違いない。
「それよりね」
声に顔を上げれば、百合子さんが身を乗り出している。
「沙紀さんとキムさんはあっちで、二人の愛し合う姿をお客様達にお見せしたんでしょ」
百合子さんがサディスティックな色を浮かべた瞳で、俺を窺ってきた。俺はつい、唸り声を漏らしてしまう。
「あら、砺波さんの目、そんな風に釣り上がってたかしら。まあ、云いづらい事よね」
「………」
「じゃあ、それは置いといて…。箱根の事でしょ」
一呼吸置いた百合子さんを、俺は見詰め返す。
「沙紀さんがどんな役回りで接待するかは、私にも分からないけど、色々と気は使わないといけないでしょうね」
「やっぱり、そうなんですか」
「あの人達…その中国からの人達ね。彼等はとにかくお金持ちで難しい人種ではあるんだけど、気に入られたら組みやすいと言うか良いお客様なのよ。だからなるべく、気分を害さないように接しないとダメなのね。勿論、殆どの人がお酒好きで、酔っ払ったら凄い事も言って来るけど、なるべく要望に応えるように、ね」
「あの…それが所謂性的な事なんですかね…」
「ふふっ…そうよ」
云い終えると、百合子さんが口元を歪めて微笑んだ。まるで妖しいマダムのような笑いだ。
「そう、そんな接待を続けて来たから私達もこれだけの暮らしが出来てるわけね。中国人なんてと周りで言う人はいるけど、お金を出してくれる人の事は悪く言えないもの」
百合子さんの言葉に黙り込んだ俺だったが、心の中では頷いていた。確かに間違いなく、当たっている部分はあるのだ。
「さてと、私なんだかお酒のせいかしら…砺波さんが暗いから別の話しようかな」と、百合子さんが又も身を乗り出して、妖しい瞳を向けて来た。
「ええっとねぇ、何年前かなぁ、私達夫婦が上海に行った時の話…って、修善寺の温泉でもした事なんだけどね…」百合子さんがニヤリと微笑む。
その時、ピポーンとインタフォンの音がした。
百合子さんがモニターに出てて暫くすると、勝野さんが部屋に上がって来た。
リビングに入って来るなり、勝野さんがニヤニヤと笑みを寄こす。「やあ砺波さん、久し振りですね」
久し振りに会う勝野さんは、身体全体からエネルギッシュなオーラを溢れさせていた。おそらく仕事が充実しているのだろう。
「ご無沙汰しています」俺は勝野さんの目を見て、軽く頭を下げる。
「まあ座って下さい。これから連絡があって、砺波さんが来るって言うから予定を変更して戻って来ましたよ」と、百合子さんを顎でしゃくり、勝野さんは俺の前のソファーに腰を降ろした。
入れ替わるように、百合子さんがキッチンの方へと立ち上がる。
「えっと、あれでしょ。張さん達の接待の事で、ここに来たんでしょ。私達も金田(キム)さんから訊いたけど今回は箱根なんだよね」
「はい、そう聞きました。やっぱり中国の人も温泉がいいんですかね」
「ん~どうなんだろうね。まあ張さん達御一行を初めて接待した時も温泉だったんだけど、その時に気に入ったんじゃないかな。それからはずっと温泉を巡ってますよ」
勝野さんがちょうど言い終えた時に、百合子さんが飲み物を持って戻って来た。
「貴方はビールですよね」
頷いて受け取り、勝野さんが足を組む。
「それで、あっちでの立ち振る舞い方とか、その辺が心配なんでしょ」と、見越した口調で勝野さんが軽く笑う。
俺は勝野さんの隣に腰を降ろした百合子さんをチラリと見てから、そうなんですと返事をした。
「あなた、砺波さんには大体の事は私の方から話たのよ。とは言っても、あとは向こうで気配りするしかないと思うんですけどね」
「その通りだな。そう、日本人は気配り上手だから。砺波さんは一流の営業マンだし大丈夫でしょ。中国語は分からなくても、一緒に酒を飲んで下ネタに下品な笑顔を向けてれば直ぐに打ち解けますよ」
目の前から振り掛けられる言葉は、最もだと理解出来るのだが、俺の心配とは沙紀に対してどう接すればいいのかと言う事なのだ。
コンパニオンの立場の沙紀と、その夫の俺なのだ。それにお客達は、キムさんと沙紀の関係だって知っている筈なのだから。
「どうしましたか、砺波さん」
「いや、あの、向こうで沙紀の夫として、どう言う風に振る舞っていればと…」
「ああ、そうだね。でも、それは敢えて言わず黙っていればいいんですよ。あくまでもスタッフとして行ってくれればいいんですから。旅行の添乗員のつもりでいれば大丈夫ですよ。それにメインはその夜の宴会だから、そこでボーイになったつもりで気を配っていてくれれば。後はこっちでやって、適当な顧客がいたら砺波さんにも紹介しますよ」
「いや、紹介は不味いんじゃないですか」
「まあ、その辺は成り行きでね」そう云って勝野さんが笑った。その隣では、先程から百合子さんが意味深な笑みを浮かべていた。