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 朝ーー。
 私は重い頭を振りながら身体を起こした。
 バルコニー側の大きな窓からは、陽の光が射し込んでいる。カーテンを引かずに眠ってしまったのか。そんな事を考えながら、ベッドから足を下ろそうとして、躓(つまず)きそうになってしまった。見ればパジャマのズボンが腿の上辺りで止まっている。ブリーフパンツも少しズレて中途半端な位置にある。
 これはどう言う事だ。
 上はどうだ…と、胸の辺りに手をやるとボタンが幾つか外れている。いや、これは上手く着せれなかったと言う事か。


 そんな事を考えていると、次第に頭の中がハッキリとしてきた。あぁ…アレは夢ではなかったのか。パンツを下ろしてソレが当たる部分に指をやった。しかし、アレの染みは見当たらない。私自身の先っぽもソレらしい痕はない…気がする。
 私は身だしなみを整えて立ち上がった。まだ不思議な感覚に包まれてる感じはするが、頭を振って部屋を出ようとした。その時、枕元においてあったスマホの点滅に気がついた。
 渋谷君からのメールだーー咄嗟にそう考えて、手に取って開けてみた。


 《おはようございます。
 声を掛けましたが、全然起きないのでメールにしました。
 昨日 言い忘れましたが、今日は学生時代の友人の奈美子と久しぶりに会う約束があって出掛けます。
 サンドイッチを作っておいたので食べて下さい。
 帰りは遅くなるかも知れませんので、夕飯は御自身でお願いします》


 私は妻からのそのメールを読み終えると、時間を確認した。なんともう10時近くだ。こんなに寝坊したのは何時以来だ。
 それからもう一度メールを見た。
 奈美子ーーその文字を声に出して呟いてみた。不思議な感覚が再びやって来る。確かに妻の学生時代の友人に、この名前の人がいた気はするが…。
 それにしたって、渋谷君の話に出て来る“歳の差夫婦”の『奈美子』と同じ名前とは…。


 リビングまで行った私は、ソファーに腰を下ろした。
 頭の中で夕べ…いや、深夜の“あの“出来事”について考えてみる。白昼夢…その言葉が浮かぶが、真夜中に白昼夢はないだろうと苦笑いして、それでも不思議な感覚が残る自分を自覚した。
 私は取り敢えず濃いめのコーヒーでも飲もうかと腰を上げた。


 コーヒーを飲み終えると出掛ける事にした。特に当てもないが、重い頭を振り払う為に日常の空気に触れたかったのだ。サンドイッチは半分だけ食べて、取り敢えず向かうのはバスに乗って最寄り駅だ。


 駅に着いて、改札に向かっている時だった。
 「あっ、先生!」
 前から歩いてくる恰幅の良い男性に、反射的に声を掛けていた。
 その人は私の声に立ち止まって「なんだ、寺田君じゃないか」驚いたような声を上げた。
 秋葉洋司(アキバ ヨウジ)先生ーー私が駆け出しの頃、若手教員の勉強会で指導役を務めたのがこの方だった。その後、妻も一度同じ職場になって上司と部下の関係があった筈だ。そして、確か今は隣り町の中学で教頭をしていたのではなかったか。


 「久しぶりだね、寺田君。どうしたんだいこんな所で」
 その声に緊張を覚えて会釈した。久しぶりに会った先生は、髪に少し白い物が混ざって見えるが、昔と同じ威圧感を感じてしまう。歳は50を超えている筈だ。


 「大変ご無沙汰しています。今日はえっと…古本屋にでも行こうかと…」
 「ああ、君は昔から本好きだったよね、うんうん」
 咄嗟に思いついた『古本屋』という言葉にも、私の顔は強張っていたか。そんな私を覗き込んでいる秋葉先生の目尻には皺が寄っている。柔和さと貫禄のギャップも、この人の魅力の一つだ。


 「ええ、本好きは相変わらずです。ところで先生はどちらに」
 「ああ、僕も散歩みたいなものだよ。この近くに行きつけの喫茶店があってね。それに家に居ても誰もいないしね」
 その言葉に思い出すものがあった。
 そうだった。先生は何年か前に離婚しているのだ。そんな記憶が過って私は、ぎこちなく頷いた。


 「ああ、そう言えば久美子先生には迷惑を掛けてるね」
 突然の言葉に、頭の中に?マークが浮かんでくる。
 「娘の奴も変な別れ方をするから付きまとわられたりするんだよ。そう思わないかい寺田君」
 「え、ええ…」
 曖昧に頷いてみたが、頭の中は追いつかない。


