小説本文




 次の日の朝ーー。
 寝不足の頭は、ここ最近では1番重かった。
 そんな私は、ダイニングのイスからキッチンに立つ妻の後ろ姿を追っていた。改めて妻の黒子(ほくろ)を見てみたいと思っていたのだが。


 頭の奥には昨晩の事が浮かんでいる。
 M駅から帰った私は、妻の不在を気に留めながらも風呂に入り、自分の布団へと身を沈めたのだった。
 疲れている筈の身体だったが、頭の中は変に覚醒してる感じだった。
 浮かぶのは妻と“奈美子さん”の事で、頭の中では二人は同一人物ではないかと、妄想が繰り返されていた。
 マジックミラーの部屋で、ガラス窓にへばり付いていた姿が頭から離れなかったのだ。あの時の奈美子さんの耳たぶの下辺りに見えた黒子(ほくろ)。あれは見間違いって事は…私は布団の中でそんな事を考えていたのだ。
 それから暫くして鍵の回る音が聞こえて、妻の帰宅にドキリと鼓動が跳ねた私。しかし、二人が重なる姿を浮かべているうちに眠りに落ちて行ったのだった…。
 と、夕べの記憶を思い返したところで、私を呼ぶ声に気が付いた。


 「あなた、早くしないと時間になりますよ」
 私はハッと我に返り、家事をする妻の後ろ姿に目をやった。そして、今朝から聞こうと思っていた事を口にした。
 「あ、あのさぁ、夕べはM駅で教え子と会ってたんだよねぇ」
 本当は、ーー教え子じゃなくて、一回り上の男と一緒だったんじゃないのか…と言えれば良かったかもしれないが、根性無しの私には無理だった。
 妻の方からは「ええ、そうですよ」と家事の手を動かしながらアッサリとした返事が返ってきた。


 時間になって、モヤモヤした気持ちのまま家を出た私。
 最寄り駅に向かうバスの中でも色んな事を考えたーー妻の教え子との打合せの事実を上手く聞き出す方法はないものかと。
 しかし、私が聞けば妻も聞いてくるだろう…私が急きょM駅に行った事情や理由を。そして、誰と会っていたのか等も聞かれるかもしれない。




 この日の昼休みの事だ。意外な人からメールが来た。
 それは大塚晋作(オオツカ シンサク)先生。私に神田先生という怪しい人物を紹介した先輩教師だ。


 《寺田君、元気?
 今日の夕方から、そっち方面で合同の会議があるんですよ。
 それが終わったら、久し振りに一杯やらない?
 前に紹介した神田先生とは会ったんでしょ。
 その辺の話も聞きたいしさ(笑)
 連絡待ってますので、よろしく》


 私は先輩ーー大塚先生からのメールを読み終えたところで、はたと気が付いた。渋谷君以外でもこの胸の内を訊いてくれそうな人がいるではないか。
 そう、この人は既に、夫婦でドップリ“あちら側”の世界に浸かっているのだ。
 おまけにメールの文面からすると、私が神田先生と会った事も知っている様子だ。
 今夜は妻から“例”の事を探らねばと考えていた私だったが、先輩の誘いに乗る事にした。この先輩教師に、妻の事を相談してみようと、私はそんな事を考えながらメールの返信をしたのだった。


 午後からの授業を何とか頑張り、残業も終わらせた。そのタイミングでスマホを見ると、メールの着信が確認出来た。
 相手は大塚先生。時間と場所の指定が書かれていた。私は急いで学校を出る事にした。
 約束の居酒屋に先に着いた私は、予約されていた個室に通された。そこで腰を下ろすと、妻にメールを入れておく事にする。


 《今夜の夕飯は要りません。
 先輩の大塚先生に急に誘われて飲みに行く事になりました》


 送り終えたメールを読み直して、妻が先輩と面識があったか記憶を探ってみた。彼女が先輩と会ったのは、私達の結婚式に先輩が出席した時の1度だけの筈だし、職場が一緒になった事も無い筈だ。そんな事を思い返していた丁度その時、個室のドアが開かれた。
 「やぁ悪いね、遅くなって」
 「あ、お疲れ様です。僕もさっき来たばっかりですよ」
 大塚先生が私の正面に座って、堀りごたつに足を入れる。そして向き直った表情はやはり、どこか達観しているというか何かを覚った感じがする。昔、ストレスに蝕(むしば)まれていた雰囲気など全く観(み)られない。
 そんな先輩が、手際よくビールとつまみの注文を始めた。


