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私は数時間前に飛び出した我が家に再び戻って来ていた。
 ポケットから鍵束を取り出すとその内の一本を鍵穴へ差し込み、インターフォンも鳴らさずに家の中へ入って行った。
 玄関に女性用の履物を確認すると、リビングへ転がり込む様に飛び込んだ。
 シャッターが全て閉まったリビングには照明が照らされ、綺麗に片付いたテーブルの上やソファーの位置を見ると、間違いなくそこに人がいた事を確信できた。


 「か かおり・・・」
 私は部屋の中央に立ち、愛しい妻の名前を呼んでいた。
 そして かおりの声が聞こえて来ないか、耳を立てていた。
 しかし聞えてくるのは、時を刻む秒針の音だけだった。
 その音を聞きながら神経を集中している時だった。


 リビングと和室との続き間の扉がゆっくり開かれていった。
 そして中から一人の女性が俯(うつむ)きながら姿を現した。
 その女性は一旦背中を向け、続き間の扉をやさしく閉めると、それからゆっくりこちらを振り返った。


 (かおり・・・)
 私は心の中でその名前を呼び、足を踏み出そうとした。
 しかし 俯きながらでもわかる強張った表情と態度に、私の足は躊躇(ちゅうちょ)してしまった。


 わづか数メートルの二人の距離を私は埋めることが出来なかった。
 俯く女性の姿を頭のてっぺんから足のつま先までをじっくり目で追いかけた。


 (ま 間違いない・・・・)
 髪型も着ている服も、そして大好きなその胸の膨らみも、私が愛したかおりに間違いなかった。
 黙ったまま視線を下げる妻に対して私はもう一度足を踏み出そうとした。
 しかし・・・・・。
 今度は私の身体全体が固まってしまった。
 かおりの左手の薬指にビデオの中でしか見た事のない指輪がはめられていたからだった。


 それからどれだけの時間が流れたのか。
 わずか数秒の時間も私には永遠の時の流れのようだった。
 立ちつくす私の前でようやくかおりが顔を上げた。 
 私が見つめる中 かおりの唇と唇が微かに開いた。


 「あなた・・・・・・ごめんなさい・・・・」
 「・・・・・・・・」


 「・・・・・私・・・・・あなたの顔を見れないような事をしていました・・・・・」
 「・・・・・・・・」


 「もう あなたとも・・・あつしやたくみとも・・・一緒には・・・・暮らせません・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・」


 「私を・・・・私を・・・どうか・・・捨ててください・・・・」
    

 目の前で起こっている事は現実なのか。
 目の前のこの女性は本当に私が愛した妻のかおりなのか。
 あのCDにあった首から上を取り替えられたコラ画像が目の前にいるのではないのか。


 私は目の前の女性を見つめながらピントのずれた言葉を吐き出した。
 「お お前は・・・かおりか・・・・お 俺の妻の・・・・かおり・・なのか・・・・」


 その女性は顔を少し上げ私の瞳を見つめると、はっきりと口を開いた。
 「・・・・はい ・・・・かおりです・・・・」


 その瞬間 私はよろめき、腰が抜けるようにソファーに落ちて行った。
 かおりはその位置で立ったままそんな私を見つめていた。
 そして私は目を瞑(つむ)った・・・・・。


 私はしばらく目を閉じたままソファーに沈んでいた。
 これが夢なら覚めて欲しい。
 私はそんな事を考えながら、どれくらいの時間が経ったのか・・・。
 ゆっくり私は目を開いた・・・・。


 「かおり・・・・・」
 「・・・・・はい」


 「・・・ホテルで 森川にあった・・・・」
 (・・・・・・・・・・)


 「・・森川は お前の事を・・・・・・」
 (・・・・・・・・・)


 「・・・・お前の事を・・・お 俺の・・“女”だと・・言った・・・」
 (・・・・・・・・・)


 「ほ 本当か・・・本当なのか・・・・あ あいつの言った事は・・・・」


 二人の間に沈黙がやってきた。
 夫婦の歴史でこんな沈黙が今まであっただろうか・・・・。
 重く 暗く 冷たい時間を時計の針だけが進めていく。
 

 かおりは唇を噛み締めては息を吐き。
 また 唇を噛み締めては息を吐いた。
 首を左右に振り、時折 頷(うなず)き。
 顎(あご)を上げたかと思うと天井を見回した。
 そして私の目を見つめ、一旦視線を外すと再びその視線を私に向けた。
 かおりの口がスローモーションのように開いた。
 そして・・・・・・・。


 「森川さんの言った事は・・・・・」


 (ゴクリ・・・)


 「・・・事実です」