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第41話
俺は勝野さんの運転する車に乗せられ、張(チョウ)と言う方が住むマンションに向かっていた。
場所は六本木にあるタワマンとの事だった。
黒いベンツの車内は、走り出した時から重い空気に包まれていた。運転する勝野さんと助手席に座る百合子さん。その二人の様子を後ろから見ている俺。あの温泉旅館で、ひょんな事から俺が百合子とセックスした事や、勝野さんが沙紀を抱いた事が遠い昔の出来事のような気がしている。
やがて、六本木のシンボルといえる高層の建物群が見えて来た。勝野さんは迷う事なく、車を走らせている。
高速の出口を降りて辿り着いたのは、勝野さん達が住むタワマンと同じような超高層マンションだった。目的の部屋は45階らしい。
所定の駐車場に車が停まり、冷たいアスファルトに足を下ろした。
陽のない地下駐車場の寒さは、俺の心の中のようだった。勝野さん達を見れば、二人の表情は共に硬く、俺はそんな二人の後を付いて歩いた。
ロビーは勝野さんの所以上に高級感が醸し出されていたが、それに浸る余裕は全くない。心臓の鼓動がますます大きくなってくる。
コンシェルジュに勝野さんが身分を証すと、暫く待たされた。やがて、勝野さんがオートロックの扉の横、操作盤で操作を始めた。その姿は幾分か小さくなった気がする。
緊張している俺の耳に、操作盤から声が聞こえてきた。この声の主が張さんか。
それから直ぐに扉が開き、俺達は奥に見えるエレベーターの方へと進んだ。
エレベーターは高速で登り、あっという間に目的の階に到達した。
廊下の一番奥、ドアの前で勝野さんが自分の出で立ちを確かめた。隣にいる百合子さんの表情も緊張の面持ちだ。
カチャリとドアが開くと、勝野さんから中へと足を運んだ。玄関に立った俺の目に、奥へ進む後ろ姿が見えた。グレーのガウンを着た大柄で中年肥りの男だ。これが…いや、この人が張と名乗る人物か。
リビングに通されると、これもまた素晴らしすぎる景色が目に飛び込んできた。しかし、感嘆の声など上げられない。先程から謝罪の言葉を上手く云えるか、それが気になって仕方ないのだ。
「そこに座って下さい」
風貌からは想像つかない高い声が発せられた。綺麗な日本語だ。
隣では、勝野さん夫婦が緊張の面持ちで腰を降ろすが、俺の方は座ってよいのかソファーの横で固くなっている。
「砺波さんも…」
百合子さんの小さな声がした。俺は「失礼します」と頭を下げながら座らせてもらう事にした。
こっそりと張さんを見れば、俺の存在に気付かなかったのか、キッチンの方に向かっている。
身長は俺より上背があって180位か。体重は間違いなく俺の倍…とまでは言わないが、80は超える巨体だ。
「独り身だから、コレくらいしか用意出来ないんでね」
高い声で云って、張さんが烏龍茶のペットボトルとグラスを3つ運んできてテーブルに置いた。
大柄なソファーの真ん中、俺の斜め前の位置に座った張さんの顔を俺はそっと覗いた。顔は体型と似ていて真ん丸としている。髪はオールバックで、目は薄く冷たい感じがする。年齢はどうだろうか、40前後にも観えるし50前後と聞いても違和感がない。
俺の横では、百合子さんが烏龍茶をグラスに注いでいる。
満たされたグラスは、張さん、勝野さんの前に置かれ、最後の一つは百合子さんの前だった。
「あの、この度は…」
百合子さんが注ぎ終えるのを待って、俺は立ち上がりながら謝罪の言葉を口にしようとした。しかし、その声を遮るように大きな掌が目の前に突き出された。
「あの小姐(シャオ)はなかなか良いぞ」張さんが掌を俺に拡げたまま、顔だけを勝野さんに向けて告げた。
「そうですか、それは良かったですね」勝野さんの口から、幾分か強張った声がした。俺の頭は『シャオ』と聞こえた音の意味を探している。
「ああ、いい娘(こ)を連れて来てくれたものだ。私の怒りも少しは収まったよ」
「では冬子ちゃんも…」勝野さんが又も怖々と聞く。
「ん、冬子?ああ、そうだな、あのじゃじゃ馬も調子に乗りおってな。今は大人しくさせてますよ」
張さんの言葉の中に、ここに冬子さんが居ない事は分かった。それでも何処か別の場所に監禁でもされてるのかと、新たな心配も湧いてくる。
「ところで、こちらの彼は何なのかな」
張さんの目が俺に向いた。薄い瞳の奥から冷たいものが射すように見詰めてくる。その暗い光に背筋がビクッと震えた。
俺を包む空気が、より冷たいものに変わってくる。その空気の中を、勝野さんが恐る恐る口を開いた。
「あの、今朝電話で云いましたよね…。沙紀さんの御主人を連れて行きますって…その、冬子ちゃんを…」
勝野さんの声を聞きながら、俺の喉元は太い指でも掛けられたように苦しくなっていた。張さんの瞳はずっと鈍より、俺に向いたままなのだ。
「ほおっ、この人が小姐の。なるほどな」
張さんの冷たい目が、やっと瞬きしてくれた。その代わりにか、口元が歪んでいる。
俺の頭は『小姐』の意味に理解が追いついた。沙紀の事だ。
「見るからに小姐の方が、貴方より遥かに肝が座ってるようですね」張さんが静かに頷く。
俺の方はどう反応すればよいのか、戸惑いの表情を浮かぶだけだ。そんな様子を見てか、目の前で太い鼻がふんっと鳴った。
張さんは暫く俺の様子を細い目で観察するかのように見た後、徐ろに口を開いた。
「三陰交、八リョウ穴」
「………」
「腎兪、衝門」
サンインコウ?ハチリョウケツ?それに何だ、ジンユにショウモン…。
頭の中で聞いた事のない言葉を、反芻するがハテナマークが浮かんでくる。
「砺波さん、今の名前、知らないのか」
その冷たい声に、俺はコクリと頷いた。初めて聞く名前ばかりなのだ。しかし、目の前のこの人が俺の苗字を知ってる事は分かった。
「今のはツボの名前ですよ。腰痛や精神向上、女性なら月経不順にも効く」
俺には話しの行方が分からない。
「つい先だって、沙紀さんが金(キム)さんとここに来た時、彼女はとても不安定な状態にあってね。謝罪の言葉を口にしてるのは分かったが、その狼狽振りには逆に心配になってしまいましたよ」
「そ、そうだったんですか…」
「それで疲れも溜まってるようだったから、軽くツボを押してやる事にしたんです」
「それは、どうも…」
「しかし、そのツボ押しで一番効果が出るのは、実は性欲増進なんですよ」
そこまで云い終えた張さんの唇が、今まで以上に歪んだ。その姿に俺は息を飲んだのだった。