小説本文



 私は最寄り駅から本社に向かって歩き始めていた。
 前方にその建物が見えてくると携帯を取り出して、一人の男の番号を押していた。
 本社勤務の時に部下だった男だ。
 偶然にもこの男が、今は花岡の部下のはずだ。


 『はい もしもし』
 久し振りに九州出身のイケメン君の声が聞こえてきた。


 「もしもし 近藤だけど」
 『あ 課長 ご無沙汰しています・・・』
 元部下の威勢のいい声にも、私は頬を緩めることも出来なかった。


 世間話を手短に終わらせると、腹に力を入れ直し本題を切り出した。
 「ところで今日 花岡は来てたかい?」
 『・・・・・・・・・』


 「ん・・・・どうした、休みじゃないだろ」
 『・・・・・課長 あの ご存じないんですか』


 「 えっ ・・何がだい?」
 『 いえ あの・・・本当に知らないんですか』


 「えっ ・・・ああ ・・どうしたんだ、花岡に何かあったのかよ」
 『あの・・花岡さん 辞表出されたんですよ・・・・それもつい先日』


 「なに! 本当か・・」
 『はい本当なんです、僕達もビックリしてますから・・』


 「・・・・そ それで理由は?」
 『いえ それは・・・一身上の都合と言う事だけしか・・・・』


 「そうか・・」
 (花岡が 辞めた・・・会社を)


 私はこの部下との話を素早く終わらせ、花岡の携帯に電話をいれてみた。
 花岡は私の電話を予測でもしていたのだろうか、ツーコール目にはあいつの声が耳元に聞こえてきた。


 『よお 近藤』
 「おい花岡 よお じゃないだろ、どう言う事なんだよ」


 『へっ 会社の事か・・・もう聞いたんだろ、・・その通りだよ・・辞めたんだよ』
 「ばか 何でだよ、理由は何だ」


 『理由? そうだな・・・まあ 会社の為に生きるのがバカらしくなったんだよ、・・』
 「バカらしくなったって・・・そんな・・」


 『ふん 俺はこれらは自分の欲望に素直に生きる事にしたんだよ』
 (・・お前までも・・)
 頭の中に花岡と奥村の顔がダブって見えた。


 そのまましばらく言葉を失っていた私は、何とか電話を掛けた目的を思い出し、電話口に言葉を吐き出した。
 「花岡・・・それで一つ教えてくれ・・・正直に」
 『・・・‥・』


 「お前・・・ひょっとしてかおりと一緒なのか・・」
 『・・・・・・・』


 短い沈黙が続くと、突然私の耳に不気味な笑い声が聞えてきた。
 『くくく・・・ふふふ はっはっはははは・・・あーはっははは・・・』
 ( ! )


 『近藤 お前ひょっとして今 東京か?・・そうか東京に戻ってきたんだな、かおりさんを捜しに。・・・さすが愛妻家だな・・でも もう遅かったんじゃないのかな・・』
 「なっ・・そ それはどういう意味なんだ・・・、おい花岡・・」


 『んん ・・・あわてるな、そのうちかおりさんに会わせてもらえるだろ・・・まあ楽しみにしとけよ』
 「・・会わせて“もらえる”だと・・・おい それはどう言う事だ、おい花岡」
 私はそこが昼間のオフィス街である事も忘れ、怒鳴り続けた。
 そんな私の様子に、行きかう人々が振り返っていた。


 しばらく電話口で荒げていた私の声が静まると、花岡が急に落ち着いた声で再び喋り出した。
 『近藤 とにかく楽しみにしとけ・・・近いうちにお前の知らないかおりさんに会えるって・・・お前も もう見たんだろビデオを、あの中のかおりさんより凄いかおりさんに会えるぞ・・・へっへへ』
 「なっ 何だとー・・・・やっぱり お前がKか この野郎ー」


 『K ・・・ふふふ さあ どうかな・・・』
 「・・・・・・・」


 『それと 警察には行かない方がいいぞ、行ったらお前が見たビデオがあちこちに出回るぞ・・・子供もいるんだし わかるよな・・』
 「・・・・・・・」


 その後は いつ電話を切ったのかも分からず、私は気づいた時には左手で携帯を握り締めていた。
 歩道を歩く人々が私の顔を怪訝(けげん)そうに眺めながら通り過ぎている。
 私はもう一度唇を噛み締めながら本社ビルを見上げると、くるりと踵(きびす)を返した。