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 遂に妻の尾行に着手出来た日曜日。
 渋谷君の協力もあって、尾行自体は思った以上に上手く進んでくれた。妻と落ち合った女性は久美子とそっくりで、間違いなく妻の学生時代からの友人ーー奈美子さんと判断した。
 その二人はお喋りもそこそこに、直ぐに店を出ていったのだった。
 私は渋谷君の誘導で妻達を追い掛け、駅の南口に抜ける所で彼に追いついた。


 「し、渋谷君、ごめんごめん」私は息を切らしながら頭を下げた。
 「ほら先生、奥様達はあそこですよ」
 彼の落ち着いた声に視線を向ければ、妻達の後ろ姿がロータリーからビル群の方に進むのが見えた。
 二人の後ろ姿は身長、髪型、それに体型もそっくりだ。その姿が遠ざかって行く。


 「先生、あっちは“あれ”ですね」
 それは言われるまでもなく、私にも分かっていた。そうなのだ。あっちは善と悪が同居しているエリアなのだ。
 「どうしますか先生?お二人が立ち上がったんで咄嗟に追いかけてしまいましたけど、奥様と一緒にいたのはお友達で間違いないようだし、もう帰りますか?」
 「いや…あの…もう少し後を尾(つ)けてみてもいいですかね…だって南口だし…」
 「…ふふっ、そうこなくっちゃ」
 彼の口元には挑発の色が浮かんでいた。表情(かお)を窺えば、先程までの寝ぼけ眼(まなこ)など何処にもない。
 「じゃあ急ぎましょう、見失わないうちに」
 告げ終わらぬうちに歩き出した彼に、私は隠れるようにして着いて行く事にした。


 暫く進むと見覚えのある街並みが現れた。
 日曜日の昼間だというのに、辺り一帯が鈍よりとした空気に包まれている気がしてしまう。
 目に映るのは古い雑居ビルに昔ながらの居酒屋や喫茶店で、その合間には有名な塾やよく聞く名前の会社の看板などがあったりする。
 華の会という変わった名前の看板を横目に見ながら少し進むと、記憶にあるビルが現れた。
 それはーーあの時は夜だったが今見ても確かに暗く怪しい感じのビルだ。そう、神田先生の事務所が入った例のビルだった。


 「どうしましたか先生」
 足が竦んでしまった私を、渋谷君が振り返って見詰めてきた。
 「い、いや、渋谷君さぁ…あのビルは…」
 そう呟いて視線を向ける。
 妻達がそのビルの前で立ち止まっているのだ。まさか彼女達はマジックミラーの部屋に行く気なのか…。


 頭の中に幾度とネットで視てきた卑猥な映像が浮かんでくる。
 ーー妻の密会の相手は女だ。その女と濃厚な口吻を交わす妻。そして互いの性器をシャブリ合う二人。
 旦那に見せた事もない姿を、担保された秘密の場所で見せ合うのだ。それがあのマジックミラーの部屋…とすると二人は、客もよんでいるのか。妻達は既に、視られる事にも快感を覚えてしまっているのか…。


 と「先生、大丈夫ですか」
 その声でハッと顔を上げた。
 渋谷君が心配そうに覗き込んでいた。
 「あっあぁ…妻達がマジックミラーの部屋に…」
 何かを訴えようとする私の声に、彼が顔を顰(しか)めて首を左右に振る。
 「ほら、よ~く見て下さい」
 その声に改めて妻達を探した。よ~く見れば妻達が立っているのは隣のビルの前だ。そこの2階には一面に拡がる大きな窓。そして『体操教室』と描かれた看板の文字。
 その瞬間、あああっ、情けない声を発していた。そして力が抜けていく気がした。
 「あぁ…そうでした。妻も奈美子さんも体操をやってたんですよ」と、一人言が溢れ落ちていった。妻達は体操教室が入ったビルの階段を昇っていく所だったのだーー。


 ーーそれから20分ほど隠れるようにしてそのビルを見張っていたのだが、妻達が向かったのは体操教室だと判断して駅前まで戻る事にした。
 小さな喫茶店を見つけて入れば、渋谷君を労う食事の時間の始まりだった。


