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第33話
待ち合わせの時間に遅れないようにと店を出た私ーー寺田達夫。
約束の5分前、北口の1番大きな改札の前にやって来た。秋葉先生はまだ、来られていないようだ。
暫く改札の中を見つめていると、向こうの方から記憶通りの姿がこちらにやって来るのが見えた。秋葉先生だ。
目の前に来られた先生は相変わらず恰幅が良く、茶色いブレザーを着こなした姿は威厳に溢れていた。
「やあ、寺田君、久しぶりだね」
「ご、ご無沙汰してます。今日はよろしくお願いします」
先生を前にすると、私の緊張は嫌でも高まっていく。
先生の方は、私の表情(かお)を覗くや「ちょっと痩せたかな?けど、顔色は思ったほど悪くないね。お世辞にも良いとは云えないけど」と、リラックスした感じだ。
それから、ふふふと口元を歪めて「君の顔を見ると、何だか今日の相談事の中身が分かる気がするよ」と目を細めて告げてこられた。
こちらは顔を強張らせるだけだと言うのに。
「じゃあ、秘密の話をするのに相応しい店があるからそこに行こうか」
先生は笑みを浮かべながら、踵を返して歩き始めた。私はその後を追いかける。
人の波をやり過ごしながらエスカレーターに向かい、そこを下れば覚えのある場所だった。先日、久美子と秋葉先生が落ち合った場所だ。先生はそこを通り過ぎると足を速めた。
先生の横に肩を並べてチラリと横顔を覗く。微かに白髪が確認出来るが、皺も少なく肌の艶も良さそうだ。歳は私より一回以上も上なのに。
「久美子君とは上手くいってないのかい?そんな事はないよね」
いきなり向けられた質問にドキリとした。先生を見れば、口元がニヤついている。
「く、久美子とは、そのまぁボチボチです…はい」
「ボチボチか。と言う事は悪くないという事だな」と告げて、今度は朗らかな笑みを向けてきた。
「君は久美子君と結婚してどのくらい経つのかな」
「えっと10年以上は…」
「ん、何だか頼りない言い方だな。でも夫婦ってそんなもんだよな」
「………」
歩きながら話す先生。それも思った以上に口が回る先生に、意外な気がしながらも緊張が少し解れる気がした。これはすんなり、色んな事が聞けるかもしれない。
やがて覚えのある通りにやって来た。
雰囲気は先だってと同じで、今日土曜日のこの時間帯も人が疎(まば)らな飲み屋街だ。
先生が足を止めたのは、例の店【BAR 白昼夢】の前だった。
先生は扉の前で一旦振り返って私を見た。その目が、ここでいいよな、と怪しく誘ってる気がして、身体が竦みそうになってしまった。
「さあ、ここだよ。入ろうか」と落ち着いた声だ。
私は先生の後ろ姿に引き込まれるように足を進めた。
店の中は想像した通り、落ち着いた感じの造りだった。
先生が照明のスイッチを入れれば、浮かび出たのはレトロな灯りだ。
カウンターの中に入った先生が「さぁどこでもいいけど、そこがいいかな」と云って、二人掛けのボックス席を指さした。
店は小さなボックス席が二つに、カウンターは5人でいっぱい。かなり小ぢんまりとした店だった。
瓶ビールを取り出し、グラスの用意を始めた後ろ姿に「あのぉ今日は誰もいないんですか」と聞いてみた。
「ああ、開くのは暗くなってからだからね。来るのはバーテンが一人で、その彼がいつも一人で切り盛りしてるよ」
「あっそう言えば」そこで私は久美子から聞いた言葉を思い出した「この店って、先生の教え子さんがやってるとか…」
「久美子君から聞いたんだね。そうだよ、かなり古い子なんだけどね。うん、その彼からここの鍵を借りたんだよ」
先生はそう云いながら、盆を持ってこちら側に出てきた。
