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第43話
張さんのマンションの一室。俺は、沙紀と金田さんことキムさんが交わったとされるベッドメイクをしていた。
毛布を捲って端に寄せ、シーツの皺を手で伸ばす。時おり掌に感じる冷たい液体の跡は、やはりアレの残り汁なのか。
ベッドを整えた後は、カーペットの上に落ちていたティッシュの塊を拾った。塊は4つだったが、中途半端に使い捨てられたティッシュも数枚落ちていた。俺はそれらを集めてゴミ箱に沈めた。その際、こっそり底の方を探ってみたが、コンドームは何処にもない。
何とか一通りの後始末を終えると、少し離れてベッド周りを確認する。消臭剤こそ撒いてないが、格好は付いたようだ。しかし、ベッドの上に男女の戯れる残像が浮かんで見える。俺はその幻を振り払うように、頭を一振りした。そして部屋を後にした。
先ほどのリビングに向かうと、張さんの笑い声だ。見れば3人が座って何やら話をしている。テーブルには百合子さんが淹れたのだろう、カップが今度は4つ置かれてあった。
「ああ、終わりましたか。ご苦労様。じゃあ砺波さんも座って下さい」
張さんの声には、愉しげな響きが含まれているように感じた。
ソファーに腰を降ろすと、どうぞと百合子さんがコーヒーの入ったカップを俺に勧めた。口に何かを入れたいところだったが、まだ遠慮と言うか気後れがある。
「どうですか砺波さん」
張さんが大柄な身体でソファーにふん反り返りながら、薄い目で見詰めてきた。
「奥さんが他人と交わった後のベッドを掃除した気分は」
えっ!思わぬ問い掛けに、又も身体が強張ってしまう。
「でも、アタナ達夫婦はこちらの勝野さん夫妻とセックスをしたんですよね。まぁ、聞いたところ貴方が先に百合子さんに手を出したとか」
ウウウッ、胸の奥で歪な音が鳴った。そのまま、隣の夫婦を覗こうとしたが、身体が固まったままだ。
「小姐(シャオ)から色んな事を聞きましたよ。彼女も誰かに本心を聞いてほしかったみたいだし、良い切っ掛けになったんじゃないですかね」
そんな事を云われると、沙紀はキムさんとセックスに及んだ事に罪悪感を持っているとは思えない気がするではないか。
「それにキムさん、彼は経験豊富な男だし、小姐も性的な満足があったと思いますよ。ねえ、勝野さん」
勝野さんの顔がハッと上がる。
「そうですね、張さんの仰る通りです。彼はいつでも身体を張れるし、度胸も座ってますから」
「そうなんですよ、キムさんはアッチも頼りになります。勿論、仕事も。どうです砺波さん、貴方のお仕事も不動産関連なんでしょ。この勝野さんやキムさんと組めば、かなり儲けられますよ」
「それは…」
「ふふっ、貴方も何れは独立を考えているんでしょ。ちまちま小口の不動産を扱うより、大きな取引を狙ってもいいんじゃないですか。沙紀さんを社長夫人にしてあげたいと思いませんか」
「い、いや、それはまだ早いかと…」
苦し紛れの呟きの後は、彼等の言葉が頭の中で渦巻き始めた。
沙紀が性的に満足したとは、複雑な気持ちだが分かる気がする。キムさんが身体を張るとは、怪しい接待をしてきたという事なのか。それに仕事の事、沙紀を社長夫人にか…。
「まあ、まずは貴方たち夫婦の事ですね。私は冬子が犯された事に関しては、根に持ちませんから。それよりも」
「な、何でしょうか」
「暫く沙紀さんをキムさんに預けてみて下さい」
「え、預けるとは?」
「ええ、彼もブローカーのような事をしてますが、何しろ一人だ。沙紀さんを秘書代わりに雇って貰いなさいよ」
「いや、しかし沙紀は…」
「ふふ、分かってます。叔父さんの貿易会社で働いているんでしょ。でも沙紀さんと話したら、不動産の事も勉強したいみたいですよ」