 「それにしても久美子先生は相変わらずマメで助かるよ。探偵まで連れて来てくれるとは」
 その瞬間、心の中で驚きが上がった。久美子が告(い)ってた教え子とは、秋葉先生の娘さんだったのか。


 「そ、そう言えば先生の娘さんって…」
 「あぁそうなんだよ。別れた女房と一緒にいるんだけど、元カレのストーカー行為はアイツじゃ手に負えないのか私の所に相談を持ってきおってな。でも私の方も忙しくて大した事は出来なかったんだ…そんな時、久美子先生と偶然に会ってな」
 あぁ、そこでまた記憶が甦って来た。そうだったーー妻の久美子は秋葉先生の娘さんが中学の時の担任をしているのだ。そう言えば当時、『やりにくい』と何度も口にしていたではないか。


 「先生、ちょうど昨日ですけど久美子からも聞きました。ようやくストーカーの正体が分かったので一安心だとか」
 「うん、まあそういうところだ」
 と云い終えたところで「おっとすまんすまん。これから本屋に行くんだったな。余計な愚痴に付き合わせる所だったよ」ニコリと笑って先生は立ち去ろうとする。
 私は緊張を残したまま先生を見送った。


 小さくなっていく後ろ姿を、暫く見ていた。その姿には、中年男の悲哀を感じないでもない。離婚の原因は分からないが、独り身の男の“あの“処理”はどうしているのかーー不意に頭の中に、そんな不穏な考えが浮かんで来た。M駅の近くにあった怪しげな喫茶店。ひょっとして秋葉先生は、あの様な店に女を注文しに行くのだろうか。あの時の女店主の言葉が浮かんで来る。
 『…真面目そうな…そんな男(ひと)がお忍びで来てるのよ…』
 頭の中にあの怪しげな女の姿を描きながら、私は駅の改札へと足を向けたのだった。




 結局古本屋には行ってみたが、何も買う事なく店を後にした。帰る途中で目に付いたカフェに入り、一人でお茶を飲む事にする。虚しい休日を実感するが仕方ない。
 コーヒーカップを手に持ち席に座れば、あの本【白昼夢】を持ってくれば良かった事に気が付いたがもう遅い。それから考えた事といえば、妻と秋葉先生の事だった。いや、その娘さんと妻の事か。
 その時、夕べの“女”の姿が脳裏に浮かんできた。あの女ーー久美子は実在していたのだろうか。朝、起きた時の下半身の脱力感は射精の証拠なのか。しかし確証は何処にもない。今夜にでも、妻に探りを入れてみようか。しかし…。
 妻の証言によっては、私達夫婦の関係がどうなってしまうのか、恐怖に震えを起こしてしまいそうだ。
 やはり私は小心者で臆病ものだ。自分の行動に自信が持てないのだ。妻に話すとしたら教え子の事になるだろう。それと…。
 妻が会うと云ってた友人の“奈美子”さんの事だ。その辺りの話題を振って、上手く夕べの出来事に付いて聞き出せれば…。


 家に帰った私。
 妻はまだ居ない。
 食欲のない私は、今朝のサンドイッチの残りを摘まむと、久し振りにテレビを視る事にした。しかし頭の中には何も入らない。
 それから暫くして、シャワーを浴びようと部屋に着替えを取りに行く。その瞬間、良からぬ事を思い付いてしまった。


 向かったのは妻の部屋だった。滅多に入る事のないこの部屋に漂う匂いは妻の好みか。と、不意に夕べの“女”の匂いが記憶から湧いてきた。あぁ、あの女は香水をつけていたのではなかったか…。
 そのままボォっと記憶を思い返していたがハッと我に帰った。妻がいつ帰って来てもおかしくない。タンスを漁っている所を現行犯で見られたら、何と言い訳すればいいのだ。私はブルルと身体を震わすと、急いでタンスを開ける事にした。


 上から開けていくと、3段目にソレらしい物が見つかった。小さく丸まったソレらを順番に手に取り拡げてみる。色は水色に白系が多くて黒が少しか。エロサイトによく視るSMチックな物や際どい物は見当たらない。それはブラも同じだ。私は安堵の気持ちと残念(?)な気持ちの両方を感じて引き出しを戻す事にした。
 それから他の段も開けてみるが、怪しい物は見当たらない。まさか“大人のオモチャ”といわれる性具があったりして…と思ったりもしたがソレもない。
 15分ほど他の所も漁るように見てみたが、諦めて捜索をここまでとした。
 部屋を出ようとして振り返ってみた。この部屋にパソコンはない。久美子は以前からノートパソコンを仕事用と兼用で持ち歩いているのだ。


