小説本文




 店の暖簾を潜った私に、店員は空いているからと4人掛けの個室を与えてくれた。
 いつもの癖で生ビールをジョッキで頼み、その場で摘みも何点か注文した。
 ビールが来たところでスマホが震え出した。
 妻:清美からのLINEの返信だった。
 『承知しました。気をつけて』
 いつもと同じ文面だったが、今夜は違う空気が私を覆っている。それは、これまで感じた事のない不安を含んだものだった。
 注文の品が届き、店員が去ったところで直ぐさま手紙を取り出し、私は最初の1枚目から読み直す事にした。
 そして続きだ。


 【さて高校3年の7月頃の事です。清美さんには片想いの相手がおり、受験勉強に拍車が掛かる前にと、彼女はその彼に告白をしようと一大決心をしたのです。勿論、その相手とは私ではありません。
 しかし、清美さんは見事に振られてしまい、その噂は直ぐに学年中に広がりました。
 振った彼は私から見ても良い男で茶目っ気があり、明るくスポーツ万能でクラスの人気者でした。そんな彼には、不思議と恋人はいなくて、清美さんとならお似合いのカップルだと私は思っていたものです。
 私はと言えば読書好きの根暗、今で言う陰キャタイプでした。そんな私ですが、清美さんが入学した時から彼女の事を遠目ながらいつも追いかけていたのです。私としたら、決して手の届かない高嶺の花に想いを寄せていたわけです。そんな誰からも好かれる彼女ですから、彼氏がいない事を私は不思議に感じていたものです。しかし、清美さんが告白した事を知って、ずっとその彼の事を想っていた事が分かりました。
 振られてからの清美さんは、傍から見ても落ち込んでいる様子がよく分かりました。】
 そこまで読んだところで、私はふうっと大きな息を吐き出した。
 妻の恋愛遍歴は、付き合っている時にそれなりに聞いていたし、結婚を意識する頃には、互いの体験人数も話していた。しかし、この手紙の主が語るような、細かいところまでは聞いていない。勿論、この差出人が本当の事を云ってる保証もないのだが。
 焼き鳥を齧り、ビールを半分ほど一気に呑み干し、私は続きに目をやった。


 【塞ぎ込む清美さんを見るのは忍びなく、ある時私も一大決心をしました。そうです、清美さんに告白をしたのです。
 しかし、いきなり好きです、付き合って下さいとは言えず、私は課題図書の話を持ち掛けたのです。それが功を奏したのか、想像以上に清美さんと親しく話が出来るようになったのです。
 元々趣味が読書の陰気な男でしたが、この時は読書好きの清美さんと共通の話題があった事に、心から喜んだものでした。
 因みに今の私は何度か転職をした後、お硬い役所仕事をしながら本を執筆しています。本当は作家一筋で行きたいところなのですが、それだけでは食べるのに困るので外に出て働いているわけです。】
 私は知らずに頷いていた。元彼の素性が明らかにされつつ、何となくだがこの男の像が浮かぶようになっていたのだ。


 【共通の趣味で近づいた私は、だんだんと強引になりました。私自身もこの機会にと言う想いが膨らんでいたのです。この女性を何とかしたいと。
 そんなある日、私は清美さんを繁華街の一角にある古びた店に誘いました。そこは昔ながらの寂れた店で、昼は軽食やコーヒーなどを出す店なのですが、夜になるとアルコールも出すチョット怪しげな感じがする店なのです。
 誘った口実は本の話でしたが、清美さんには振られた事を引きずっているところがあり、それで私に付き合ってくれたのだと思います。それはそうです。普通に考えれば、私と清美さんは釣り合う筈がないのですから。
 そんな清美さんでしたが、一風変わった妖しい雰囲気の店の中で、一抹の不安を感じていたと思います。】
 いつしか箸を持つ私の手が止まっていた。知らずのうちに、この自称小説家の男の手紙に引き込まれていたのだ。そして頭の中では、当時の面影と今の妻の姿を重ね合わせようとしている。


