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第21話


 会社の後輩から、沙紀が品川駅で黒髪の美人と会っていた、と聞かされたその日の夜、家に帰ったのは夜の8時を少し過ぎた頃だった。
 俺の帰宅時間は、概ね7時から8時といったところで、会社を出る時にLINEをするのが、一種の決まりになっていた。
 沙紀は俺の帰宅時間によって、先に夕飯を食べる事があれば待ってる時もある。今夜の沙紀は、既に夕飯を終えていて、ダイニングテーブルには俺の分だけが用意されていた。


 「お帰りなさい、先にお風呂入るでしょ。お夕飯は温めておくね」
 いつもと変わらない様子の沙紀だったが、俺の目は沙紀の表情を観察するように窺っていた。
 マンションは3LDKで、俺は書斎にしてる部屋に鞄を置くと、まずは風呂に向かった。
 湯船に浸かって考える事と言えば、今日の後輩の話を沙紀にどのように話すかだ。
 品川の店でお茶をした事など大した事ではない。まして相手は女性なのだし。それよりも俺に内緒で仕事を休んだ事だ。そしてそれを、前日にも、その日のうちにも何一つ話さなかった事が気になっているのだ。


 浴室を出ると、そのままリビングに行った。ダイニングテーブルには、温め終えた料理が乗ってある。沙紀はソファーに座って本を読んでいる。チラッと見えた背表紙は『自己啓発もの』の類のようだ。
 俺は沙紀の横顔をチラチラ覗きながら食事を進めた。テレビは点けっぱなしだが、頭には何も入って来ない。


 「聖也くんさぁ」
 俺が箸を置いたのとほぼ同時に、沙紀が本を閉じてこっちにやって来た。
 「今日はどうだった、忙しかった?」と、云いながら前の椅子に座る。
 沙紀の顔は、いつもの愛らしいものだった。しかし俺の顔は、強張っていたかもしれない。
 「あれ、何かあったの、それともお疲れ?」
 沙紀のその声に背筋が無意識に伸びて、俺はふうっと息を吐いた。
 「あのさぁ、聞くけどこの間の月曜日、仕事休んだ?」
 いきなりの俺の言葉に、沙紀の表情が一瞬にして歪んだ。沙紀の長所の一つはこういうところで、直ぐ顔に出るのだ。


 「どうして…何で知ってるの」
 沙紀のその情けない声に、俺の方も情けない気分になってきた。
 「後輩の奴がね、たまたま仕事で品川に行ったらしいんだわ。そうしたらそこで、ね」
 「ああ…アタシを見かけたのね」
 「そう言う事」あきらかに沈んだ声が、抜けるように落ちていく。
 「女の人と会ってたんだろ。それはいいんだよ。どうして、前の日に休むって云ってくれなかったのかな。俺としたらそっちの方が何か腑に落ちないんだよね」
 「ごめんなさい」
 沙紀の顔に影が落ちて黙り込んだ。ここまで暗いリアクションだとすれば、その相手にこそ問題があったのかと思ってしまう。
 「その女の人って何者?まさか怪しい投資詐欺の話じゃないよね」
 俺も詐欺の話なんて、これっぽちも思っちゃいない。沙紀は軽いところがあるが、猜疑心は強い方なのだ。冗談で沙紀の暗い顔色を変えようとしたのだ。しかし。
 「あのね…百合子さん」
 ポツリと零れてきたその名前は、直ぐには頭の中に入って来なかった。
 「百合子…」と無意識に呟いた時、記憶の奥から、あの姿が浮かび上がってきた。修善寺の野天風呂で痴態を曝していた女性。そして、俺が過ちを犯した相手だ。
 「思い出した?」
 窺うような声質に前を向けば、沙紀の何とも言えない目が俺を見詰めていた。
 俺は「ああ…」覚えてる、と呟いた。


 暫く時間の流れが止まったような感じがしていた。点けっぱなしのテレビの音は、相変わらず耳には入ってこない。
 俺はコホンと咳払いを1回して「修善寺の温泉で会った人だよね」と、落ち着いたつもりで訊いてみた。
 「そう、あの百合子さんから連絡があったの」
 「連絡?ちょっと待って、何で沙紀の連絡先を知ってるんだ?」
 「ああ、それはね、宿の人から聞いたんだって」
 「宿?どういう事だ」
 「百合子さんがね、アタシの忘れ物を持ってたの」
 「忘れ物?そんなのあったの」
 「うん、それを渡すのに、連絡先が分からないから宿に電話したんだって」
 「そんな事があったのか」
 「そう、宿の人もアタシ達が一緒に夕飯を食べてたのを知ってたし、仲良さそうに見えたから連絡先を教えたみたい」
 「そうだったんだ」
 「ほら、予約した時、連絡先にアタシのメアドと携帯番号を書いといたから」
 「それでメールが来たんだ」
 「ううん、電話があったのよ」
 「電話か、で、いつあったの」
 「日曜日」
 「なるほどね。でも、俺に黙ってたのは何が理由だったの」と聞いてみたが、心の何処かでは、この話は早めに打ち切った方がよい、そんな悪い予感が芽生えていた。
 「実はね…その時、百合子さんから、聖也くんに内緒で来てって云われたの…」
 沙紀の言葉に俺は、脇の下に汗が流れ落ちるのを感じたのだった。