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 私はカフェの喧騒を遠くに感じていた。 “歳の差夫婦”のその後の話が刺激すぎて、私の意識はその余韻だけで麻痺していたのだ。


 「先生…寺田先生、大丈夫ですか」
 その声に顔を上げれば、渋谷君が私を見詰めている。
 「寺田先生って、よく話の途中で意識が飛ぶ事がありますよね。見てると何となく分かりますよ」
 「あぁ、ごめんなさい」と素直に頭を下げた。そんな私を見ながら彼が続ける。
 「それってやっぱり、奥様…先生の奥様と話の中の奥さんがダブってしまうからですかね」
 「そ、そうなんですよ…話に出て来た“歳の差夫婦”…その奥様と私の妻がどうもダブって視えましてね…それも私の“性癖”なんですかね…」


 私の様子見ながら、一瞬黙りかけた彼だったが、思い出したように訊いてきた。
 「そういえば今日は、その奥様の事で相談があったんじゃなかったでしたっけ」
 「あぁ、はい」頷きながら私は周囲を見回した。周りは相変わらずの混み具合だ。私は今更ながら、これまでの会話が聞かれていたのではと、背中が冷たくなるのを感じた。
 あまりにも彼の話に入りすぎて、周りに注意が行かなかったのだ。彼の方は全く平気な様子だ。私は前に乗り出すようにして、妻の事を話す事にした。もちろん小声でだ。


 「前回、渋谷君と初めて会った時も自分の気持ちがハッキリしていなかったんです。私の妄想が妻に向いてるのは分かってるつもりだったんですけど、その妻をどうしたいのか、或いは自分がどうなりたいのか…」
 「………」
 「で、それが今でもハッキリしないんで迷ってたわけですけど…実はその妻にも怪しいところがあるような気がしてきましてね」
 「怪しいところ…と言いますと」
 「ええ、実は半年ほど前から妻の帰宅が遅かったり。それに休日に出掛ける事が結構ありまして」
 「ああ、そうだったんですか。それでそれが、浮気じゃないかと」
 「はぁ、その可能性もあるのかと。私も自分の妄想でいっぱいで日常の妻には注意が向いてなかったんですね。妻の方も私の様子がおかしい事に気が付いていて、その原因を探るのに家用の私のパソコンを視たんですよ」
 「ん、パスワードは設定してなかったんですか」
 「はい、うっかりしてましてね。それで恥ずかしい事に、私が視てきた変態チックな動画や画像、それに読んだ寝取られ小説の履歴なんかを知られたみたいなんですよ」
 「あぁ…」彼は呻きのような声を出した。しかし、その表情(かお)を観(み)れば、どこか愉(たのし)げな感じもする。


 「それで、妻が言うには『その履歴を視てからは、アタシも好きな事をしている』と」
 私の言葉に彼は、フムフムと腕を組み換えた。


 「そんな事をつい先日、渋谷君と初めて会った後…たしか水曜の夜に告(い)われましてね…」
 「なるほど。それで先生は半年前に遡って考えてみて、奥様の動きに不穏なところがあるかと」
 「ええ、まぁ、そう言う事なんです」


 眉間に皺を寄せた私は、うだつの上がらない中年男だ。渋谷君を見れば、腕を組んだまま考え込んでいる。
 その彼が覗き込むように訊いてきた「あのぉ、今の先生は奥様を“寝取られたい“という気持ちの前に、浮気疑惑をハッキリさせたいわけですよね」
 「あ、ああ…」と、情けない声を出して認めてしまっていた。
 「えっと、その疑惑の続きで奥様をどうにかしたいとか願望はお有りなんでしょうけど、それは取り敢えず置いといて尾行でもしてみましょうか」
 「ええっ!?」思わず感嘆の声を上げてしまった。
 遥か年下の彼は、私の痒い所に手を伸ばすかのように、要望を先取りしてくれたのだ。
 「ええ。でも、本来は神田先生が請ける仕事に尾行はなかった筈なんですよ。なので僕が、個人的にやりますよ」
 「えっいいんですか!」
 「はい。なんだか寺田先生を見てますと、力になってあげたくなりましてね」
 ああ!私はもう一度感嘆の声を上げていた。


 それから私はコーヒーのお代わりをさせて貰って、妻のいわゆる個人情報を伝えたのだった。
 勿論その中には自宅の住所もあったが仕方ない。勤務先の中学の名前を出した時も、自分は聖職者失格と思ったりしたが何を今さらだ。
 最後に妻の写真ーーかなり昔に撮った物を彼のスマホに転送した。


 彼は妻の画像を見ながら頷いて「この写真似てますよ。うん、あの“歳の差夫婦”の奥様にそっくりですよ」
 「あぁそうですか。私も話を聞きながらそんなイメージが浮かんでたんですよ」
 「うん、髪型もそうですね、ショートボブだし体型は脱がないと分かりませんが」
 「いや、体型もたぶんそっくりですよ。渋谷君が言ってたサイズ…妻も同じぐらいだと思うんですよ」
 「そう言えばあの奥様の名前、たしか“奈美子”って呼ばれてましたね」
 「あぁ名前もどことなく似てますね」
 私は変な感覚を覚えながら妻の顔を思い浮かべた。
 そして、最近の妻の気になるポイントを伝える事にしたーー頻繁に口にするようになった女子高生の事だーー。


 「なるほど、先生が今1番気になるのは、以前の教え子の事ですか」
 「はい…」
 「でも、さすがに女子高生と浮気は結びつきませんよね」と、苦笑いを浮かべる彼。
 「ええ、まあ、そうなんです…でも」
 「はい分かりますよ。教え子の相談に行くと言って、違う誰かと会ってる可能性もありますからね」
 「そうなんですよ」
 「それじゃあ今度、奥様が教え子に会うって言って出掛けたら、取り敢えず連絡して下さいよ。僕のタイミングが合えば奥様を尾(つ)けてみますよ」


 彼の申し出を受けて、私は妻の授業が終わる時間帯を教える事にした。その日によって時間はまちまちだが、目安にはなるだろう。
 それから私は「あの、それで渋谷君に払う報酬は…」と言いかけた途中で…。
 「そうですねぇ、もし本当に奥様が浮気でもしてたら、僕も仲間に入れて貰いましょうかね」
 「ええっ!!」
 思わず大きな声を上げてしまった。


 「ははっ、な~んて…半分本気ですけどね」と彼の表情(かお)には、それでも真剣味が交じってみえる。
 私の背中には冷や汗が落ちていく感じだ。


 「そうなんですよ寺田先生。先程、自分の中に迷いがあるって仰りましたけど、その選択肢の中には“妻を他人に“ってあるんですものね」
 あぁ…改まって指摘された通り、間違いなくその気持ちは…。
 しかし…いざ、そんな場面が来た時には、私はどんな精神状態でどんな対応をするだろうか。


 「先生…寺田先生、そんな真剣にならないで下さいよ。ちょっと弾みで口にしただけですから」
 「あ、あぁ…」私は又も呻くような声で返事をしてしまった。


 「さっきも云いましたけど、取り敢えず教え子の話…奥様の口からそれが出たら僕に連絡を、って事で」
 最後の渋谷君の様子はウインクでもする感じだった。私の方はぎこちなさを残したままだ。
 あぁ…又も自分と向き合う時間の始まりだ。新たな妄想は湧き上がるのだろうか…。