 結局この夜、妻が帰って来たのは彼女の部屋を出てから1時間ほど経った頃だった。
 インタフォンが鳴ると、玄関までさりげなく出迎えた。
 「お帰り…」
 「ああ、あなた…ただいま…帰りました」
 私の出迎えに少し驚いたようにも観(み)える妻。その表情(かお)には疲れが浮かんでいる…みたいだ。久し振りの友人ーー奈美子さんとの時間はどんなものだったのだろうか。


 私の横をすり抜ける彼女の横顔に「思ったより早かったね」声を掛ける私。
 そして、首筋辺りの匂いを嗅ぐかのように覗き込む私。その私の目には、小指の爪の大きさの薄い黒子(ほくろ)が映った。


 「え、ええ、奈美子も忙しいみたいで…」
 「そうなんだ…」
 ボソリと呟いた私に、黙って頷き返して、彼女はそのまま私の横を通り抜けると自分の部屋に入っていく。私の方は再びリビングに戻るとソファーに腰掛けた。


 暫くすると部屋から出る妻の気配を感じた。シャワーを浴びるのか。その瞬間、妻の下着の事が浮かんで来たが、今夜は洗濯機の中を覗く事は止めておく。
 やがて聞こえてきたシャワーの音を遠くに感じながら、私は暫く腰を落ち着かせていた。


 シャワーを浴び終えた妻が、リビングに入ってきた。
 「あなた、どうしたんですか」この時間帯に、ソファーでボォっとしている私が珍しかったのだろう。
 妻はドライヤーで乾かした髪を手櫛で撫でながら冷蔵庫を開けている。その後ろ姿にそれまで考えていた話題を振る事にした。
 「…あのさぁ、奈美子さんってどんな女性(ひと)だったけっか」
 質問に背中を向けたままの彼女の首が小さく傾げたのが見えた。そして、振り向くと更に質問の意図を探るような目を向けてきた。
 「たしか、あなたは会った事なかったと思いますよ」
 「ああ、そうだったっけ。最近記憶に自信がなくてね。それで、奈美子さんは…」と問い掛けてる途中で、彼女がスマホを操作しながら寄って来た。
 「久し振りだったんで撮ったんですよ」
 彼女が見せてくれたのは二人のツーショットだった。妻が腕を伸ばして自撮りした写真だ。
 その写真に顔を寄せて覗いてみる。瞬間、良い香りがプンっと鼻を突いて来た。私はその匂いを懐かしく感じながら、手元を覗く目に力を入れた。


 「あっ!」
 思わず声が上がっていた。写真の二人がそっくりなのだ。髪型も雰囲気も。
 「この髪型って…」
 「ああ、ショートボブ…昼間会った時、私も思い出しましたわ。あの頃の体操部って皆な髪を短くしてたって」
 「ああ…奈美子さんも体操部だったのか…」何故だか力が抜けていくような私の声。
 私はもう一度その写真をよく見ようと首を伸ばした。同時に「もういいですか」そう云って彼女は、スマホを隠すように持ち上げた。
 身体が不思議な感覚に包まれて、フワフワと浮かんで行くようだ。今夜も変な夢を見そうな感じがする。


 「あなたの方は何をしていたんですか。朝、全然起きないから心配しましたよ」
 あぁ…小さな息を零して、妻に聞こうとしていた事を思い出した。
 「そう言えば…昼間、出掛けたんだよ。そうしたら駅で秋葉先生に会ったんだ」
 言い終わると、妻の頬が一瞬氷ついた…ように見えた。


 「久美子、どうしたんだい」
 「えっ、いえ…。そうですか、秋葉先生と」
 「ああ、久美子が相談に乗ってた教え子って秋葉先生の娘さんだったんだね」
 「ええ、実はそうなんですよ…」
 「言ってくれても良かったんじゃないの。今日も先生から聞かれて、返事に困っちゃったよ」
 「あぁ、すいません。あなたに告(い)うと要らぬ心配を掛けるかと思いまして…」
 妻はそれだけ言うと、バツが悪そうに立ち去ろうとする。
 その背中に「そうそう、久美子は最近よく眠れる?僕の方はさ、変な夢を見るんだよね」語尾の震えが気になりながらも私は告げていた。


 「え、ええ、アタシの方はお陰様で…良く眠れてますわ」
 「そ、そうか…」
 「はい、夕べもぐっすりと…」
 「……」