小説本文



 私は手早く身支度を整えると家を飛び出していた。
 かおりが告げた部屋番号を呪文のように呟(つぶや)きながら駅への道を急いだ。
 アドレナリンが上昇し、気の弱い私でも今なら人を殴れると思った。


 一体かおりと一緒にいるのはどんな男なんだ。
 花岡でもなく小酒井でもなく奥村でもない男・・。
 かおりを誑(たぶら)かし、私たち夫婦を壊滅の状態に追い込んでいる男・・。


 (まずこの男だ・・・)
 (夫婦の事も奥村、小酒井、花岡の事も、まずはこの男と決着をつけてからだ)


 気づいた時には私はホテルのロビーに立っていた。
 お洒落なホテルのロビーで髪の毛がボサボサの疲れきった男が血走った目であたりを見回していた。
 私は受付けでエレベーターホールを確認するとそこへ走り出した。
 エレベーターが到着するまでのわずかな時間にさえ苛立ちながら、私は右手の拳を握り締めていた。


 エレベーターが到着し、22階に着くと私は廊下へ躍り出た。
 一流ホテルのその雰囲気にもめげる事無く、目的の部屋の前につくと迷う事無くチャイムを鳴らそうとした。
 そこで私はその部屋の扉が少し空いてる事に気が付いた。


 (ドアを開けたままで待っていたのか・・)
 私はチャイムを鳴らさずに扉を押して中に入ると、背中でその扉の閉まる音を聞きながら目の前の廊下を進んで行った。


 (生意気な奴だこんな贅沢な部屋を取りやがって)
 間違いなくスイートルームだろう、私が廊下を突き抜けると目の前に一気に素晴らしい風景が現れた。


 優に20畳以上あるであろうそのリビングからの景色に、私は一瞬圧倒されそうになった。
 壁一面が一枚ガラスでその先に見える景色と格調高い部屋の雰囲気の中を私はしばらく立ちすくんでいた。
 

 「いらっしゃいませ お待ちしていましたよ」
 突然の声に私はその音の方を振り向いた。


 私が目を向けた方向には大きなテレビがあり、その前には大きなソファーが置かれていた。
 そして私の目にはそのソファーに腰を降ろしている男の後頭部だけが映っていた。


 (・・・・・)
 男がテーブルの上のリモコンを手に取りテレビのスイッチを切ると、立ち上がってゆっくり私の方を振り向いた。


 (!!! あっ ・・・・あなたは・・・)


 驚く私の目の前でその男の口元がニヤッと微笑んだ。
 「また会ったね お兄さん・・・どうだい“一人寝”の方は」


 見た目は私より2~3歳上だろうが、その男の言った“お兄さん”と言う言葉に私の思い出したくない記憶が蘇ってきた、そして同じく“一人寝”と言う言葉にも。
 

 「・・・・・・・」
 「ふふふふ・・・・」
 私の目の前でガウンを身に纏(まと)った厳(いか)つい男が大きな目を広げながらニヤニヤ笑っている。
 しかしその目の奥に冷たい光を持っている事を私は知っていた。


 「ふふ よく来たな・・・立ち話じゃあ何だから、こっちに来て座りなよ」
 男が目の前のソファーを指差した。
 私は唇を噛み締めながら黙ったままソファーに近づいた。
 そして男の前に来るとゆっくり腰を降ろした。

 
 腰を降ろした私を見下ろしながら、男が私を覗き込む様に顔を近づけてきた。
 「へへ 相変わらず色男だな」


 男はそう言って唇の端を歪(ゆが)めると、私の前に腰を降ろした。
 男の目を見ながらも、以前のように私の身体に震えが来る事は無かった。
 アドレナリンが上がりっぱなしなのだろうか、赴任先でこの男に睨まれた時のように鳩尾(みぞおち)が痛くなる事もなかった。


 「・・・・か かおりは・・・どこに・・・いるんだ・・」
 男を目の前にして私は声を振り絞った。


 「・・・・・・・・」
 私の質問に男の口元から笑みが消え、同時に氷のような目が迫ってきた。


 「かおりはここにはいない」
 妻の名前をあっさり呼び捨てにした男に怒りの目を向けた。
 しかし それに気づいた男がすぐに言葉を返した。


 「おお~怖そうな目だ・・・ふふ 旦那さん そんな怖い顔する事ないだろ・・・」
 「・・・・・・・・」


 「ふふ まあ経緯(いきさつ)を知らないんだからしょうがないな・・・」
 (・・経緯?・・)


 「へへ そうだよ“経緯”だよ・・」
 男が私の心の中を読み通したように言葉を吐き出した。


 「へへ 聞きたいだろ?・・・ふふふ 聞いてみたいだろ? なぜかおりがあんな風に変ったか・・」
 「・・・・・」


 「へへへ いいぜ聞かせてやろう ここまで来たあんたに敬意を払って・・ふふふ」


 目の前の男の瞳がどんどん大きくなり、私はその中へと吸い込まれていく錯覚を覚えていた。
 そして男は再びニヤッと唇の端を歪(ゆが)めると口を開いた。