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第47話
山手の実家で、沙紀は義母からも転職の同意を得てしまった。
それから間もなくして、沙紀は叔父の会社を辞めて、正式に金田(キム)さんの会社へと移ったのだった。たしか名前は『サライ交易』と言う東京の港区にある会社だ。
都内への通勤となると、沙紀はこれまでより30分以上は早く家を出ると思っていたが、意外な事に朝は以前よりもユッタリしていた。聞けば出社は10時が目安で、細かい事はあまり気にしないでいいらしい。そんなところにも、ブロークンな匂いを覚えずにはいられない俺だった。
それよりもだ。
これからほぼ毎日、愛人の男と顔を合わせて沙紀は、いっそう変わっていってしまうのかと、俺の心の内は嫌悪感…いや、それを上回る嫉妬心が渦巻いていた。俺は沙紀を信じて日々を送るしかないのかと、焦燥感に苛(さいな)まれるのだった。
沙紀が『サライ交易』に行くようになって、ちょうど10日目の事。世間的には、そろそろ夏休みの話題が出る頃だった。
俺がシャワーを浴び終えて、缶ビールを手にした時、沙紀も缶ビールを手に持ち俺の前に寄ってきた。
「聖也くん、あのね、実は週末から出張に行く事になりそうの」
「えっ、出張なんてあるのかよ」
「うん、アタシも急に云われてビックリしてるんだけどさ」
「それってやっぱり、接待をかねての事なのかな」心の奥から不安の芽が顔を出してくる。
「たぶん、それもあると思う…」
「そうなんだ、仕事なら仕方ないと思うけど…で、何処まで行くの?」
「それがね」沙紀の表情が不安げに暗くなっている。
「何処なんだよ」ビールをテーブルに置いて、俺が聞く。
「うん、中国なの…」
「何っ、中国!?」
「そうなの、上海って言ってたわ」
「おい、いきなり海外かよ」
「ごめんね、聖也くん」
「んんっ、金田(キム)さんもそれはムチャじゃないのかよ…なあ」
「うん、キムさんも困惑してた。と言うのも、張さんなの。張さんが会社に来て、直接キムさんに云ったみたいなのよ」
「え、張さんが来たの!」
「そう、それでキムさんも断れなかったみたい」
俺は久しぶりに聞く『張さん』の名前に緊張を思い出していた。そんな俺を、沙紀が心配げな眼差しで覗き込んでくる。
「それでね、キムさんが直接聖也くんに説明するからって…」
「どう言う事?」
「うん、今夜ここに来るの」
「え、家(うち)に!?」
「そう」
沙紀が口にした丁度その時、インタフォンの音がした。
モニターに出た沙紀の横顔を見ながら、俺は緊張の高まりを自覚した。キムさんと会うのは、あの時以来だ。あの時とは、ここの寝室のベッドに裸の沙紀とキムさんを目撃した日だ。
モニターを切って、沙紀がこっちを向く。唇を結んで、軽く頷き掛けて来る。
張さんへの謝罪の証として、今もキムさんと肌を合わせる沙紀。沙紀の心情はどんなものなのだろうか。二人の間に心の変化はあるのだろうか。
暫く続いていたそんな思考が途切れたのは、部屋のインタフォンが鳴ったからだった。沙紀がチラリと俺を見てから、玄関に向かった。
「遅くに失礼します」
ドアが開いた音と同時に聞こえて来たのは、久し振りに聞くキムさんの声だった。
足音が近づいてきて、俺は息を整えて立ち上がる。
「ご無沙汰しています」俺を見るなり、キムさんが頭を下げた。言葉のイントネーションは、今日は標準語だ。
「こ、今晩は…」
強張った俺の挨拶など気にする素振りもなく、キムさんは沙紀に軽く頷くと「失礼」と、前のイスを引いた。俺は会釈しながら腰を降ろした。
「その顔は沙紀ちゃんから聞いた顔ですね、出張の事」
腰を降ろすなり、キムさんが俺を見据えてくる。俺は黙って頷き、顎を引いた。
「実は私も、まだ早いと思うんだけど、なんせ張さんのご指名なんでね」
「え、今まだ早いって言いましたっけ…それはどう言う」
「聞いたんでしょ?接待ですよ」
「いや、それは聞きましたけど…」
「ふふふっ、なるほど。砺波さんはその接待の内容が気になるんですね」
「え、ええ、まあ…」俺は苦いものを噛み締めるように呟く。
「この間の勝野さんが開いたパーティーみたいなのを向こうでもやるんですが、そこのコンパニオンを沙紀ちゃんにもやって貰いたいとご指名なわけです」
俺はキムさんの言葉を一句一句噛み砕くように聞いている。そして考える事といえば、沙紀がコンパニオンとしての接待だけで済むのかと言う事なのだ。
「ひょっとして砺波さん、沙紀ちゃんがお客のセックスの相手をするとか想像してます?」
「え!いや、そんな事は…」
「ふふっ、そうだよね。沙紀ちゃんは貴方の不始末の為に、私には身体を許してますが、他の見ず知らずの男にはね」
落ち着いた口調のキムさんの声にも、俺の胸の中には得体の知れないものが流れ落ちていった。
「あの、沙紀の仕事は通常のコンパニオンの業務と思っておけばいいんですよね」怖々と俺は唇を動かす。
「んん、まあ、それで大丈夫だとは思いますが、パーティーの状況によって、お客の為に身体を張らないといけない事態が来る事もあるかもしれませんね。もちろん私もですけど」
「身体を…張る、ですか…」
「ええ、そうです。過去には私や勝野さん夫婦も経験した事なんですよ」
「それは、具体的にはどんな…」
「そうですね、お客様達の前で男女の交わりを披露したりとかですよ」
「なんですって!」
「まあ、一部のお客に変わった趣味の持ち主がいるんですよ。砺波さんも分かるでしょ、金持ちには変わったのが多いから」
「ああ…それにしたって」
「でも、まあ、必ずやるとは限りませんから。ただ、心構えとして持っておいて貰えればと思うんですよね」
そこまで云ったところで、キムさんがウンウンと頷いた。そして顔を沙紀に向けた。
「しかし暑いね。沙紀ちゃん、ビールでも貰おうかな」
キムさんの言葉に、青白い顔のまま黙っていた沙紀が、慌てて頷いた。そして急いで、冷蔵庫の方に足を向ける。
沙紀が持って来た缶ビールを開けると、キムさんが軽く上げて乾杯の仕草をする。しかし俺の方は、身体は硬く、顔は強張っているに違いない。
ビールをゴクゴクと飲み干し、一息付いてキムさんがビールをテーブルに置く。
そしてーー。
キムさんがまたしても俺の胸を焦がすような話をしたのだった。