 乾杯をしてからは暫く互いの職場の話をした。
 昔からこういった居酒屋で飲む時は、職場の学校の事を“わが社”と呼んだり、校長の事を支店長、学年主任の事を課長と呼んだりしていた。それはいわゆる隠語なのだが、今風の言い方なら“教師あるある”なのだ。
 一通りお互いの近況を報告したところで、私は相談を口にしようとした。
 ところが。
 「ところでさぁ、神田先生とは会ったんだよね。どうだった?」先に先輩の口から質問がやって来た。
 私は一瞬身構えたが「はい」と落ち着いて返事をした。
 「まぁ、会う事は会いました。それで、渋谷君という若い人から“仕事”の実例をいくつか聞かせて貰いました」
 「ああ、渋谷優作君だね。彼はキャリア2年くらいだけど、結構人気らしいよ」と、彼の事を良く知っている口振りだ。
 それで少し安心したのか、私はこれまでの彼らーー神田先生と渋谷君に初めて会った日の事から最近の事までを自分の心の動きと合わせて話す事にした。
 勿論、妻の久美子にネットの履歴で性癖を知られた事や、その妻自身にも怪しい動きがある事も告げたのだったーー。


 「あまりすんなりと進んでいなかったんだな。僕はてっきり奥さんの“寝取られ”を依頼したり、君自身も乱交パーティーなんかへの参加を希望してるものだと思ってたよ」
 「い、いえ、ソレはなかなか…」
 「ふふっ、君の性格は知ってるって。でも君みたいな真面目な人ほど嵌(は)まると凄いんだよね」
 「そ、そうでしょうか…」
 「ああ、そう思うね。けど、まずは奥さんの疑惑をハッキリさせておきたいわけだよね」
 「ええ、教え子の女子高生の件はストーカーが捕まった事で、一応決着が着いたと思ってるんですが…実はそれ以外でも気になってる事がありまして…」
 「ああ、奥さんが半年ぐらい前から“好きな事”をしてるっていうやつだろ?」
 「はぁ、それは勿論あるんですけど、それと…」
 私は飲みかけのビールをグイッと飲み干してから“黒子”の話をする事にしたーー。


 「ふ~ん、渋谷君もよくマジックミラーの部屋を君に覗かせたねぇ。それで、そこにいた“歳の差夫婦”の奈美子さんに君の奥さんと同じ黒子があったって事だね」
 「はい。でも黒子だけじゃないです。髪型や体型も似てるんです。だから二人は同一人物じゃないかと。妻が何らかの理由であそこにいたのではないかと思ってるんですよ」
 「ん?でもそれは流石に君の勘違いじゃないのかなぁ」
 「………」
 「ストレスと奥さんへの疑心で妄想を見たんじゃないの」
 「はぁ、確かにこの半年ほど自分でも信じられないような妄想を立ててしまってはいますが…でも、夕べのガラス窓に貼り付いた巨大ヤモリの格好が印象的すぎて…だから良く覚えてるんですよ」
 「う~ん、なるほどねぇ。それじゃあ今夜にでも直接聞いてみればいいじゃないか、酔いの力を借りてさ」
 「いやっ、流石にそれは」
 「ふふっ、勇気が湧かないか。君は昔から気が弱いところがあるからなあ」
 「え、ええ…」
 「じゃあ、渋谷君に協力して貰って尾行して探ってみるしかないんじゃないの」
 「は、はい。その考えは頭の隅にはあるんですよ」
 「うん、そうだよね。それにだ。尾行してみて奥さんが“歳の差夫婦”のご主人…男の素顔は君は分からないだろうけど、渋谷君は知ってるわけだから、その男と会ってたとなると神田先生も疑いの目を向けるだろうね」
 あっ!私は突然に先輩の言葉の意味に気が付いてしまった。もしも妻と奈美子さんが同一人物と言う事になってしまったら、神田先生は嘘の告知を受けていた事になるのではないか。
 そして、渋谷君が相手をしてきた奈美子さんとは、私の妻だったと言う事になってしまうのだ。