小さなテーブルを挟んで向かい合った私達。
「さぁいこうか」
私がビール瓶を持った所で、先に先生が注いでこられた。私は恐縮しながらも頂く事にした。そして直ぐさま注ぎ返す。
軽く乾杯したところで「今日は久美子君の事で相談だったよね」と、いきなりの本題だ。私は蒸せそうになりながら頷いている。
「ふふっ、何となく内容も分かりそうな気がするけど、喋り辛くなったら云っておくれ。酒は色々あるからね」
はぁ…と、頼りない返事をしてしまう私に「それに、腹を割れないなら、口を割らせる酒もあるからね」
一瞬、先生が冗談を云ったのかと思ったが、意味は読み込めない。先生は早くも1杯目を飲み終わって、2杯目を口にするところだ。
私も酒の力を借りてと、自分に言い聞かせながらグラスの残りを一気に呑みほした。
そして「秋葉先生、あのですね、妻の久美子から私の事で何か相談とか愚痴とか聞いてらっしゃいませんか」と、一息で口にした。そう、今日の相談とは言ってみればこれだけの事なのだ。
先生はグラスを置くと口元に笑みを浮かべた。
「ふふふ、聞いてるよ。聞いてるとも、君の事は色々とね」
その声の響きに、背筋がキュッと硬くなっていった。
「じゃあ、どこからか話そうか…そうだなぁ」
先生が呟きながら、その目は私を甚振る目ではないのか。
「でも、その前に僕自身の事を少し話そうかな。その方が君もこの後の話が聞きやすいと思うしね」
あぁ…それはどう言う意味だ…。やはりこれは、飲まないと聞けない話なのか。
そして私はもう一杯、手酌で注いで飲み干してみせた。
「ふふっ、いい飲みっぷりだ」
「………」
「そう、君も既に知ってると思うが、僕は何年も前に離婚していて、今は独身なんだ。久美子君の世話になった娘は、別れた女房と一緒に暮らしているし、僕は一人暮らしなわけだよ」
「はぁ…」そうですね、と心の中で応える。
「だけどね、君にだから教えておくけど、実は恋人がいるんだ」
え!っと驚いてみせた。が、その事実は妻から訊いている。
先生は私の表情など気にせず、グラスを口に運んでいる。
「恋人といったって子供じゃあるまいし分かるよね、それがどんな関係か」
「は、はぁ」またも頼りない返事だ。
「ふふっ、まぁ愛人とかセックスフレンドといった方が分かり易いよね」
ううッ、改まってそんな言葉をぶつけられると萎縮してしまう。
「どう?こんな話も聞きたいだろ」先生がビール瓶を向けて来ながら、私の覚悟を計っている、ような感じだ。
「でもね、時には夫婦もやるんだよ」
「え、どう言う意味ですか」
「疑似夫婦さ」
「疑似夫婦?」
「そう。愛人、セックスフレンドだとしても付き合いが長くなればマンネリが生まれてくるだろ。だから新しい刺激を探したんだよ」
「あぁ、それが…」
「そう、その彼女と二人で夫婦として色んな所に顔を出したり、呼んだりネ」
「それは…」と聞きかけてゴクッと息を飲み込んだ。先生の目が据わって見えたのだ。
その先生がこちらに向かって顎をしゃくる。もっと飲めと云っているのか、私は慌ててグラスを口に運ぶ。
「長い事教師をやってるとね、色んな人に会ったり色んな噂を聞いたりするんだよ」
「………」
「君は知ってるかな…悩みを抱える教師やお堅い職業の人達を相手に、コーディネートをしてる人がいてね。悩み多き人達がストレスから性犯罪なんかを犯さないように、解放出来る場所を用意したり、解放出来るシチュエーションを作ったりしてくれるんだ」
「ああっ!」そんな事が…と云おうとしたが、口が開かなかった。それでも頭の中には、“ある人“の顔を浮かべていた。
「まぁ僕も…と言うか僕達も縁があって、たまに世話になるんだけどね」
「………」
