小説本文




 秋葉先生と【BAR 白昼夢】での話を終えた私は、真っすぐ駅へと来た道を歩いていた。あの薬ーーシンカノシズクでボォっとした頭は既にシッカリしている。
 最後に先生から告げられた言葉が、気にならないと言えば嘘になるが、私はなるべく気にしないようにしようと思っていた。
 駅が見えてきた時だ。渋谷君の顔を思い出して、彼にメール打っておこうと足を止めた。


 《渋谷君
 ご無沙汰しています。
 先般からの諸々の相談事ですが、何とか私自身の中で解決に至りました。
 妻との日常が充実に代わりつつあり、私のストレスも何とかなりそうな雰囲気なんです。
 渋谷君には、色々と心配と迷惑を掛けて申し訳ありませんでした。
 今後、もし何かありましたら、相談するかもしれませんが、その時は又懲りずに相手をして頂けれればと思います。
 では、神田先生にもよろしくお伝え下さいませ。
 寺田 》


 硬い文面になってしまったが、送り終えるとフッと肩の力が抜けた気がした。
 彼からの返信は直ぐに来た。駅の改札前まで来た時だった。


 《良かったですね(笑)
 また何かあったら気軽に連絡下さい》


 あっさりすぎる内容だったが、渋谷君らしいと私は笑みをもらした。そして、まだ南口の体操教室にいるかもしれない久美子に会わないようにと、急いで改札を潜ったのだった。


 家に戻った私。
 妻はまだ帰っていなかった。
 着替えもせず部屋のベッドに横になると、これまでの事を色々と思い返してみた。


 ーー半年ほど前から急にストレスを実感するようになった私。その様子に気づいていた妻。その妻も又、病的なストレスを抱えていた。
 妻は私の事を心配して、奈美子さんや秋葉先生に相談していた。そこで“疑似夫婦”に翻弄されたり、私のパソコンを覗いたりして、妻自身も性の深淵に近づいてしまった。
 妻はストレス解消の一つとして、体操教室に通い始めていたが、どの程度解消に至っているかは分からない。
 私の方はと言えば、滑稽な姿だけを晒していた気がする。
 久美子に浮気疑惑を抱き、その相手を探ろうとしたが、結局のところ疑惑などなく、妻は教え子のストーカー対策をしていたのだった。その教え子と言うのが、秋葉先生の娘さんだったと意外な事実もあったわけだが。
 先輩ーー大塚先生の勧めで諸々と相談した相手、神田先生と渋谷優作君にも翻弄された。渋谷君は私を、M駅の南口の怪しい街に誘い、淫靡な造り話を聞かせ、そしてマジックミラーで、ある変態夫婦の痴態を覗かせたのだ。その夫婦が、秋葉先生と妻の学生時代からの友人でもある奈美子さんとの“疑似夫婦”だった事は今日知ったばかりだった。
 秋葉先生が悩みの相談をしていた相手も、渋谷君と神田先生だったと知った時は更なる驚きだった。頭の中に蔓延っていた“歳の差夫婦“が秋葉ー奈美子の疑似夫婦だった偶然には感動すら覚えてしまう。
 何れにせよ、ここ数日の妻は私好みというか本人の資質の開放もあってか、変態的な振る舞いをしてくれている。
 これ以上に私が望むものがあるだろうか…そんな事を考えつつ、睡魔を感じ始めていた。そして何時しか、眠りに落ちていったのだった。


 ーー目が覚めたのは何時頃だったか。
 瞼の開いた私の目の前には、妻久美子の顔があった。


 「あなた、起きましたか。ずいぶん長いお昼寝でしたね」
 「ああ、ゴメン、ゴメン」と、身体を起こそうとした。
 妻は私の様子を確認すると「お茶、淹れますね」と、笑みを浮かべて部屋を後にする。
 妻の後に続いてリビングに向かった私は、寝床で考えていた事を口にした。
 「あのさぁ、今日の夜だけど、例の“ごっこ“…アレを又やらないかい?」
 『ごっこ』とは、私達夫婦が何年か前に始めた文字通りの遊びだった。夫婦のマンネリを無くす為に、恋人同士だった頃に戻ったつもりで、別々に家を出て目的の場所で『久しぶり、元気だった?』と会って、腕を組むのだ。そして、お茶や食事をして、その後は手と手を繋ぎながら厭らしいホテルへと向かうのだ。最近も一度、久しぶりにその“ごっこ”をやっているのだが、ソレを今夜もやらないかと提案したのだった。
 しかし。
 「ごめんなさい。実は何だか身体の調子が悪いんですよ」
 「え、そうなの!」
 「はい。体操教室で身体を動かしてる時から、変な感じがして」
 「熱は?」
 「熱は無いみたいです。でも頭が…」
 「そうか…じゃあユックリ休んでおくれ」
 「ありがとうございます。たぶん、事務作業が立て込んでて、根を詰め過ぎてたんだと思います。でも、直ぐに良くなると思いますから」
 「それならいいんだけど…」
 「はい。それと、夕飯用にお弁当を買って来てるので、適当に食べて下さい」
 「うん、分かった。ありがとうね」
 そして妻は、申し訳なさそうに自分の部屋へと足を向けた。