 【その陰気な店は、私のようなアングラ小説家のタマゴや読書好きが集まる店でした。
 その店で私は、健全な読書の話で話題を作りながら、清美さんに初めての酒を与えたのです。店の女店主も変わった人で、清美さんが未成年と疑いながらも普通に酒の注文を取ってくれました。そして酔って朦朧となる清美さんを、遠い目をしながらその行方を楽しみにしている様子でした。
 以前から酒を嗜んでいた私です。その時の酒は、勇気とそして下心を私に与えてくれました。】
 と、そこで私はウググっと唸り声を立てた。


 【その後の事は分かりますよね。
 私は酔った清美さんを店から連れ出しました。
 欲望が渦巻く繁華街のど真ん中ですから、そこから僅かな場所にはその手のホテルが幾つかあるのです。
 実は、当時の私は、この店の女店主と身体の関係を持っていたのです。
 そんな私でしたが、ホテルに、しかも憧れの清美さんの肩を抱いて入る時は、身体が震えていました。
 それでも私は、清美さんの『初めて』を頂いてしまったわけです。
 ご主人、しかし私が貴方に伝えたいのは、私と清美さんのその後の事なのです。】
 そこで私は、再び唸り声を上げた。
 次からの行には、この続きは次回の楽しみにしてくれと書かれていた。
 そして最後に、突然の手紙を出した詫びと、今後のお願いが書かれていた。このような手紙を元彼から受け取った事は、暫く妻には内緒にしてほしいとの旨だった。


 手紙を読み終えた私は、頼んだ摘みを殆ど残したままにして店を後にした。
 酔いも殆どなく家路を歩く私は、男からの手紙の事を考えた。
 手紙の内容が事実であったとしても、男と妻の事は過去の出来事で、2ヶ月ほど前の同窓会を切っ掛けに浮気したわけではない。
 しかし、ひょっとしたらこの何ヶ月かの間に、妻は元彼と間違いを起こしていたのだろうか。そう言えば男は、独身なのだろうか。


 家に着いた私。その私を、妻は意外にも寝ずに待っていた。
 『お帰りなさい』と云われ『ただいま』と応える、変哲のない空気が生まれた。けれど私は、こっそりと彼女の横顔や後ろ姿を探るような目で追っていた。
 この妻が…いやいや、手紙の内容は過去の出来事ではないか。しかし、本当は元彼と再会して…。
 そんな妄想が発動されそうになると、この数カ月、妻の物思いに耽ける様子や、滲み出る色香が腑に落ちていくのだ。いや、それともこれはこじつけなのか。


 「…あのさ、今日はどうだったの」
 「へ?」
 振り向いた彼女の表情は、眠気が混ざったものだった。
 「今日は特に何も、いつもと一緒よ…」と、彼女は欠伸交じりで応えた。そして自分の寝室へと向かってしまう。
 残された私は取り敢えず顔を洗い、そのままの格好でリビンクのソファーに腰を着けた。そしてもう一度あの手紙を取り出そうとしたが、もしもを考えて、自分の部屋で読む事にした。


 部屋着に着替えた私は、ベッドに横になった。そして、もう一度最初から手紙を読み直した。
 手紙は2度目だからか、少し落ち着いて読めた気がする。これは一種の告白文で、差出人の男が作家というのも理解出来た気がした。
 それにしても事実かフィクションかは置いといて、登場する女性…若き日の妻と元彼とのその後が気になってしまう。
 私の中には最初、葛藤も生まれていた。この手紙を妻に見せて、事実か訊ねてみては。しかし、そんな考えは既に消え失せている。それはもし、事実であった場合の恐怖に耐えれない自分が想像出来るからだ。
 結局私の心は、このまま次の手紙を持つ事を指示している。
 やがて眠気を感じた私だったが、床に入る前に妻の寝顔を覗いておく事にした。


 彼女は気持ち良さそうに寝息を立てて、眠りに落ちていた。
 化粧が落とされたその素顔は、中年のもので間違いない。しかしそんな素顔も、何処かしら色気を感じる。そして、形の良い口元は知的な感じがしないでもない。これも文学青年との淡い一時が、過去とはいえあったからだろうか…。