諭すような張さんの口調が、俺の頭に再び社長夫人と言う言葉を響かせる。
「沙紀さんは以前から、貴方が独立した時に役立ちたいと思っていたみたいですね」
「そ、そうですか…」
「それに、ふふふ、奥さんは性的な事に関しても、非常に好奇心が旺盛のようだしね」
口元を歪めたまま、張さんが勝野さん達に同意を求めるように頷き掛けた。そっと横を見れば、何という事か、勝野さんも百合子さんも迷う様子もなく頷いている。そして、俺の視線に気づいてか、ニヤッと笑い掛けてきた。
「まあ、貴方に選択の余地はないと思いますが、取り敢えず帰ったら小姐に聞いてみて下さい」と、張さんが続ける。
俺には、この場は分かりましたと応えるしかなかった。
それからは、張さん達の仕事の話を黙って聞くだけだった。
やがて一息付いたところで、勝野さんが腰を上げた。
玄関まで見送られた所で、俺は張さんに改まって謝罪の言葉を述べた。
それを聞く張さんの目は、相変わらず冷たいものだったが、口元からは白い歯が覗いていた。
帰りの車、来た時と同じように俺は、後部座席に腰を降ろした。 車は真っ直ぐ品川の勝野邸に向かって走り始めた。
高速に乗って視界に広がる景色を眺めながら、前に座る夫婦を見やる。黙り込む二人は、沙紀に夫婦の契りを見せつけ、動画や写真を撮らす変質的な性癖の持ち主なのだ。この夫婦に出会ってしまってから、俺達は怪しい世界に踏み入れてしまった感がある。
「砺波さん」
その時、ハンドルを握る勝野さんが、前を向きながら話し掛けてきた。
「先ほどの張さんの話からだと、沙紀さんは離婚は考えていないんじゃないですか」
その言葉には、予期せぬ衝撃を覚えた。離婚とはさすがにそこまでは想像していなかったのだ。しかし、確かに云われてみれば夫が他の女性、しかも未成年を強姦したとされると、妻としては離婚の選択があって当たり前だ。
「どうしたの砺波さん」百合子さんが身を乗り出すように振り返った。
「え、いや、さすがに離婚までは…」
「うふふ、そうね、アタシも離婚はないと思うわ。でも、貴方の人生において大きな展開の時期かもしれませんね」
百合子さんの言葉を聞いて、俺は黙り込んだ。確かに言われる通り、何かが変わり始めようとしている気がする。
「どうしましたか、元気を出して下さい」今度は前を向いたまま勝野さんが話しを続ける。
「私達はもう他人の関係じゃないんだから」
声に前を向き直せば、ミラーに勝野さんの歪んだ目元が映っている。その目が俺と合うとニヤリと歪んだ。
「ふふっ、それとね、教えておきますけど金(キム)さんは、アッチも凄いんですよ」と勝野さん。
「ええっ!」
「そうなんだよ。なぁ百合子」
勝野さんの嬉しげな問いに、あら嫌だわ、と百合子さんが苦笑いを零す。
ひょっとして、百合子さんはキムさんとも犯(や)った事があるのか。俺の身体を重い物が落ちていく。百合子さんの横顔を後ろから覗けば、張さんの部屋にいた時の緊張は既に無くなっている。
やがて車は大した渋滞にはまる事もなく、無事に品川の高層マンションに到着した。
車が所定の駐車場に駐まり、俺は色々とご迷惑をお掛けしました、と改まって頭を下げて降りようとした、その時だ。
「沙紀さんの事はアタシ達もフォローして行くわ。もう他人じゃないしね」
百合子さんの言葉にぎこちなく頷き、俺は逃げるように自分の車を駐めた場所へと歩き出した。
車に乗り込めば、考えるのは沙紀の事。果たして沙紀はマンションに居るだろうか。沙紀は精神的に破滅願望のようなものを持っていてもおかしくないタイプだ。俺は自分の過ちを許して貰いたい気持ちは勿論だが、沙紀の行き末が心配でたまらなかった。