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第62話
部屋を覆っていた淫靡な香りは、勝野さんが逝って暫く経つと治まってきた。とはいえ、お二人の身体は全裸のまま。
「ふーっ、いやいや私等だけが気持ち良い想いをしてしまったかな」と、勝野さんが笑い掛けて来た。その瞬間、俺の肩の力が一気に抜けた気がした。
そんな俺の横を「喉が渇いちゃった」と百合子さんは呟き、裸のまま部屋を出て行ってしまう。
百合子さんは直ぐに、缶ビール片手に戻って来た。身体には薄手のガウンを纏っている。そしてゴクゴクと喉を潤してから、床に落ちてた勝野さんのガウンを拾い上げた。
「砺波さん、私達の余興に付き合ってもらって、ありがとうございます、ね」百合子さんまでが頭を下げてくる。その横では、勝野さんが笑みを続けている。
それでも俺の中には、二人にどんな紆余曲折があったのか想像してしまう。
仕事の過程で中国人の投資家を接待する事になったこの夫婦。接待の内容は過激なものを要求されるようになり、やがて金や生活の為にと夫婦揃って痴態を曝すようになったのだ。しかし二人の告白によれば、互いにその癖があったという事らしい。そしてそれは、上手く嵌ったという事でもある。やがて勝野さんは、自身の射精をコントロールする術を身に着け、百合子さんは膣の締付けのトレーニングまでするようになったわけだ。
ひょっとしたら、この夫婦にとっての天職とは、不動産の仕事ではなく、淫靡なショーをする事だったのかもしれない。
そこまで考えついた時に、俺の中に冷たいものが流れ落ちる感覚があった。そして俺達夫婦の事を考える。
頭の中を占められているのは沙紀の事で、その沙紀とキムさんの関係だ。
勝野さん達はれっきとした夫婦だから、まだいいだろう。
しかし、しかしだ。沙紀とキムさんは夫婦ではないのだ。沙紀には俺という夫がいるのだ。それにもかかわらず二人の間に絆などが生まれたら、これからどうなってしまのだ。
と、「どうしたの砺波さん、やっぱり沙紀さん達の事が気になるのね」
百合子さんの声に我に帰った。
目を向ければ、二つの瞳が俺に向いている。
勝野さんが難しい顔で頷く。「心配なのは分かるけど、それはしょうがないよ。事の流れを思い出せば、砺波さんにだって分かるでしょ」
その事は云われるまでもなく、理解してるつもりだった。
そう、俺が誤って冬子という中国人投資家の彼女と間違いを犯してしまったからだ。俺の罰を代わりに受けて、キムさんと関係を結ぶ事になった沙紀。
「まあ、世の中には色んな夫婦の形があるんだよ。私等のように、衆人の前で営みを曝す変態夫婦もいれば、妻を他人に預けて互いが興奮を得る夫婦もいる。でも砺波さんの場合は、いずれ沙紀さんは貴方の元に帰ってくるんだろうから、ね」
真剣な口調の勝野さんの言葉は、確かに受け取れた。
その通りに、沙紀が永遠に他の男のものとは思っていない。しかし。
「砺波さん、取り敢えずは明日からの箱根の事よ。沙紀さんとキムさんの関係はあっちに行っても続くんだろうけど、それは仕方のない事だから。ね、まだまだ我慢の時間だから」
百合子さんの諭すような声もまた、シッカリと聞き入った。俺は苦し紛れに頷くだけだった。
勝野さんの所から家に帰ると、沙紀は買い物から帰っていた。
俺が出掛けていた事には特に何も言ってこず、明日の準備に勤しんでいた。
明日からの接待旅行は二泊三日と聞かされているが「ひょっとしたら一泊延びるかも」等と急に沙紀が言い出した。
頭に浮かぶのは我儘な中国人の一行だ。彼等は自分達の都合で何を言い出すか想像がつかない。俺達もそうだが、宿の経営者も困惑するのではないか。それとも、金を落としてくれる上客の為なら黙って従うのか。
夜になり、今夜は早めに床に着こうと考えていた。出発は明日の午後で、俺達接待役は夕方の4時迄に着けばいい事になっている。時間的には余裕があるが、充分な睡眠を取っておこうと考えたわけだ。
風呂から出ると、入れ替わるように沙紀が浴室に向かった。何故か沙紀の脇毛と、アソコの毛の事が気になったが黙っておく。今夜、沙紀を抱く事になったら、さりげなく確認してみよう。
寝室に入る前に、もう一度キャリーケースを確認しておく事にする。
俺の持ち物に大した物はない。取り敢えず4日分の着替えと、読む事はないと思うがいつもの歴史小説の単行本を2冊だ。そうそう、一応の為に夏用のフォーマルを一着入れてある。あとは襟付きシャツに部屋用のTシャツ等だ。
万が一の為の風邪薬は…と、確認したが見当たらなかった。沙紀のキャリーの中か。
沙紀はまだ湯船に浸かっているようなので、どうしようかと思ったが、見ればロックはされていない。俺は中を確認する事にした。
沙紀の荷物も服が多めにあるようだったが、特に勝負下着とよべる程の物はなく、アウターも落ち着いた感じの物だった。
目的の風邪薬は、他の常備薬と一緒にパックされていた。念の為にそれらを確認する。
その時、見慣れないタブレットケースが目に止まった。
手に取り開けて見れば、オレンジ色でパックされた小さな固形物が3個。なんだコレは?
俺は浴室の様子を探り、急いでスマホを取り出すと画像に収めた。キャリーケースに仕舞い直して元通りに置いておく。そして直ぐ様、トイレに駆け込んだ。同時に浴室のドアの開く音が聞こえた。
便座に腰を下ろして、今程の画像を検索する。
出て来た画面とその説明に、まさかの思いが湧き上がった。それは所謂ピル。避妊薬だったのだ。まさか昼間に、沙紀が買物と云って出掛けたのは、コレをもらいに病院にでも行っていたのか。
その時、義母や叔父の言葉が浮かんできた。
『孫は』『子供を』
俺達は結婚してから一度も避妊をした事がない。子供は神様からの授かりもの。だから運任せといえば運任せだったのだ。
いつしか生での挿入に抵抗がなくなっていたし、子供が出来る出来ないは深く考えないようにしていた。
沙紀のケースにあった避妊薬。コレが以前から俺達夫婦の為に沙紀が服用していたとはどうしても思えない。考えられるとすれば、キムさんと関係が出来てからだ。普通に考えれば、それは健全な予防だ。
しかし。
改まってソレを目撃すると、生々しさに鬱屈した気分になってしまう。それにだ。
コレを接待先に持って行くと言う事は、キムさん以外の不特定多数とも…等と考えるのは杞憂だろうか。
気づけば俺は、便座に座ったまま項垂れていた。
「聖也くぅん、大丈夫?」
廊下の方から、沙紀の声が聞こえて来た。
「大丈夫だからぁ」俺の返事は震えていたかもしれない。
ああ…明日からの接待、気が重すぎる。
俺はこの夜、床についたはいいが、明け方近くまで眠る事が出来なかったのだった。