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第63話


 俺は助手席に沙紀を乗せて、高速道路を箱根方面に進んでいた。当初はキムさんの同乗も覚悟していたが、あっちは都内に宿泊していた客達と電車で行くらしい。
 沙紀とこうして車で遠出するのは、伊豆の修善寺に行った時以来だ。しかし、気持ちの持ち用は、あの時とは全然違う。俺は緊張を覚えながらハンドルを握っていた。


 運転は概ね順調に進み、予定していた4時より30分ほど早く、目的の宿に到着した。途中何度か、避妊薬の事を話そうかと思ったけれど、生々しさに口が竦んで話す機会は掴めなかった。
 重い気分のまま車を降りて、建物を見上げる。目に付く外壁はいかにも最近、塗り直したようだが黄色に薄い紅色と、全くもってセンスの感じない色使いだ。
 規模的にも中規模の観光ホテルといった感じで、中の施設も大して期待出来ない気がする。


 一応のメインエントランスから中に入ると、何名かのスタッフが迎えてくれた。
 フロントに案内されると、カウンターには3名の女性スタッフがいた。皆んな揃いのブレザーを着用している。
 俺達は出された宿泊カードに記入した、その時だ。目の前にいるスタッフの名札プレートが目についた。見れば『李』と、ある。その隣を見れば『黄』に『王』だ。
 このホテルはあんた達が買収したのかよと、思わず訊きそうになってしまう。
 そんな俺と沙紀に、それぞれ1枚ずつ部屋のカードキーが渡された。俺達は別々の部屋を充てがわれたようだ。
 そして、封筒もそれぞれに1枚ずつ渡された。これはウェルカムレターか。
 「聖也くんの部屋は?」暗い表情の俺に、沙紀が訊く。
 「3階、302」俺はぶっきらぼうに答えた。
 「アタシは4階…402ね」沙紀も心なしか暗い声で呟いた。


 カウンターから『黄』と『王』が出て来て、俺と沙紀のキャリーケースを持って歩き始めた。その後ろ姿を追い掛けながら、ウエルカムレターを開けて見る。それはキムさんがよこしたものだった。
 内容はーー到着したらメールでいいので知らせて下さい、砺波さんは4時半になったら部屋に来てほしい、とあった。そして、キムさんの署名と部屋番号が書かれていた。
 沙紀のレターを見せてもらうと、内容はーー部屋で待ってます、の一行とキムさんの署名に部屋番号だった。それを見た瞬間、俺はまさかと思い、沙紀に確認する事にした。
 「沙紀の部屋って…」
 俺の問いに、沙紀がカードキーのホルダーを確かめてから目の前に上げた。
 それは間違いなくキムさんの部屋番号だった。俺は一人部屋で、沙紀とキムさんは同じ部屋なのだ。又もあのピルケースの事が頭を過ぎってしまう。
 エレベーターに乗っても、重々しい空気が続いた。俺達のキャリーケースを運ぶ中国人従業員も押し黙ったままだった。


 先に3階で降りて、部屋に案内された俺。部屋では片言の日本語で避難通路の事などの説明を受けた。聞きづらい所はあったが、質問する気は失せていた。
 チェックインした事をキムさんに連絡しようと思ったが、沙紀と一緒ならその必要もないだろうと、そのままにしておく事にする。
 キャリーケースの中身を出す気もおきず、狭い部屋の小さなベッドで仰向けに転がった。今ごろ沙紀は、キムさんと対面の口付けか。
 暫く目を瞑っていると、そのまま寝入ってしまったようだった。
 気が付いたのは、部屋の電話がなっていたからだ。慌てて起き上がって、スマホで確認すれば4時32分。1時間近くも寝落ちしていたみたいだ。
 電話の相手は沙紀だった。俺は「直ぐ行く」と告げて部屋を出た。


 二人の部屋は、当たり前のようにツインの部屋だった。
 二つのベッドの向こう、窓際にあるソファーには沙紀が座っていた。部屋を包む空気は何とも形容しがたい感じで、胸がギュッと痛くなってくる。そんな俺を察したか、キムさんが申し訳程度に会釈した。
 「砺波さん、お疲れ様でしたね。とはいっても、これからが本番なんですけどね」
 社交辞令にもならない挨拶を受けて、俺も一応に頭を下げておく。
 「部屋は、まあ見ての通りです。この宿にいる間も私と沙紀、二人は夫婦以上の連れ合い同士と言う事でね」
 キムさんが何を云おうとしたかは、そんなものは直ぐに理解出来た。二人がどうのこうのと言うより、俺は下僕として振る舞えと言う事なのだろう。


