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 私は狭い暗がりの中で、息を潜めて縮こまっていた。
 直ぐ目の前には扉があって、そこには小さな穴が空いている。今はそこだけが、唯一の明かり取りになっている。と言っても向こう側は暗く、人の気配は全く感じない。
 このクローゼットに押し込まれて、そろそろ20分くらいだろうか。
 スタッフらしき男に連れられ、舞台を後にした妻。その妻を追うようにと由紀子さんに背中を押される形で、連れて来られたのがこの控え室のような部屋だった。しかしここには、別のスタッフらしき男がいるだけで、妻達の姿は無かったのだが。
 男は『お二人は今、それぞれ別の場所で待機されています』と、落ち着いた声で言った。
 由紀子さんはと言えば『あの二人の関係がどうなっているのか、本当のところを確かめてみたいでしょ』と、私の顔を探るように覗き込んで、更に『催眠ショーは、深層心理を探るのには有益だったけど、理性ある大人は感情どおりには動かないわ。だからね、清美さんが先生と二人きりになって…果たして、貞操を守るか、夫を裏切るか見てみましょうよ』と、諭すように告げて来たのだった。
 それは熱を孕んだ由紀子さんの説得だったかもしれない。その熱がこちらに伝わったのか、私は言われるまま頷いてしまっていた。
 そして『中から部屋が覗けるのよ』と押し込まれたのが、このクローゼットだった。由紀子さんは姿を消し、私一人が息を潜めている。


 狭い密室のような所にいると、色んな事を考えてしまった。勿論、妻と元彼の男の事だ。
 元彼の正体が妻の恩師…教師だった事は意外すぎた。とは言え、例の手紙には、怪しい店で酒を嗜んでた記述があった記憶がある。
 そして悲しいかな、先ほどの催眠ショーで語られた数々の事象が、あの手紙と辻褄があってしまうのだ。
 ああ、その事実はもう認めないといけない。考えれば考えるほど、肩に伸し掛かる想いに潰れそうになってしまう。
 しかしーー。
 妻の告白は全て、過去の出来事…と、自分に言い聞かせようとする私がいる。
 確かに、私達夫婦は何年も肌を合わせていない。それを理由に、妻が元彼の教師の元に走ったわけでもない。
 ただ…。
 由紀子さんは、『二人の関係がどういったものか、確かめたいでしょ』と訊いてきた。又、妻が私を裏切るか見てみましょう、とも云った。
 彼女の言葉に口籠もってしまった私。そんな私自身は、最近の度重なる不能のせいで、男としての自信を失くしかけている。
 と、思考が渦を巻く中、カチャリとドアの開く音が聞こえた。するとパチパチと光が瞬き、部屋が明るくなった。
 私の視界が捉えたのは、部屋の中央にある大型ソファーの前で、ベネチアンマスクを着けたままの初老の男だった。男はなぜか、白いガウンを着ている。


 男がドサリとソファーに腰を降ろす。その様子を観ればリラックスした感じで、覗かれている事など考えてもいないようだ。
 私は男を凝視する。この男が本当に妻の元彼なのかと、力を込めて見詰める。
 この初老の男が本物の『元彼』だとして、あの手紙はどんな気持ちで書いて送りつけてきたのだろうか。清美と別れてからの人生は、過去にしがみつかねばならないほど過酷なものだったのか。それとも持って生まれた性癖が男を動かしたのか…。
 と、再びドアの開く音がした。
 現れたのは、ベネチアンマスクに男と同じガウンを纏った女…。
 髪型こそ普段と違っているが、今男の前に佇んだ雰囲気は妻の清美のものだ。この距離から見詰めれば間違いない。私の胸が、キュウっと締め付けられていく。
 清美がソファーに腰を降ろした。二人の隙間は、人がもう一人座れるくらいの幅。この幅が今の二人の関係を現しているのか。
 俯いたままの清美に「どうだったね?」と、男が顎をしゃくって訊く。
 「どう…と言いますと?」清美が顔を少し上げて聞き返す。その声は緊張を帯びているが、日常の声質に近いもの。自白剤の効き目は、すっかり消えたのか。
 「先ほどの催眠ショーだ。自白剤で口にした事は本当はどうなんだ。覚えてないのかい」
 「はぁ、はい…全く覚えてないとは…何となくは、記憶に、あります」
 「ふふっ。と言う事は潜在意識がずっとあったんだな。私と過ごした淫靡な日々の記憶とか」
 男の嗄れ声は、手紙からイメージしたものより力強く、そして冷たい匂いがする。
 清美は男の言葉に、暫く黙ったままだったが、やがてコクっと頷いた。