 「どうだい寺田君、僕の言ってる意味が分かったかな」
 先輩の私を見る目が、妙にギラギラして見えた。私はその勢いに押されるように頷いている。
 「ふふっ、まぁ僕としては事の真相がどうであれ、早く君に“こちら側“の住人になって欲しいだけなんだけどね」
 うううッ!先生の目が、完全に“あちら側”の住人の目になっている。私はその視線にゾクリと背中に冷たいものを感じてしまった。
 「何だ寺田君、顔が強張ってるよ。そんな時はさぁ、たくさん飲まなきゃ」そう告げて先生が煽って来た。
 私は勧められるままに、グラスを口に運んだ。


 「うん、いい呑みっぷりだ。お代わりも頼もうか。それで、酔いの勢いで奥さんを襲ってみなよ。奥さんも快楽に任せてカミングアウトするかもよ。ーーアタシ、半年前から一回り上の男と夫婦ごっこで奈美子と名乗ってオマンコやりまくってますッて」
 「あぁッ!」
 「ーーあなたと出来ない変態セックスを別の男とやってるんですッて」
 「あぁ…それは3Pやマジックミラーとか…」
 「ああ、そうだよ。白状したら、それを切っ掛けに奥さんを何でも言う事を聞くマゾ奴隷にするんだよ」
 アーーッ、心の中に奇声が上がった。身体が電流を浴びたように震えて来た。そんな私は勧められまま酒を呑み干したのだったーー。




 ーー酔っ払ったままで大塚先生と分かれた私は、頼りない足で家路に向かった。
 家に着くと、顔を洗ってからキッチンで水を一杯飲む事にした。妻の気配は感じるが、彼女はもう寝る体制だろう。
 自分の部屋に入ると、沈むように椅子に腰を下ろした。LEDの照明がやけに明るく感じて頭が痛い。視線を落とせば、直ぐそこにはパソコンがある。電源が落ちたままのパソコン。
 エロサイトを視なくなってそれなりの時間が経っている気がするが、それでも頭の中にはいつも妄想が湧き立っていた。


 私はイスに座ったまま、机に片肘を付いて重い頭を支えた。目を瞑れば、どこからか声が聞こえてくる。先輩の声だ。
 『…君に“こちら側”の住人になって欲しいんだけなんだ…』
 『…奥さんを何でも言う事を聞くマゾ奴隷に…』


 私の身体がフラフラと立ち上がった。
 お前は行くのか久美子の所へーーそんな自分の声が聞こえて来る。
 酔っているのか?
 酔っているのだ。それなら好都合だ。
 行って久美子を襲って、半年前からの事を吐き出させるのだ。


 部屋を出ようとして、ふらつく足が窓の前で止まった。バルコニーに面した1番大きな吐き出し窓だ。
 カーテンを開ければ、向こう側には隣のマンションの窓、窓、窓。
 誰かがあの窓から裸体を曝していないか。変態教師の夫婦が欲望を抑えきれず、股ぐらから顔を覗かせていないか。自分達の恥部を見せつけていないか。


 酒臭い息を吐きながら着ている物を脱いでいく。
 乱雑に放り投げられる、シャツ、ズボン、パンツ…。


 いつの間にやら私は全裸だ。カーテンは全開。そのまま外に向かって背中を向けた。
 あの50にもなる教員のご主人もやったのだ。俺にだってーーそんな言葉が酒臭い息と混ざって零れ落ちた。そして、両方の掌を床に向けて行く。勿論、足幅も拡がっている。
 頭が下へ、更に重くなるが酔っぱらいは気にしない。
 そんな私の目に、初めて見る景色が広がった。股ぐらから映って見えるのは、いつも見ていたマンションの逆さ姿。そこの窓、窓、窓が私の尻を覗いている。あぁ、淫部が曝される…。


 腹の中から股間までがスカッとして気持ちがいい。
 暫く淫部を曝した。そして頭を上げる。股間のソレが硬くなっている。
 私は天を向いたソレを握った。そして、ガラス窓に押し付けた。股間を当てながら乳首も押し付けた。巨大ヤモリの出来上がりだ。
 目に映るのは向こう側の窓、窓、窓。
 あぁ快感だ。
  誰か私を覗いてくれ。