小説本文



私は○○駅でJRから私鉄に乗り換えていた。
 久しぶりの夜のラッシュも何故だが懐(なつ)かしさを感じていた。
 電車が出発すると駅の南口が見えてきた。
 先程の話題が頭をよぎり、妻の顔を思い浮かべていた。
 (このネオンの中にかおりがいたなんて・・・)


 自宅の最寄り駅に着くと、自然とその足がある店に向かっていた。
 チーズケーキが評判のケーキ屋だ。
 妻は酒も程ほどに好きだったが、ここの甘いチーズケーキも好物だった。
 妻の喜ぶ顔を見たかったのか、それとも機嫌を取りたかったのか・・。


 店を出てしばらく行くと、暗がりで声をかけられた。
 「近藤さんじゃないですか?」


 「あっ 小酒井さん」
 声をかけてきたのは小酒井栄治(コサカイ エイジ)と言う、長男が小学校の時に妻が一緒にPTAの役員をした男だった。


 当時から雑貨屋を営みながらも、どことなくだらしなく見えるこの男がなぜPTAの役員に立候補したのか?
 噂では奥様方と知り合いになる為だとか・・・何年か前に奥さんと子供に逃げられた男が婚活気分で仕事をするんじゃないか・・・そんな声も聞こえていた。
 妻もこの40代後半で陰気そうな男を苦手にしていた。
 『小酒井さんの目って 何だか厭(いや)らしいのよね』・・・私も時折、妻のそんな言葉を聞いた事があった。


 「どうもどうも近藤さん、噂で聞きましたが単身赴任されたそうですね。大きな会社にお勤めの方は大変ですね」
 「ええ まあ」
 ニヤつきながら喋る小酒井の話にも私は早く家に帰りたかったが、次ぎの言葉で立ち止まってしまった。


 「奥さんのかおりさんも色々大変みたいですね・・・」
 「えっ それはどういう意味ですか」


 「えっ いや変な意味じゃないですよ、そんな怖い顔しないで下さいよ」
 「そんな 怖い顔なんて」
 知らずにそんな顔になっていたんでしょう、私が黙ったのを見て小酒井が一呼吸おいて又話し出した。


 「いえね 何度か夜 お見かけしましてね。ほら奥さん前から交友関係も多いし、人付き合いも良いから、色々お忙しいのかなって思いましてね・・」
 (・・・・・・・・)


 「でも夜にあんな所で見かけたら、声をかけそうになっちゃいますよね・・・あっ これは悪い意味じゃないですよ。奥さんが美人で可愛いらしいって言う意味ですから」
 私は小酒井のこの言葉に一瞬血の気が引いていくのがわかった。
 

 何秒かの沈黙の後 私はやっと口を開いた。
 「・・小酒井さん、それは間違いなく私の妻ですか? 小酒井さんが見たというのは、いつ 何処でですか?」


 私の言葉に気圧されたのか、小酒井も少し強張った表情になった。
 「たっ 確か・・1ヶ月くらい前の平日の夜だったかな・・。場所は○○駅の南口です・・・。でも 私も酔ってたし・・それに暗かったから やっぱり人違いかも」


 小酒井の言葉を聞いてさっき引いた血の気が、さらに引いていくのがわかった。
 “男と一緒でしたか”・・その言葉を何とか飲み込むと、別れ際にどういう言葉をかけたのか、気づいた時には小酒井を振り切るように歩き始めていた。


 その時の私は険しい表情をしていた事でしょう。
 本来なら久しぶりに帰る我が家に心躍る道のりも、心の奥に出来た“しこり”を気にしながら歩いていた。
 

 最後の四つ角を曲がっていた。
 ここを曲がれば我が家までは一本道だ。
 どんなに仕事で辛い時や哀しい時でも、ここを曲がって家の明かりが見えればそんな事を忘れさせてくれる。
 何よりも大切な家族の待っている我が家までは後少しだった。


 しかし・・・・。
 家に明かりは無かった。
 急に右手に持つチーズケーキの箱さえも、重い鉛のように感じてきた。
 駅で小酒井に声をかけられて電話をするのを忘れたのがいけなかったのか・・・いや、確かに昨日の夜 かおりには電話で伝えたはずだった。
 その時のかおりの声も覚えている・・・・はずだった。


 私はポケットからゆっくり鍵の束を取り出した。
 一人暮らしのアパートの鍵穴へ差し込む時のあの空(むな)しさを、ここに帰って来てまで味わうのか。
 私はドアを開けると真っ暗な玄関に佇(たたず)んでいた。


 (・・・・・)
 「ただいま~」
 「お~い あつしー・・・たくみー・・・帰ったぞ~・・・」


 (・・・・・)
 シーンと静まり返る中を私は玄関のスイッチを押し、ゆっくり靴を脱いだ。
 廊下を歩き階段の下に来ると、上に向って再び子供の名前を呼んでみた。
 

 友達も増え ますます元気になっていく二人の息子達。
 そんな子供達を何かと気にする妻のかおり。
 いつも笑い声の絶えなかったこの家の中を、信じられないような静けさが支配していた。


 私は階段の下からリビングへと移動した。
 この扉を開けると、そこからキッチンが見え、かおりのエプロン姿が目に映るはずだった。


 私はゆっくり扉を開けてみた。
 その時だった。
 “パン パン パン パ~ン”
 いきなりの爆竹のようなクラッカーの音が鳴り響き、部屋の電気が一斉に明るくなった。


 「おかえり~」
 「おやじ お疲れ~」


 腹を抱えるように笑う二人の息子とその間でニコニコしている妻のかおりの姿がそこにあった。