小説本文




 2回目となる手紙を何度も読み返し、やがて私は店を後にした。
 ゆっくりと自宅に向かう私の足は、酔ってる風ではなかった。だからと言って、健全な足取りでもない。
 手紙の中の若かりし頃の妻の痴態に、翻弄される男がここにいるのだ。
 元彼の男は、手紙の中で、妻が自分で自分を慰めているのではないかと示唆していた。
 私は考えるーー妻が眉間に嘆きの皺を寄せ、吐息を吐きながら一人遊びに耽っていたらどうしよう。
 私は考えるーー同窓会で元彼と再会した時から、彼女の中で、その存在が大きくなっていたとしたらどうなる。
 私は自分に言い聞かせるーーあの手紙の内容が、事実と決まったわけではないのだと。


 それから暫く歩き、家に帰り着いた私は、勝手知ってる我が家の玄関の前で、緊張を覚えていた。
 時刻を確認すれば、妻が寝てるか起きてるかは微妙な時間帯だ。
 娘が一緒にいた時は、娘の帰宅がどんなに遅くなっても、妻は寝ずに待っていたが。


 マンションのエントランスの所で、モニターで帰宅を伝える事はしなかった。遅い帰宅の時は、自分で鍵を開けて入るのだ。
 エレベーターで昇って部屋の前に立つと、インタフォンは鳴らさずに、鍵の音にも注意してドアを開けた。
 部屋の電気はほぼ消えて、廊下の足元を照らすフットライトの灯りがあるだけだった。リビンクもスポットライトが点いてるだけ。間違いなく妻は眠っている。
 私は鞄だけを自分の部屋に置くと、音を立てずに妻の寝室に向かった。
 彼女の部屋に入るのは、先日の下着調べの時以来だ。あの時は目的の物…根拠は大してなかったのだが、妻が浮気すれば下着の趣味が変わると云った、部下の話があったからだった。
 しかし今夜は、妻のあられもない姿を拝む事にになるかもしれない…と思いながらも、直ぐにそれは無いと打ち消す自分がいた。


 ドアの前まで来るとふっと息を吐いて、軽く深呼吸する。それからドアに耳を当ててみた。
 しかしアノ声はおろか、寝息も聞こえない。妻が寝入っているのは間違いないようだ。私はそっとドアを開けてみた。
 部屋の電気は、弱いスポットが点いてるだけだった。その灯りが妻の横顔を微かに照らしている。私は静かに彼女の横に足を運んだ。
 その寝顔を窺えば、どって事のないものだ。寝相も大人しい方だろう。
 それでも私は、暫く妻の寝顔を見ていた。若い頃を思い返せば、顔全体がふっくらした感じである。意識して観れば、目尻の皺も増えた気がする。
 そんな妻だが、贔屓目にみても、歳の割にはまだまだ活けてる方ではないのか。特にこの数ヶ月の間には、年相応の色香が漂ってきた気がするのだ。
 妻の胸が上下した。あの頃、トランジスターグラマーと呼んだ豊満な身体は、多少の肉付きが増した筈だが、それでもそれは母性を身に着け、柔らかさを増したともいえる。この身体を最後に抱いたのは…。
 私はゴクリと息を飲んだ。あぁ、近いうちにアレに誘ってみようか…。
 その時、妻が寝返りを打った。
 唇がムニャムニャと動き、鼻からは軽い鼾の音。私はその様子を見ながら、部屋を後にしたのだった。


 自分の部屋に入った私は、寝る準備をした。
 しかし床に就いても、頭に妻の事が浮かんで仕方なかった。それは若き日の二人の回想だった。
 付き合い始めて、初めて結ばれ、それから結婚して、新婚の頃の模倣のセックス。自分の事を淡白と思った事はないが、妻の方はどう感じていたのだろうか。
 あの頃、妻は素晴らしい感度をしていた。それは私の責めが良かったからか。まさかあの仕草や、あの振る舞いは、元彼の仕込みがあったからなのか。
 いや、私は何を考えているのだ。それは今さらの事ではないか。それでも…。




 次の日の朝、と言ってもいつもと変わらない朝で、私達はおはようとお決まりの挨拶を交わした。
 そして私は、今朝も意識して妻の横顔を盗み見する。
 そんな私を見計ったかのように「あなた、今夜も遅いんですか」キッチンに立つ妻が、いきなり訊いてきた。
 「い、いや今夜は大丈夫だよ」私は狼狽え気味に返事をした。「清美はさ、仕事だったよな」
 「ええ、そうですけど?」洗い物の手を止めて、彼女が少し振り向く。
 「いや別に…」
 二人の間に変な沈黙が生まれた。この沈黙が意味するところは、何なのか。
 「そうだわ」妻が何かを思い出したように、身体ごとこちらを振り向いた。


 「夕べ陽子からLINEが来たんですけど、風邪気味らしくて」
 私の眉間に皺が寄った。
 陽子は私達の一人娘で、地方の大学に通い、一人暮らしをしている。昔から明るい娘だが、一人暮らしを始めてからは、たまに元気を無くすらしい。適度に連絡を取るのは妻の方で、娘の様子はいつも妻から聞くのだった。
 「大丈夫なのかな」
 「本人は直ぐに良くなると思うって云ってましたけど…」
 私は表情を歪めた妻を見ながら、娘の顔を思い浮かべた。
 そう言えば私は、暫く娘と合っていない。妻の方は2ヶ月ほど前、私の出張の際に陽子の所に行ってる筈だ。
 「あのさ、陽子の所…」
 と言いかけた途中で「私も今、そう思ったんです。様子を見て来ようかと…」妻が心配顔で私を窺う。
 私は頷いた。「そうだな、二人で…」
 「え、貴方はお仕事が」
 「いや、次の土日に」
 しかし妻は首を振っていた。
 「あと2日もあるじゃないですか」
 今日はまだ木曜日だし、妻の言いたい事は分かる。彼女は明日にでも行くつもりなのか。
 しかしそれほど急ぐ話だろうか。容態などLINEで幾らでも訊けるではないか。
 それでも私は、それ以上の事を口にする事が出来なかった。頭の中に変な妄想が湧き立って来るのを感じたからだった。