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第65話
6時少し前になると、部屋がノックされた。開けてみればキムさんだ。キムさんは襟付きシャツの上に、夏用のジャケットまで着用していた。俺の方は、おとなしめのポロシャツ姿だ。
「ふふっ」キムさんが何故か意味深に笑う。
「はい、砺波さんはこれを着て下さい」
渡された物を広げてみれば、それは法被だった。色は薄い赤で、背中には中国語の文字。勿論、意味は分からない。
それをシゲシゲ見てると、自然に溜め息が出てしまう。
「これを着ないといけないんですですか」
「ええ。まあ、一応スタッフという事なので」と、キムさんにも苦笑いが浮かぶ。「明日の披露宴には、オシャレなのを用意してますから」
「まいったなあ、キムさんは着ないんですか」俺の口からは、再度の溜め息が落ちていく。
「私はこれで」と、キムさんがジャケットの胸元を叩く。キムさんは位の高いスタッフで、俺は下っ端という事なのだ。
仕方なしに法被に袖を通し、俺はキムさんの後を付いていった。
宴会場に向かう廊下を進みながら「沙紀もいるんですか」俺は訊いてみた。
「ああ、沙紀ですか。沙紀は着物に着替えてスタンバイしてますよ」
「それはまさか、芸者の…」
「ふふ、お客様は芸者とお相手したいと言ってましたね。でも本物はね。だから一応、沙紀達には着物を着てもらう事にしたんですよ。それで何とか納得するでしょ」
頭の中で、沙紀の着物姿をイメージしようとするが、それはなかなか纏まらない。俺自身、沙紀のその姿を見た事がないのだ。
「大丈夫ですよ。その着物には性的なイメージはありませんから」
「そうですか…」
「それに直ぐ…」脱ぐ事になるから…とキムさんは云おうとしたのか、ニヤついて見せるだけだった。
鳳凰の間には、円卓が五つほど綺麗に並べられていた。壁際にはバーカウンターもあって、その横辺りには何故か大きな衝立てが置かれていた。
会場の中央にはやや大き目のテーブルがあって、既に料理が準備されている。どうやらバイキング形式のようだ。俺がイメージしていたのは、中華料理屋のターンテーブルにコースで一品ずつ運ばれて来るものだった。しかしここは、日本式と言うかこのホテルの元々のスタイルを採用したと言う事なのだろう。
「さあ、もうじきお客様達が来られますからね。始まったら、砺波さんはバーカウンターの横に立ってて下さい。酒の注文なら何とか対応出来るでしょう」
見ればバーカウンターには、ビールサーバーがあって、ウイスキーにソフトドリンクが用意されてあるようだ。
「大皿の料理が少なくなってきたら厨房に」と言って、キムさんが目配せしてくる。「後は適当に。日本人は気配り、気配り、ですよね」
俺は苦いものを感じながら、取り敢えず頷いておく事にした。
その時、奥の扉が開いて大柄な男と着物姿の一団が入って来た。直ぐに目に付いたのは張さん、そしてその横にホテルの浴衣を羽織った大柄な姿があった。
真ん丸な顔にオールバック。おまけに酷薄そうな目。身長も体型も張さんと双子のイメージ。間違いなく沙紀をサディスティックにムチ打ちした張本人の周(しゅう)…さん、だ。
一瞬のうちに身構えてしまった俺だったが、その一団は会場のメインのドアに向かった。客人を迎え入れる花道を作って、一団が畏まる。法被姿の俺もキムさんに手を引かれ、列の最後尾に並んだ。
俺の斜め前には着物姿の女性が10人。一番目を惹くのは、お世辞抜きに沙紀だった。隣に並ぶ中国人女性と違ってオーラと言うか、間違いなくひときわ輝いて観える。
女性の髪型は皆んな、着付けに合わせてお団子状に後ろで結かれている。
沙紀から一番離れた所には、小柄な着物姿があった。瞬間、冬子の名前が浮かんだ。
化粧は薄い感じだが、その幼さは間違いなく冬子なのだ。俺の中に別の緊張が湧いて来る。
張さんが中国語で何かを云った。客人の来場、とでも云ったのだろうか。並んでいた全員の背筋が伸びたのが分かった。そしてスタッフの一人が、扉に手を掛けた。
扉が開くなり、揃いの浴衣を羽織った男達が口々に何かを喚きながら入って来た。。既に酔っているのか、皆んな顔が赤い。客は20人の筈だが、はしゃぎっぷりは倍以上の騒がしさだ。
男の一人が、早くも着物姿の女の首筋に鼻を寄せる。別の男は、女性の着物の尻を撫で回す。女達は、そんな男共をあしらいながらテーブルに連れて行く。
