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第58話


 次の日ーー。
 俺はいつも通りに仕事に行ったが、出張帰りの沙紀は休みをもらったようだった。実質キムさんと二人だけの会社なのだが、ボスが気軽に休みを認めてくれたわけだ。
 この日から例の動画ーーキムさんが上海で撮ったものの続編が来る事はなくなっていた。沙紀の話しっぷりからは、まだ視ぬものがあるようだったが、こちらから催促するのも癪(しゃく)に障るし、そのままにしておく事にする。気にならないと言えば嘘になるが、自重しようと自分に言い聞かせたのだ。
 このところの俺達夫婦の関係は、知る人が見れば普段と変わらないと言うだろうが、俺の内面に限って言えば不安と不穏、それと焦燥感、そんな言葉で現す事が出来たと思う。


 翌日から沙紀は普段どおり仕事に行ったが、向こうに着けばキムさんの言いなりに身体を許すのだ。その報告があった時だけ俺が沙紀を抱ける、そんな日常が続いて行くわけだ。
 沙紀はその後も、仕事から帰ると相変わらず刺激的な言葉を俺に投げ掛けてきた。
 『今日は中国から来たお客様を投資用のマンションに案内したの。勿論、社長も一緒に。アタシは短いスカートで接客したの。お客様が望めばその場で裸になったかも』
 キムさんが俺を想って沙紀に云わせたのか、或いは沙紀自身の悪ふざけか。
 『今日はね、事務所で契約だったの。契約のお礼に女体盛りをプレゼントしたの。胸からお腹、アソコの所までお刺身を盛って食べて頂いの。な~んてね』
 本当か嘘か、間違いなく嘘だと思うが、俺の頭はシッカリそのシーンを思い浮かべてしまうのだった。
 そうそう、沙紀の脇の毛はかなりボォボォになってきて、股間の方は伸びてきたと思ったらまた剃毛される、そんな事が繰り返された。剃ったのはキムさんだ。まさか沙紀が自分でなんて。
 そんな沙紀達に翻弄される日々の合間には、実家に顔を出す事もあった。
 そこに叔父もいれば、前にカフェで言われた『子供』の話を思い出す。更に義母の顔を見れば、その苦味が増していくようだった。
 『あら沙紀…貴女ひょっとしたら』
 沙紀のお腹辺りを見て、口を開いた義母は何を思ったか。まさか妊娠…そんなわけがない。単に太っただけじゃないのか。俺は心の中で苦笑いを浮かべるだけだった。


 実家に行った次の日。
 既に互いの夏休みの日程はハッキリしていたのだが「聖也くん、夏休みの日程はこの間聞いた通りで良いのよね」仕事から帰宅したばかりの俺に、沙紀が訊いてきた。
 俺は「ああ間違いないよ」と頷いて、どうかした?と視線を返した。
 「実はね、アタシの休みだけど、出張が入ったの」
 「何っ、またかよ!」一瞬にして体温が上がる。
 「うん、でも今回は国内よ」
 「だと、してもさ」
 「分かってるって。それでね、箱根方面なんだけど張さんが聖也くんも是非一緒にって」
 今度は、久しぶりに聞く『張(ちょう)』の名前に緊張が走り抜けた。
 いつかのパーティー会場で、酒の席で俺が手を出したとされる冬子。その冬子を愛人にしている張。俺に罰として、沙紀がキムさんの愛人になる事を認めさせた張本人だ。
 「ねぇ大丈夫でしょ、張さんの機嫌を損ねるのも不味いと思うの」沙紀が俺の顔を不安げに覗き込んでいた。
 「それにね、中国から投資家のお客様達がみえるんだけど、その中に周(しゅう)さんもいるのよ」
 周ーーもちろん忘れる筈がない。沙紀を縛ってムチで打ったサディストだ。
 「後で知ったんだけど、周さんって張さんの一番のお友達らしいのね。だから」
 沙紀はお友達と云ったが、俺の勘では二人は成金で不埒な関係の投資家達だ。それでも今の沙紀の立場、それに俺自身の気持ちを考えれば行かないわけにはいかないだろう。
 「分かったよ。ボディガードになるかどうか分かんないけどね」
 「うん、ありがとう。でもボディガードはキムさんもいるからね」
 そう云って表情を崩した沙紀に、キムさんがボディガードかよと、心で毒づいた。俺だってタックルが得意なラガーマンだったんだぞ、と。
 そんな事で、今回の夏休みは夫婦恒例の温泉巡りではなく、とんだ出張もどきになってしまった。実家には一応「今年も行ってきます。土産を楽しみにして下さい」と伝えておく事にした。
 義母の「箱根なんて珍しわね。中国人が経営する旅館じゃないわよね」と念を押す声は、妙に心に響いたのだ。


 出発の日が近づくに連れて、変な緊張も湧いてきた。これは武者震いかと思いながらも、怪しい妄想までもが夜な夜な浮かぶようになったのだ。
 例えばーー。
 温泉地に入った沙紀は、清楚で酒脱な雰囲気を醸し出すが、客人の前では自ら奴隷のように振る舞うのだ。
 客人の部屋に呼ばれて入ると、途端にその部屋は淫猥な臭いに包まれるのだ。
 いつしか沙紀は、娼婦のような妖艶さを身に着けていた…と、俺はそんな妄想を繰り返していた。


 出発の前日だった。
 旅先への買物があるとかで出かけた沙紀を見送った俺は、何故か勝野さん夫婦の事を考えていた。
 ちょうど昨日、沙紀が云っていたのだ。『勝野さん御夫婦も来るんだけど、1日遅れみたいなの。仕事が忙しいらしくて…主催者なのにね』
 俺は久しぶりに聞いた勝野さんの名前に縋る思いがあったのかもしれない。箱根で何かあった時に、相談できるとすれば…。
 そこまで思い付いた時に、彼等に連絡を取ろうと決めた。出来れば会って話がしたい。具体的に何を聞けばいいか分からないが、例えば日本の宿に中国人客を招いて、俺はどんな風に振る舞えばいいのか。或いは、接待の場はどんな雰囲気なのか、そんな事が気になっていたに違いない。
 そして俺は、直ぐに連絡を入れる事にした。
 ラッキーな事に直ぐに百合子さんと連絡がついて、品川のあの高層マンションに行く事になった。
 沙紀には事後報告でいいだろう。そう思いながら、家を後にしたのだった。