「とまぁ、それだけ我々教師連中は病的なストレスに犯されているという事だよ。それで半年ほど前、君の奥さん、久美子君から相談のメールを貰った時も直ぐにピンときたんだ。彼女も恐らく、病的なストレスを抱えてるってね。でも、悩みは彼女自身の事だけじゃなかったんだよね」と先生が口元を歪めた。
私は遂に来たかと、身構えてしまう。
「そう、久美子君の相談のメインは、君の事だったんだよ」
「あぁ…」
「彼女も話しずらかったと思う。だから僕の方から聞いてみたんだよ」
「そ、それはどんな風にでしょうか…」
「ああ、『ひょっとして、寺田君が性的な事件でも起こしそうなのかい?』って」
「ああっ!」
「ふふっ、その時の久美子君も今の君みたいな反応だったよ」
あうッ、思わず今度は、背筋が伸びてしまう。
「図星みたいな様子だったから『じゃあ、家にパソコンがあるなら1度ネットの履歴が見れないか試してごらん』って云ってみたわけさ」
「………」
「そう、それで久美子君は視たんだな。もちろん君自身もシッカリ記憶にあるやつをだね」
ああっ!。
「ふふふ。それでね、僕の娘のストーカー騒動の事で頻繁に連絡を取るようになってたんで、そのネット履歴の報告を聞く機会を改まって設けたんだ。じっくり聞かせて貰おうと思ってね」
「あぁ、そんな事が…」
「ああ、そうだよ。それで君の性癖も知る事になってね、久美子君にはこう告(い)ったんだ『ご主人…寺田君に付き合ってあげろ。おそらく彼の悩みは半端なものじゃない。間違いを起こして世間から後ろ指を指される前に、君も彼の性癖に寄りそってやれ』とね」
「そうだったんですか!」
「だけど久美子君は、ずっと戸惑ってる様子だったな。だから君の方に態度として現れたのは、最近じゃないのかな。思い当たる事はないかい?」
あッと、見事に日曜の一夜の出来事が浮かんできた。そして、妻に最後の一押しをしたのはあの日の昼間、この店で秋葉先生と会ったからに違いない、と思えた。
「ふふっ、どうやら身に覚えがあるみたいだね。それは大いに結構な事だよ」と口にして、先生がウンウンと頷いている。
「まぁ僕としたら時間が掛かったと思ったけどね。と言うのも、久美子君がそのネット履歴の話を初めて僕にした時から、彼女自身も興味は持っていたみたいだからね」
「きょ、興味を、妻が…ですか…。その興味って…」
「んん、決まってるじゃないか、性的好奇心ってやつだよ」
「ああッ!!」
「そう、それで久美子君には色々とな…ふふふ」
「い、色々とは…」
「んん、まあ生徒に教えるのと同じ云い方をするなら“社会体験”ってところかな」
「え!その社会体験って…」
「ふふ、その詳しい内容を話すには飲みが足りないな。勿論、僕もだけど」
と告げた先生が立ち上がって、カウンターの中へと進んでいく。新しいビールでも取りに行くのだろうか。
先生は直ぐに戻ってきた。手にはよく見る栄養ドリンクの小瓶が2本。
「これはね、実は中身は違うんだよ」と、手に持った小瓶を顔の前で振って「ブレンドなんだよね」と目を向けてきた。
「ブ、ブレンド?」
「あぁ、非合法のね」
「ええっ!」
「とは云っても、人体にはさほど影響はない。一時的に夢を見るだけだよ」
「ほ、本当ですか」
「ああ、この中身は“神華の雫(シンカノシズク)”といって一種の精力剤、それに興奮剤を少し混ぜて薄めたやつなんだ」
「せ、先生は…」何故そんな物を…と続けようとしたが、口が動かなかった。
「なんだ、びっくりしてるのかい。こんなのは普通の栄養ドリンクとそんなに変わらないさ。勿論、女性だって飲める物だよ」
「ま、まさかソレを…」
「ふふふ…」
先生の笑いに身体がゾクゾクと震えて来た。あぁ…私は何か過ちを犯そうとしているのだろうか…。