 私は徐々に落ち着きを取り戻していた。
 注文したハンバーグ定食を食べ終わる頃だった。
 「渋谷君はこの辺りでご飯とか食べる事はあるの?」
 勿論、私が訊いた“この辺り”とは南口の事だ。
 「そうですねぇ、この辺りではないかなぁ。神田先生の“あの”事務所には何度か行った事がありますけど、お茶したりメシを食うのは北口の方ですね」
 「そうなんだ。僕もM駅自体、来る事はなかったんだけど、ほら初めて久美子を尾行してもらった時があったじゃない」
 「ええ良く覚えてますよ。奥様を見つけられなくて“造り話”をした時ですよね」
 「そう、その時です。あの日、渋谷君と連絡がつかないから駅の周りをウロウロしてこの南口にも来たんですよ。その時、休憩がてらに確かこの先にあったレトロ調の喫茶店に入ったんですよ」
 「ああ、そういえば昔ながらの店がありましたね」
 「そう、そこに入ったらね、店の女店主が女性を斡旋して来たんですよ。凄いよね、まるで昭和の色街かと思ったよ」
 「ああ、そうみたいですよ。神田先生に教えて貰ったんですけど、ずいぶんと昔は、この辺りは赤線って言うんですか、要は売春の盛んな街だったみたいで、その名残というか今もソレっぽい商売をしてる人がいるみたいですよ」
 「うんうん、僕もそんな感じがした。その女店主が云ってたけど、普通の人妻が旦那さんに出来ないようなサービスをするって…」
 「ふふっ、先生また妄想してますね」
 「あぁ、そうかもしれない。いつも…いや、半年前から妄想が酷いんだよね」
 「どんな妄想を見るか、いくつか教えて下さいよ。ほら、人も殆どいないし」
 確かに日曜の昼間だというのに客が少ないのだ。北口なら空いてる店を探すのが大変そうなのに、こっちは街の雰囲気のせいか入った時から客が疎(まば)らなのだ。


 「妄想か…でも、それはやっぱり恥ずかしいよ…」
 「と言う事はかなり、変態チックな話ですね」と彼が笑みを零す。
 「ま、まぁそうだね…うん」
 「ヘヘ、じゃあ僕がまた“造り話”でもしましょうか」
 「うっ、また…ですか」
 「ええ、実はさっき気になる事があるって言ったの覚えてます?」
 「ああ、そういえば呟いたのが聞こえましたよ」
 「そうなんです。さっきのカフェに奥様達が入ったじゃないですか。先生は僕が店に様子を探りに行くのを電柱の影から見てましたよね」
 「は、はい、そうでした」
 「僕はほら、帽子にサングラスで奥様達の後ろ側の席に座ろうと思ってたんですよ」
 「ええ、そうでしたね。僕の所からもそれは観(み)えましたよ」
 「はい、それでね。店に入って奥様の後ろ姿を見ながら進んだんですよ。その時にね、耳たぶの下辺りに黒子(ほくろ)があるか確かめてみたんです」
 「ああ…」
 「ええ、勿論ありましたよ。それで次にね、奈美子さんの後ろの席に座る時もチラっと彼女の耳たぶの下を覗いたんですよ」
 「…奈美子さんの耳たぶ…」
 「ええ、うまい具合に観(み)れましてね。そうしたらあったんですよ」
 「えっ黒子が!」
 「はい。その奈美子さんにも奥様と同じ位置に同じ黒子があったんですよ」
 「………」
 どういう事だ…と一瞬考えた。しかし直ぐに、頭の中を整理しようとした。


 「ひょ、ひょっとして…」
 「はい、僕も思い出したんですけどね。 “歳の差夫婦”と3Pの話があったじゃないですか。結局、旦那さんが自信がないとかで先生と“奈美子さん”の二人のプレイになりましたけど」
 「ええ…そうでした…」
 「はい。それであの時、ご主人があまり声を出さないようにって云ってましたけど、先生は相手の奥さんの声を聞いたんですよね。その声でその女(ひと)が奥様ではないという結論を出したんですから」
 「あぁ仰る通りです…」
 「僕も実は、あの日は奈美子とは殆ど喋ってなかったんですよ。はい、声を聞いてないんです。だからね、仮面もずっと着けてたし本当の奈美子かどうかは分からないんですよ」
 「うっ…となると、どういう事になるの…かな」
 「はい、入れ替わってたんですよ」
 「え!」
 「そう、 “歳の差夫婦”とは男と奥様の久美子さんの疑似夫婦なんですよ。要は二人は不倫関係で、夫婦ごっこをしていたんですね。それでも関係がマンネリになったか、本当に旦那がインポ気味になったかで神田先生に相談に来たんですよ」
 「うううっ、となると君は…渋谷君は僕の妻…久美子とセックスしてたってこと…」
 「はい、セックスだけじゃないですよ。精飲もさせたし、露出プレイもさせましたよ」
 「あぁぁ…で、でも君は、久美子の素顔を…」
 「そうです、何回も見てますよ。でも、さっきも言いましたけどホテルの部屋では仮面を着けてて、素顔を見てないんですよ。話をしなかったのも、奥様からしたら初めての浮気…といっても不倫者からみた浮気になるわけですが、そのプレイをする緊張で黙ってると思ってたんです。でも違ったんですね。友達の奈美子さんが入れ替わってたから声を出せなかったんですね」
 「と、という事は…」
 「久美子さんが友達の奈美子さんに入れ替わりを頼んだんでしょうね。二人は以前からそう言う事を頼める間柄で、ご主人もそれに乗ったんでしょうね」
 「そ、それに二人が似てるからか…」
 「そうですよ。さっき僕が言った“気になる事”って、久美子さんが歳の差夫婦の奥様に似てた事だったんです。今朝のバス停で見た時から似てるなってずっと思ってたんです。化粧の違いかとも思ったんですけど、そんな事はない。同一人物だったんですから」
 「そ、そうか…。それにしたって本当に久美子が不倫…それも一回りも歳が上の男と…」
 その瞬間、私はもう一つ衝撃の事実を思い出した。