 「それで、今のご主人との事だが、夫婦のセックスはノーマルだと告ったな」
 ンググ、と私の息が詰まる。
 「なら、さぞかし欲求不満だっただろ…ん、どうだ?」
 「あぁ…また、そんな意地の悪い質問を…」清美が唇を噛みしめながら、上目遣いに男を見やる。
 「どこが意地が悪いんだ?私はお前の事を想って、本音を聞いておきたいだけなんだがな」
 憎らしげな男の口調に、私の頬がピクピク痙攣する。
 「ここはカメラもない二人だけの世界。さあ、遠慮せずに質問に答えるんだ」
 「あぁぁ…ッ」
 「さあ、正直に」清美に放たれる言葉は、重く落ち着いて聞こえる。「旦那とのノーマルなセックスでは、満足がいかなかったんだな」
 「………」
 「清美、どうなんだ?」
 「は、はい…」と、朱い唇から小さな声が零れ落ちた。
 「で、でも、アタシは主人を…」
 「ああ、そうだな。愛してる…と言うか嫌いになる事はないし、好きなわけだ」
 男の諭すような口調に、清美の顔が縦に揺れる。
 「だがな」と、男の身体が前に乗り出した。「気持ちは残っていても、身体は正直だ。その事も分かっているよな」
 コクリと、今度は確かに清美は頷いた。
 「正直でよろしい。そしてお前のアソコも正直だろ」
 あっ、と清美の顎が一瞬跳ね上がった。
 「そう、ソコだ。今、感じただろ」
 男の指摘と同時に、私の中でもジュンっと濡れ音が鳴った気がした。それは清美に同調したのか、彼女を見れば、顔を俯き肩を小さく震わせている。
 「どうだ清美。私には、お前のソコが尖り、ソコが濡れてるのが観えるぞ」
 「あぁ…」嘆きの声と共に、清美の視線が何処かを彷徨い始めた、ように観えた。


 「じゃあ改めて問うが、同窓会で再会して、お前は過去の調教された日々を思い出していたのだな」
 歯切れの良い男の口調は、圧となって私を押し潰そうとしてくる。
 男が「どうだね」と、又も顎をシャクった。清美の身体が、ビクッと震える。
 「ふう、清美はやっぱり、指示待ち、命令待ちだな」云って、男が清美を刺すように見つめる。
 「お前は夜な夜な、あの頃の調教を思い出していたんじゃないのか。いや、昼間仕事をしている時も、その合間も、そして家族と居る時間さえも…どうだ!」
 「あぁぁぁ…」蚊の鳴くような細い声がした。
 「そう言えば私の調教を受けたお前は、オナニーも夢中にやったと告ってたっけな」
 清美の震えが、見るからに激しくなっていく。


 「10代の頃の衝動は一生続くものだ。女は結婚して妻になり、子供を産んで母になるが、それでもあの頃の性の刻印が消えるわけじゃない。なあ、その事はお前自身も分かっている事だろ?」
 男の悠然とした声に、私の方が頷きそうになってしまう。清美は俯いたままだが、身体の震えは肯定を示しているように観えてしまう。
 「まあ、お前の奥手で大人しめの性格は変わってないようだし。ならば…」
 ゴクッと私の喉が鳴った。耳に全神経が集中する。
 「あの頃のように命令をくれてやるとするか」
 「はぁぁ…」
 「さあ、私の前に来い。そして、そのベネチアンマスクとか言う仮面を外すんだ」
 冷たい空気が部屋中に広がり、その中を清美は、暗示に掛かったように立ち上がり、男の前へと移動した。
 男の姿が、清美の後ろ姿に遮られて見えなくなる。私は清美の後ろ姿に、引き寄せられていく。
 見つめる視界の中で、清美の手がふわりと上がった。
 手は顔の辺り、マスクに掛けられたように観えて、外れたマスクがポロリと足元に落ちた。清美の手は、そのまま頭の後ろのお団子に触れて、髪の毛は手櫛によって整えられようとする。が、髪の長さは以前よりもかなり伸びた気がした。私は妻の些細な変化にも気づかない、鈍感な夫なのだ。


 男の正面に立ち竦む清美。
 男はどんな視線を清美に向けているのか?それを浴びる彼女の心の中は…。
 「ふふっ、いい表情(かお)じゃないか。お前は俺の前では、いつもそう言う顔をしていたな。怯えながらも命令を待つ仔犬のような顔だ」
 後ろ姿しか見れない私には、清美がどんな表情をしているのか分からない。しかし、何となくだが泣き笑いの表情を思い浮かべてしまう。
 「どうした」
 「アタシ、おかしく…なって、ます…」
 その鈍よりとした重い声に、私は嫌な予感がした。
 「ほらッ」
 短く鋭い男の声。同時に清美の身体がビクンと跳ねて、両方の足が左右に拡がっていく。
 すると今度は、清美の手がガウンに掛かり、合わせ目が左右に開がっていく。
 その瞬間、私は清美がガウンに着替えた理由に、今更ながら気付いてしまった。彼女は身体を清め、元彼の前に立つ覚悟を…いや、運命を受け入れたのではないのか…。
 私の腰が無意識に浮いている。目はそれまで以上に、覗き穴を抉っている。ガウンの中はどうなっているのだ。
 「ふふふ、昔を思い出してきたかな」男の冷たい声が続く。「さあ、その次は」
 その声に操られるように、清美が首筋から背中を露わにしていく。やがてガウンは、無造作に床に落とされた。
 瞬間、私の身が竦んだ。見開かれた目が捉えたのは、透き通るような白い肌に引かれた黒いブラジャーの線と、豊満な臀部を覆う黒いショーツだ。
 記憶の奥から、清美の部屋を漁った場面が蘇って来る。あの夜、何の気なしに手にした下着が、今は途轍もなく扇情的に観える。


 「ふふっ、黒か…なかなか似合ってるじゃないか」
 男にとっても何十年ぶりに見る筈の、清美の下着姿。それでも男の声は、憎らしほど落ち着いている。
 「顔を上げて、もう少し胸を張ってみなさい」
 男のその声には、自信と優越さを見せ付けられる気分だ。
 清美は男の声に暗示に掛けられたか、俯き気味だった身体が、確かに胸を張ったように観える。
 ああ…今の清美は、過去の同じ場面を思い出しているのではないのか。男の前で肢体を無防備に曝したであろう、あの頃のように…。