 夜ーー。
 適当なところで夕飯用の弁当を一人で食べた私。
 妻は自分の部屋にこもったきりで、物音も聞こえない。本人が告(い)ってた以上に具合が悪いのかも知れない。私の方は昼寝をしたからだろうか、目がパッチリだ。
 そのせいか、この夜、眠りについたのは明け方近かった。




 日曜日、目が覚めたのは時計の針が10時を指した頃だった。
 起き上がって、いつものように枕元のスマホを手に取れば、見慣れた点滅に気が付いた。
 開けてみればメールが何件か入っている。
 まず目に付いたのは、妻の久美子からのものだった。


 《おはようございます。
 声を掛けても起きなかったので、メールにしました。
 体調の方はすっかり良くなりました。
 今日のアタシですが、急用が出来たので出掛けます》


 私はそのメールをもう一度読み返した。
 そこにあった“急用”ーーこれは気にならないと言えば嘘になる。しかし、久美子の体調が戻っているなら、それは良しとしないといけないだろうか…。


 心に引っ掛かりを覚えながらも、他のメールにも目をやった。取り立てて意味のあるメールは見当たらない。と思ったところでショートメールに気が付いた。
 このところショートメールを私に送ってくる相手と言えば、一人しか浮かばない。


 《寺田君、秋葉です。
 昨日の今日で申し訳ないのだが、昼からまたM駅まで出て来てくれないかな。
 久美子君には、僕と会うと云って出掛けても大丈夫だからね。
 では》


 読み終えると、暫く腕を組んで考え込んだ。
 確かに一昨日の金曜日に秋葉先生に送ったメールでは、土曜、日曜ともに時間が空いてると伝えていた。先生もそれを分かっていて、急な誘いをしてきたと思えるのだが。
 何処となく不穏な匂いも感じた私だったが、時間を決めて返信を送る事にした。


 軽く食事をして家を出る。
 久美子は既に出掛けているので、秋葉先生と会う事は黙っておく事にした。
 M駅での待ち合わせの場所は決めていなかったが、昨日と同じ北口でいいだろうと考えた。
 電車の中では、妻からのメールと秋葉先生からのメールを何度も見比べながら読み返した。
 今日はこれから、一体どういう話が待ち受けているのだろうか。


 電車がM駅に差し掛かった頃だった。スマホが震えた。開けてみれば秋葉先生からのショートメールだ。
 《今どの辺りかな。
 着いたら南口のロータリーの方に向かって下さい》


 南口の文字に、一瞬武者震いが起こってしまった。
 やはり、淫靡な“性的“な話の続きなのだろうか。
 電車を降りた私は、真っ直ぐ南口へと足を進めた。
 エスカレーターを降りて、目的のロータリーからタクシー乗り場の方を向いた時だった。
 「寺田先生」
 いきなり後ろから声を掛けられた。振り向けば意外すぎる人ではないか。


 「か、神田先生、どうしてこちらに…」
 それは、例の怪しげな老紳士、神田先生だった。
 「やぁ、久し振りだね。元気にしておられたかな」
 「は、はぁ、まぁ…」
 私の頼りない頷きに、先生は「ふふふ」と笑う。
 「秋葉君の代わりに私が迎えに来たんだよ」
 秋葉君…そう告げた先生の目が、怪しい光を放っている、ように観(み)える。その先生が続ける。
 「さぁ、さっそく行くとしようか」
 「あ、あの、どちらへ?」
 「ん、秋葉君から聞いておらんのか。じゃあ着いてきたまえ」と先生が笑った。


 歩き始めて暫くすると「ところで、優作君から聞いたが、貴方はだいぶ元気になったみたいだな。良かった良かった」先生が話し掛けてきた。
 「ワシの方は、最近膝が痛くてな。こうして歩いていても、時々ズキンとくるんだ」
 「そ、それは…」大変ですね、と云おうとしたが口が動かなかった。早くも緊張が生まれている。そう、私の勘は何かの予兆を感じていたのだ。


 「それにしても、人の出会いは偶然と縁に置き換えられるが本当に不思議なものだなぁ」
 落ち着いた口調で話す先生に、私の方は黙って頷くだけだ。
 「あなたと秋葉君達にも縁があったと知った時は、さすがのワシも驚いたよ」
 あぁ…やはり、この先生の耳には事実がシッカリと伝わっていたのだ。


 「でも考えてみれば、私等の仕事のコミュニティは狭い世界での話だ。その更に狭い教師の世界で生きてる先生連中は、もっと互いを認め合わねばいけない。そう思わないかね」
 「は、はぁ、確かに…」
 「ふふっ、そうだろう。そう、人間が持つ“欲“…その一つである性欲を素直に出し合って認め合えれば、ストレスが減る。その事が健全へと繋がるのじゃよ。ふふふ」
 あぁ…。
 それから暫くは、黙ったまま足を進めた。
 やがて、見慣れた風景の先に、やはり見慣れてしまった建物の姿を見たのだった。