小説本文




 妻の久美子が、昔お世話になった秋葉先生と、怪しげなBARに入って行く姿を目撃した日曜の昼下がり。私は店を見張るつもりで帽子とサングラスを買ったが、結局は逃げるようにその場を離れてしまっていた。
 確かに隠れる場所も無かったわけだけが、やはり私には荷が重い作業だったのだ。渋谷君がいてくれれば、機転を利かせてくれたかもしれないが、彼は今ごろ家で寝てる頃だろう。
 私の方は駅の北口まで戻ると、又もカフェで悶々と時間を過ごす事になってしまったのだ。


 帽子を被り、黒っぽいサングラスを掛けたままコーヒーを飲む。足の震えは治まってはいるが、心臓の方はまだ揺れてる感じだ。
 妻が恩師とはいえ、男と二人で歩いている姿をこの目で見たのだから。しかも二人が入って行ったのは、怪しげな匂いがするBARなのだ。
 二人が店の中で性的な行為をするとは思いたくはない。以前に妻が秋葉先生の娘さんと入った店だろうし問題は無いと思いたいのだが、現実は小説より奇なりと言うし。あぁ、二人はいったい何を…。
 しかし、私にはそれ以上に出来る事が無かった。結局、この界隈で自分の姿を見られる事を恐れて、そそくさと戻る事にした。


 家に帰った私は、夕飯前には滅多にやらないアルコールを口にした。
 妻が帰って来たのは夜の6時頃だった。彼女は私の酒の匂いに、怪訝な顔をみせていた。私はアルコールの力を借りて、妻を問い質そうとしていたのだ。


 一通り静かな食事の時間が終わった時だった。
 「あのさぁ…今日の奈美子さんとの“デート”はどんな感じだったの」
 「へ!?デート…あぁそうですね…いつもと一緒でしたわ」
 「ふ~ん、そうなんだ…。実はね、僕、今日ふらっM駅に行ったんだよ」
 え!っと久美子の頬が震えた。
 「ほら先日もM駅に行ったし、面白そうな所だと思ったんでね…」
 思い付いた事を口にしてしまった感はあったが、告(い)ってしまったから仕方ない。妻の方は何かしらの圧を感じ始めたのか、唇を噛み結んでいる。


 「………」
 「それでさぁ、南口の方にも出てみたんだよね」
 南口と口にした所で自分の声が微妙に震えた気がしたが、コレも仕方がない。
 妻をチラリと見れば、顔が俯き気味だ。それでもここから先を話すのは勇気がいる。
 コホンと、わざとらしい咳をしてみせて「うん、そこで偶然にも“君”を見かけたんだよね。隣にはそっくりな人がいたね」
 酒の力を借りて、何とかここまで問い質した。妻はまだ黙ったままだ。そんな妻に私は続ける。


 「あのぉ…久美子がほら、前に好きな事をしてるって云ってた“好きな事”って体操教室なのかい?」語尾が微かに震えてしまった。
 その言葉に「ええ…」と溜息のような声で返事が返ってきた。
 私の方は安堵とも疑心とも言える微妙な吐息を吐き出した。
 そしてもう一度、コホンと咳払いをして「それで僕はさ、カフェでお茶を飲んで適当に家に帰ろうと思ってたんだけど、店を出たタイミングで又“君”を見つけちゃってさ」
 その瞬間、妻の顔が少し上がった。
 「見てると一人で北口の方に行ったから、声を掛けようと思ったんだけど…中年の男と会ってて…あれ!?って」
 妻をそっと観(み)れば、目頭が潤んでいるようにもみえる。
 「それで思わず、後を尾(つ)けちゃったんだよね」
 そこで私は、気づかれないようにスゥっと息を吐いた。酒が入っていても緊張は続いているのだ。
 私が黙り込むと、ダイニングに奇妙な静けさが流れ始めた。重い空気が降り掛かって来る。


 暫く沈黙が続いた後、妻が顔を上げる。そしてこちらを伺いながら口を開いた。
 「あなた…告(い)ってもよろしいでしょうか」
 妻のその眼差しに、一瞬ドキリとした。
 「…あなたもM駅には以前も行かれた事がありましたよね。確か…何時かの水曜日です。教え子のストーカー騒動が治まって、そのお祝いにその子と私でM駅で打上げをやった日です」
 私は頷いた。それは勿論覚えている。渋谷君と会うのに指定された場所が、偶然にも同じM駅だったのだ。


 「あの日の夜、あなたは急用でM駅に行くってメールして来ましたけど、アタシは心配になりました」
 「………」
 「だってM駅って…ほら、治安の悪い“厭らしい”所じゃないですか。平日の夜に男の人がそんな街に…。それにあなたは、半年前から病的と言うか、おかしな感じがしてましたし」
 心の奥で『うう』とか『あぁ』とか、奇妙な唸りが上がった。