 「じゃ、じゃあ、そこのマジックミラーの部屋でヤモリみたいにガラス窓にへばり着いていたのは…」
 「へばり着いてただけじゃないですよ。押し車っていう変わった体位を披露したり、男に跨って腰を振ってた女の正体は奥様の久美子さんですよ」
 「ウウウウッ!」
 「僕には奈美子っいう友達の名前を名乗ってましたけど、本当の名前は久美子なんですね。今度あったら“久美子”って呼んでやりますか。どんな反応を示すか楽しみですねぇ。あら、先生大丈夫ですか」
 「………」


 私は暫く項垂れていた。しかしその中でも、奈美子と久美子の入れ替わりの事実を整理していて思いついた事を何とか口にした。
 「そうだとしてもだよ…なぜ私が3Pプレイに誘われたタイミングで入れ替わりが…私は何処の誰か分からない38歳の中年教師だったのに…」
 「………」
 「うん、妻の久美子に私が浮気…まして3Pなんかに行くなんて絶対分かる筈がないと思うんですよ」と絞り出すように疑問を口にした。


 「ふ、ふふふっ」渋谷君が俯いて笑い出した。
 その笑いにデジャのようなシーンが湧いて来た。彼が堪えているのだ。いつかと同じように笑いを堪えているのだ。
 「せ、先生、真剣です。顔が真剣ですよ」と、遂に吹き出した。
 「だ、だから、ププッ…造り話をするって言ったじゃないですか」
 「あ…」
 「そうですよ。その通りです。久美子奥様が先生の3Pに行くなんて分かる筈ありませんよ。あの日は奈美子さんの素顔こそ見てませんが、あれは間違いなく本物の奈美子さんですからね。それに黒子の話も嘘です」
 「嘘?」
 「はい、さっきカフェで奈美子さんの耳たぶの下に黒子があったって云ったでしょ。あれも嘘ですからね。黒子なんて有りませんでしたよ。はい断言します」
 「じゃ、じゃあ…」
 「はい、では整理しましょうか。奈美子さんて名前の人が二人いるからややこしいんですけど、よく聞いて下さいね」
 「………」
 「歳の差夫婦の奈美子、久美子さん、友達の奈美子さん、3人は髪型や体型、それに顔までも似てますが全員別人で先生の奥様は浮気もしていません。それと久美子さんには黒子があり、偶然にも歳の差夫婦の奈美子にも同じような黒子があります。友達の奈美子さんには黒子はありません、以上」
 云い終えて渋谷君がペコリと頭を下げた。そしてニコっと笑った。その笑いにジワジワと安堵の気持ちが湧くのを自覚した。
 そんな私を見ながら、渋谷君がもう一つの事を告げて来た。


 「それと久美子奥様の半年前からの“好きな事”って、体操教室で間違いないと思いますけど確かめて来ますよ」
 「へ?」
 「この店に入って30分位経ってますよね。と言う事は奥様達があの教室に行ってもうすぐ1時間位でしょ。だから終わらないうちにチョッと覗いて来ますよ。それで色々聞き出してみます。先生はここにいて下さいね。顔を見られると不味いですから」
 彼はそう言うなり、席を立って店の外へと行ってしまった。


 一人になると、今ほどの“造り話”を思い返してみた。渋谷君の話は見事なほどに良く出来てると思えた。騙された事にも心地好さまで感じてしまう。しかし…。
 妻久美子の潔白が決まった事で、残るのは私一人が浮気をしたという事実だ。妻は半年前に私の様子が病的だと感じてその事にも悩みを抱えてしまい、学生時代の部活仲間の奈美子さんを誘って体操教室にストレス解消に行ったのだろう。
 そんな事をあれこれ考えていると、渋谷君が戻ってきた。


 「先生、奥様達は体操教室にいましたよ。2階に行きますとね、教室の壁が一面ガラスで中の様子が見えるようになってるんですよ。それで直ぐに奥様と友達の奈美子さんが分かりました。二人とも同じウェアに着替えられてましたね」
 「ああ、同じウェアですか」
 「はい、たぶんレンタルですね。他の人達も同じ格好の人がいましたし」
 「生徒は結構いたんですか」
 「ん~そうですね、10人はいましたね。壁にポスターが貼ってたり、リーフレットなんかもあったから見てみたんですけど、空手教室やダンス教室なんかもあるみたいで、土曜日と日曜日に健康志向の人の為の体操教室をやってるみたいですね」
 「ああ、そうでしたか」
 「それでね、スタッフの人が通ったんで聞いてみたんですよ」
 「なんて…?」
 「ええ、『僕やった事なくて身体が硬いけど大丈夫ですかねって。あちらの方なんか、ずいぶん身体が軟(やわ)らかそうですけど』って。…勿論、奥様の事ですよ」
 「それでなんて」
 「ええ『あの方はここに来て半年くらいですね。半年もすれば軟らかくなりますよ』って。その人は奥様が経験者って知らなかったんでしょうね」
 ああ…私は心の中で見事に納得の声を上げてしまっていた。