小説本文



 この日もみゆきは、朝から憂鬱な気分だった。
 夫と大樹に朝食を用意し、何とか2人を送り出す事が出来たが・・・。
 神崎が逮捕された記事を見た時から、いつか警察やマスコミが自分の所に来るのではないか、そんな心配ばかりが頭にあった。
 自分から劇場やママにも電話をする事も無かったし、電話をしたとしても、それが繋(つな)がるとは思えなかった。


 もし、自分が“夕霧(ゆうぎり)”であった事が夫や子供、それに世間にばれたら・・・。
 そんな近頃は、家事に没頭している時だけが、不安を忘れられる事が出来た。
 裕子や真由美からのお茶の誘いも断り続けていた。
 もし、その場に警察やマスコミが来たら2人に何て言えば良いのか・・・。


 掃除を終えてリビングのソファーに腰を降ろした時だった。
 いきなり携帯が鳴り始めた。
 みゆきは心臓が飛び出るほど驚いた。
 “公衆電話”・・・その文字を見ながら心の中に不安が広がっていくのがわかった。
 迷った挙句(あげく)、何度目かのコール音を聞きながら、みゆきの指は通話ボタンを押していた。


 「はい・・もしもし」
 『・・・・・ふふふ みゆきさん? ・・・中村みゆきさんですね』


 「・・・・・・・・」
 『・・・・ふふふ 黙っていてもダメですよ、中村みゆきさん・・いや、夕霧さんって言ったほうがいいですか?』


 「だっ 誰なんですか!」
 『・・・・ふふふ 私 あなたのファンなんです・・・、実は相談がありましてね・・・・今日、これからお会い出来ないかと思いましてね・・」


 「そ そんなの無理です。そんな・・・会うなんて・・」
 『・・・・ふふふ 良いんですか そんな事を言って? あなたが夕霧だって言う事がばれちゃいますよ・・・ご主人に、ご近所に・・・・お子さんは○○中学でしたよね・・あっ そうだ、仲の良いお友達もいましたよね、確か裕子さんに真由美さんでしたっけ・・』


 「あ あ あ なっ 何で・・・」
 『奥さん、悪いようにはしませんよ。今から言う所に来てください。警察なんかに言っちゃダメですよ。仮面を被って無くたって奥さんが夕霧さんだって事は、わかっているんですからね』


 「あ 会ってどうするんですか・・・」
 『ふふ、それはお楽しみです・・』


 「・・・・・ど 何処に行けばいいのですか」
 『・・いいですか、○○駅の○○○○ホテル・・・時間は12時・・いいですね。それなりのホテルです・・それなりの服装で来るように・・わかりますね』


 「あ あ・・は  い・・」
 『12時きっちりに携帯に電話をします。必ず出るように・・・わかりましたね・・悪いようにはしませんから・・ふふふ』


 電話を切るとみゆきの目から涙が滲んできた。
 みゆきは迫り来る恐怖を覚えながらも、着替えの準備にうつった。


 12時5分前、みゆきは○○○○ホテルのロビーにいた。
 この界隈では高級な部類に入るシティーホテルのロビーは、ランチに向う客で溢れていた。
 目の前を行きかう人たち全てが、自分の事を夕霧だと知っているのではないか? そんな事を心配しながらみゆきはロビーの1番隅で俯いていた。


 12時、ロビーのおしゃれな時計が軽快な音楽を奏でた時だった。みゆきのマナーモードにしてある携帯が震え出した。
 “公衆電話”・・・その通知を確認したみゆきは、壁の方に振り向き通話ボタンを押していた。


 『ふふふ 今度はすぐ出ましたね・・』
 「・・はい・・・ど どこにいるんですか・・」


 『ふふ あせらないで・・いいですか。これから言う部屋である人がみゆきさんに話があるそうなんですよ・・』
 「・・ある人・・だれなんですか・・」


 『まあまあ 慌てないで・・・部屋は鍵が開いています。入ったらベットの上に手紙が置いてあります。それを読んで支持に従いなさい・・・いいですね』
 「・・・・はい」


 『・・ふふ よろしい。ではルームナンバーです・・2219・・・もう一度言います 2219・・わかりましたね。じゃあ今すぐ向いなさい』
 最後の言葉を告げると電話はいきなり切れた。
 みゆきは心臓を鷲づかみにされた気分のままエレベーターホールを捜し、ふらつきながらそこに歩き始めていた。


 数分後、みゆきは2219号室の前に立っていた。
 ドアは隙間が少し空いていた。
 そのドアを押して中に入り、2,3歩進むと背中でそのドアの閉まる大きな音がした。


 カーテンが閉められた大きな窓の横にはベットがあり、その上に電話の男が告げたとおり手紙が置かれてあるのがわかった。
 みゆきは用心深くベットに近づき、震える手でその手紙を取っていた。


 《鏡の前のイスの上にタオルがおいてある。イスに座ってそのタオルで自分の目を隠すようにきつく縛れ》


 みゆきは唾を飲み込み、唇を噛み締め、ゆっくり鏡の前に置かれてあるイスへと向った。
 タオルを確認するとそれを手に取り、もう一度唇を噛み締めるとそこに腰を降ろした。
 タオルを顔の前に持ってきた時、一瞬その部屋がジュニアスイートクラスの大きさである事を感じた。
 そしてそのタオルを目の前にもって行き、両端を頭の後ろに回すと器用に結び、ギュッと力を入れた。


 両手をスカートの腿の上に置くと心臓の鼓動が聞こえ始めた。
 そのまま大きな深呼吸をしようとした時だった、いきなりその口がハンカチで塞がれた。