 「それに…」妻の口元が又も強く結ばれて「その前にもあなたは、アタシの下着を見たりしてましたよね」
 うっ!!その言葉に、今度は確かな唸り声を上げてしまった。
 「アタシがシャワーを浴びてる時でした。脱衣所にあなたが入って来たのは直ぐに分かりました。そして洗濯機の蓋を上げて覗いてましたよね」
 「………」
 急に身体が重くなってきた。痴漢が警察に問い質される時の気分はこんな感じなのか。勿論、私に反論の余地など全くない。
 「あなたが脱衣所から出て、暫く経ってからアタシは湯船を上がりました。そして直ぐに、洗濯機の中を調べました。奥の方でシャツの中に丸めておいた筈のショーツの位置が違ってました」
 そこで妻が一旦口を閉じてしまった。今度は私が無言の圧力を感じる番だ。


 やがて彼女が話を続ける。
 「そんな事があったし、思い切ってあなたを調べようと思ったんです」
 調べる?
 その言葉に疑問が湧いてくる。


 「はい。昨日の奈美子との約束が延期になったって云いましたけど、理由はあなたにあったんです」
 「え?」
 「アタシが出掛けるって告(い)ったら、あなたも出掛けるだろうと思って…。それで探偵を」
 「えっ探偵!?」
 「はい。ストーカー対策で雇った探偵さんに、あなたの尾行をお願いしようとずっと待機して貰ってたんです」
 「!…」
 「あなたの方から『奈美子と出掛ければ』って云われたんで、昨日辺りに動きがあるかと思ってたら、案の定といいますか…」
 「あぁ…く、久美子は…」
 「…はい、探偵と一緒にあなたを尾(つ)ける事が出来ました。あなたは〇〇町のシティホテルに行かれましたよね。途中で髪型まで変えて…」
 あぁ…あの滑稽な髪型にした私は、あの時既に醜態を曝していたのだ。
 「アタシは探偵の支持で近くのファミレスに入って、悶々としながら待っていました。探偵さんもあなたがどの部屋に入ったかまでは判りませんでしたが、何時間位いたかはアタシにも分かります」
 「………」
 「探偵さんが言うには『この手のホテルに入って、何時間も出て来ないところをみると…間違いなく…』って」
 あぁ、自然と頭が項垂れ、身体が震えてくる。穴があったら入りたいが、そんな物はどこにもない。


 「アタシも幾らかの覚悟はしてましたが、それでも確証は無かったので誰かに相談しようと思いました」
 「あぁ…」
 「それで今日、奈美子とは半年ほど前から時々体操教室に付き合って貰ってましたが、彼女にこの手の相談はしづらくて…。それで…」
 「あぁ、それを秋葉先生に相談したんだ」
 妻はコクリと頷いて「あなたにも秋葉先生だと分かってたんですね」
 私の方は黙ったまま頷いている。
 「そうです。娘さんのストーカー騒動を一応アタシが解決したので、それで今度はアタシの相談に…」
 「そ、その場所がM駅のあのBARだったんだ…」
 「その通りです。前にも云ったと思いますが、あの店は秋葉先生の若い頃の教え子さんがやってるお店なんですよ」
 「ああ、覚えてる。久美子から聞いた…」
 「ええ、はい」
 それから又も沈黙の時間がやって来た。今度、ソレを破ったのは私だった。


 「ぼ、僕はさ、久美子が本当に奈美子さんと会うのかが心配でさ…。いや、奈美子さんて女性がこの世に存在してるのかも不思議な感じがしてたんだけどね」
 「ヘ?あなた…おかしな事を…。前に奈美子と撮ったツーショットを見せましたよね」
 「あ、ああ、まぁそうなんだけどね…」
 黙り込んだ私は、この展開がどうなるか想像が付かなかった。もう、昨日の“浮気”を白状して土下座でもしようか。そして自分の性癖を言葉で伝えて、一層の事どこかの病院にでも入れて貰おうか。
 そんな事さえ思い付いた時だった。


 「あなた…あなたはやっぱり凄いストレスを感じていらっしゃったんですね。男性だしアタシよりもプレッシャーがあったんですね」
 「いや…それはお互い様だし…久美子だって学校で…」
 そこまで告げた時、彼女が潤んだ瞳を向けてきた。その目には哀れみの色も浮かんでる気がした。


 「あなた、あのパソコンに有った履歴…」
 あぁ…今更あの変態的な動画や画像、それに寝取り・寝取られの卑猥なエロ小説の事を責められるのか…と頭に浮かんだ時「アタシ、シャワーを…あなたはお部屋の方に…」と、妻がトロ~ンとした貌で告げた。
 私は妻の言葉に、一瞬何の事だと疑問を浮かべた。しかし妻は、席を立つと自分の部屋に向かったのだった。