第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話 第13話 第14話 第15話 第16話 第17話 第18話 第19話 第20話 第21話 第22話 第23話 第24話 第25話 第26話 第27話 第28話 第29話 第30話 第31話 第32話 第33話 第34話 第35話 第36話 第37話 第38話 第39話
第10話
2回目となる手紙を何度も読み返し、やがて私は店を後にした。
ゆっくりと自宅に向かう私の足は、酔ってる風ではなかった。だからと言って、健全な足取りでもない。
手紙の中の若かりし頃の妻の痴態に、翻弄される男がここにいるのだ。
元彼の男は、手紙の中で、妻が自分で自分を慰めているのではないかと示唆していた。
私は考えるーー妻が眉間に嘆きの皺を寄せ、吐息を吐きながら一人遊びに耽っていたらどうしよう。
私は考えるーー同窓会で元彼と再会した時から、彼女の中で、その存在が大きくなっていたとしたらどうなる。
私は自分に言い聞かせるーーあの手紙の内容が、事実と決まったわけではないのだと。
それから暫く歩き、家に帰り着いた私は、勝手知ってる我が家の玄関の前で、緊張を覚えていた。
時刻を確認すれば、妻が寝てるか起きてるかは微妙な時間帯だ。
娘が一緒にいた時は、娘の帰宅がどんなに遅くなっても、妻は寝ずに待っていたが。
マンションのエントランスの所で、モニターで帰宅を伝える事はしなかった。遅い帰宅の時は、自分で鍵を開けて入るのだ。
エレベーターで昇って部屋の前に立つと、インタフォンは鳴らさずに、鍵の音にも注意してドアを開けた。
部屋の電気はほぼ消えて、廊下の足元を照らすフットライトの灯りがあるだけだった。リビンクもスポットライトが点いてるだけ。間違いなく妻は眠っている。
私は鞄だけを自分の部屋に置くと、音を立てずに妻の寝室に向かった。
彼女の部屋に入るのは、先日の下着調べの時以来だ。あの時は目的の物…根拠は大してなかったのだが、妻が浮気すれば下着の趣味が変わると云った、部下の話があったからだった。
しかし今夜は、妻のあられもない姿を拝む事にになるかもしれない…と思いながらも、直ぐにそれは無いと打ち消す自分がいた。
ドアの前まで来るとふっと息を吐いて、軽く深呼吸する。それからドアに耳を当ててみた。
しかしアノ声はおろか、寝息も聞こえない。妻が寝入っているのは間違いないようだ。私はそっとドアを開けてみた。
部屋の電気は、弱いスポットが点いてるだけだった。その灯りが妻の横顔を微かに照らしている。私は静かに彼女の横に足を運んだ。
その寝顔を窺えば、どって事のないものだ。寝相も大人しい方だろう。
それでも私は、暫く妻の寝顔を見ていた。若い頃を思い返せば、顔全体がふっくらした感じである。意識して観れば、目尻の皺も増えた気がする。
そんな妻だが、贔屓目にみても、歳の割にはまだまだ活けてる方ではないのか。特にこの数ヶ月の間には、年相応の色香が漂ってきた気がするのだ。
妻の胸が上下した。あの頃、トランジスターグラマーと呼んだ豊満な身体は、多少の肉付きが増した筈だが、それでもそれは母性を身に着け、柔らかさを増したともいえる。この身体を最後に抱いたのは…。
私はゴクリと息を飲んだ。あぁ、近いうちにアレに誘ってみようか…。
その時、妻が寝返りを打った。
唇がムニャムニャと動き、鼻からは軽い鼾の音。私はその様子を見ながら、部屋を後にしたのだった。
自分の部屋に入った私は、寝る準備をした。
しかし床に就いても、頭に妻の事が浮かんで仕方なかった。それは若き日の二人の回想だった。
付き合い始めて、初めて結ばれ、それから結婚して、新婚の頃の模倣のセックス。自分の事を淡白と思った事はないが、妻の方はどう感じていたのだろうか。
あの頃、妻は素晴らしい感度をしていた。それは私の責めが良かったからか。まさかあの仕草や、あの振る舞いは、元彼の仕込みがあったからなのか。
いや、私は何を考えているのだ。それは今さらの事ではないか。それでも…。
次の日の朝、と言ってもいつもと変わらない朝で、私達はおはようとお決まりの挨拶を交わした。
そして私は、今朝も意識して妻の横顔を盗み見する。
そんな私を見計ったかのように「あなた、今夜も遅いんですか」キッチンに立つ妻が、いきなり訊いてきた。
「い、いや今夜は大丈夫だよ」私は狼狽え気味に返事をした。「清美はさ、仕事だったよな」
「ええ、そうですけど?」洗い物の手を止めて、彼女が少し振り向く。
「いや別に…」
二人の間に変な沈黙が生まれた。この沈黙が意味するところは、何なのか。
「そうだわ」妻が何かを思い出したように、身体ごとこちらを振り向いた。
「夕べ陽子からLINEが来たんですけど、風邪気味らしくて」
私の眉間に皺が寄った。
陽子は私達の一人娘で、地方の大学に通い、一人暮らしをしている。昔から明るい娘だが、一人暮らしを始めてからは、たまに元気を無くすらしい。適度に連絡を取るのは妻の方で、娘の様子はいつも妻から聞くのだった。
「大丈夫なのかな」
「本人は直ぐに良くなると思うって云ってましたけど…」
私は表情を歪めた妻を見ながら、娘の顔を思い浮かべた。
そう言えば私は、暫く娘と合っていない。妻の方は2ヶ月ほど前、私の出張の際に陽子の所に行ってる筈だ。
「あのさ、陽子の所…」
と言いかけた途中で「私も今、そう思ったんです。様子を見て来ようかと…」妻が心配顔で私を窺う。
私は頷いた。「そうだな、二人で…」
「え、貴方はお仕事が」
「いや、次の土日に」
しかし妻は首を振っていた。
「あと2日もあるじゃないですか」
今日はまだ木曜日だし、妻の言いたい事は分かる。彼女は明日にでも行くつもりなのか。
しかしそれほど急ぐ話だろうか。容態などLINEで幾らでも訊けるではないか。
それでも私は、それ以上の事を口にする事が出来なかった。頭の中に変な妄想が湧き立って来るのを感じたからだった。