沙紀を見れば、二人の男に肩を抱かれながら端のテーブルへと向かっている。
「砺波さん、持ち場に」
耳元で聞こえたのはキムさんの声だった。
会場の空気に、早くも嫌悪感を覚えた俺だったが、担当するバーカウンターに足を向けた。
カウンターに入ると、取り敢えず水割りを作って幾つか並べた。客の注文を訊いた女が、それらを取りに来る。客が直接来ないだけでも、少しはましな気分になる。
やがて沙紀がやって来た。俺を見て、一瞬だけ微笑む。そして「バーテンさん、おビール一つと薄い水割りね」と、悪戯っぽく笑ってみせた。沙紀にはまだ、余裕があるようだ。
俺には、いつ乾杯の発声があったのかも分からない。それぐらい会場は騒がしくなっているのだ。奴等の口から出るのは勿論中国語で、意味が分からない。それでもやけに楽しく、そして下品に振る舞っているのがよく分かる。コンパニオン役の女も、こんな遊びに慣れているのか、多少のお触りには笑みを浮かべている。
心配なのは沙紀で、その沙紀と言えば日本人という事で一番人気だ。代わる代わるに男共が寄って来ているのだ。
「誰、見てるの、ですか」
不意に片言の日本語が聞こえた。見れば冬子だ。
「あっ、冬子…ちゃん」
「うふふ、ご無沙汰、しています」
ニヤッと微笑んだ顔は、あの日の幼さを思い出す。しかし今は、着物姿に妙なエロチックさを感じてしまう。
その冬子が、片言の日本語で注文をしてきた。
「えっとですね、ビールを、一杯、いただけますか。それとこちらの水割り、貰っていきますね」
俺は落ち着いてビールを注ぎ、冬子に手渡した。それを受け取った冬子が笑う。その目は何か云いたそう目に観えた。
それから暫くすると、張さんがこちらに歩いて来るのが見えた。隣には周(しゅう)さんだ。
俺の前で足を止めて、張さんが周さんに何かを伝える。中国語は分からないが、言葉の中に『沙紀』そして『砺波』、そんなニュアンスが窺えた。
周さんは1回頷き、興味深そうに俺を覗き込んで来た。目は薄く、奥の光はゾッとする輝きを放っている。まるで蛇のような目ではないか。
周さんは俺に向かって言葉を放って来るが、理解不能だ。張さんも通訳する気がないらしい。キムさんも接客に行っていて、俺が訊く術はどこにもない。
俺は二人が早くに立ち去ってくれる事を願ったが、なかなか動いてくれなかった。時おり二人は俺に視線を向け、含み笑いをする。二人は一体、何を云っているのだ。張さんに尋ねるわけにもいかない。
壁の時計で確認すれば、時刻はもうすぐ8時。宴会は何時まで続くのだ。
それから暫くすると、張さん周さんの二人は特に挨拶もなく俺の前から去ってくれた。
それと入れ替わるように、キムさんがやって来た。
「お疲れ様ですね。離れた所から見てましたが、なかなかお似合いですよ」
「勘弁して下さいよ」
続けて何時までやればいいのか、訊こうとしたらキムさんが顔を寄せて来た。「もうすぐ余興の一発目が始まります。始まったら、砺波さんも客の一人になったつもりで遠慮せずに見て下さい」
「それはどんな…」
「ふふふ、それはお楽しみで」と、もう一度含み笑いをする。
会場内では、出来上がった客の叫声は止む事がなく、各々が燥ぎ回っている。
そんな時、会場の照明がスーッと暗くなった。
薄明かりの中、騒いでいた客達の声が一瞬止む。
その静寂の中を、野太い声が響いた。声の主は張さんだ。
背中がゾワゾワしてきた。キムさんが云ってた『余興』に沙紀が登場してしまうのか。
俺は耳を傾けた。張さんの声の中に『沙紀』の言葉がないか集中するのだ。
張さんが一息に何かを告げ終えた瞬間、男共から歓声が上がった。
何を喜んでいるんだ!?
キョロキョロ視線を這わせた俺は、キムさんに名前を呼ばれた。
端に置かれていた衝立ての前で、キムさんが手招きしている。
近づいて行くと、キムさんが衝立ての裏にあった物を指さした。
「砺波さん、コレを一緒にあっちに」
それは一組の布団だった。
二つ折りにされたソレは、かなりの大きさと重さがあった。わけが分からずソレを持ち、二人して会場の中央に運ぶ。
ホテルの従業員が、テーブルを端の方へと寄せていた。出来たスペースに布団を敷くのだ。
「さあ、司会は私なんですわ。中国語でやるから、砺波さんには分からんやろうけど、まぁ見てるだけでも楽しめるさかいな」
関西弁に変わったキムさんが、俺に厭らしい笑みを向けた。それに合わせたように、布団の上に照明が照らされた。敷かれた布団が、スポットを浴びて淫靡な香りを発し始めたのだった