 沙紀の様子をチラリと見てから、キムさんが今日明日の事に付いて、色々と話し始めた。
 まず驚いた事に、客人達は既に宴会場で盛り上がってると言うのだ。
 一向は全部で20人。全員が男で年齢は30代後半から40代が一番多く、最高齢で65歳との事だった。そんな奴等が、日本で調達された5人ほどの中国人コンパニオンと遊んでいるらしい。
 今いるコンパニオンに片言の日本語が喋れる者は少しで、張(ちょう)さんの彼女の冬子が通訳を兼ねているのだとか。
 冬子の名前を聞かされた時は、ハッキリいって良い気がしたかった。今回、彼女がここに来る事は覚悟していたが、実際に告げられると苦い記憶が蘇って来る。


 キムさんの話では、宴会場でのお遊び…といっても、どんな遊びかは分からないが、それはもう直ぐ終わるだろうと。その後は各自が温泉に浸かるなどして寛ぎ、6時半頃から夕食だと。 
 沙紀はそこで、コンパニオンとして振る舞うのが役目なのだ。何でも今回の一向は殆どが初めての日本で、芸者を期待してるらしい。そこで沙紀達女性は着物姿で、接待するのだとか。その様な企画を立てたのがキムさんと張さんで、中国人客を斡旋したのが周(しゅう)さんとの事だった。言わば周さんも持て成す側の一人で、それなりに気を使っているらしい。
 俺の役目はといえば、食事の場ではボーイとして御世話係をやってほしいと。そしてそこでの余興で「さて、ふふふ」とキムさんは笑うだけだった。


 「じゃあ、砺波さんは私と一緒に宴会場を覗いてみますか。沙紀は先に温泉に浸かって、肌を潤しておいて。食事の時も口にする機会は殆ど無いだろうから、何処かで適当に腹に入れておいて」
 いつの間にか、沙紀も隣で話しを訊いていた。沙紀は「そうね」と同意を示すように素直に頷いた。
 二人の様子は、段取りの打ち合わせをする完全なパートナーではないか。又も俺の中から、苦いものが込み上げてくる。


 部屋から廊下に出てエレベターに乗る。目的の宴会場は最上階の7階だった。
 館内の様子はかなり年季が入っているように観えて、綻んだ部分だけを見栄えが良いように適当に造作した感じが窺える。この手の作業の仕方も中国人っぽい気がして、歩き始めたキムさんに訊く事にした。
 「このホテルって、やっぱり中国人の持ち物なんですかね」
 「ん、やっぱりって正解ですよ。私も始めて来たのですが、そう思ったので張さんにも訊いてみましてね。そうしたらあっさりと教えてくれましたよ」
 「ひょっとして経営者は張さん…?」
 「いえ、所有してるのは別の中国人で、運営自体は日本にある中国企業みたいですね」
 「そうなんですか」
 「ええ。でも業務の一部は、日本の旅行業者と提携してるって云ってましたね」
 俺は噂でしか知らなかった現実を知って、少し嫌な気がした。このまま行くと、日本の観光地は彼等に侵食されてしまうのではないか。


 「砺波さん、他に訊いておく事はありませんか。私も忙しくなりますからね」
 キムさんの言葉に何かないかと考えてみた。が、俺の心配事は沙紀と…そしてアンタとの事なんだよと、思い付いたが口にする事は出来なかった。
 そんな俺の口は「そう言えば勝野さん夫婦は明日なんですよね」と、ここまで話題になかった事を尋ねていた。
 「ええ、勝野社長は契約を一本終えてから来ますから。そうそう、そのお客さんも張さんの紹介ですよ」
 キムさんが口にしたその名前に、この宿でまだ会っていない張さんの顔を思い浮かべた。40半ばにも観えるし50後半にも観える年齢不詳の人物。オールバックの髪に、薄く冷たい目を持ち、身長は180以上で俺より遥かにデカい巨漢の男だ。
 張さんの容姿を思い返していた俺の足は、キムさんに倣って突然に止まった。
 目の前には、臙脂色に塗られた大きなドアがあった。ドアの上には、横文字で『鳳凰の間』の看板。
 ここが目的の宴会場なのだ。
 キムさんが徐ろにその扉に手を掛けた。
 そして、中に足を運んだ俺は、いきなりの光景に声を上げそうになったのだった。