小説本文



 
 私は“白昼夢”の残影を浮かべたまま、机の上のスマホを手に取った。
 開けてみれば渋谷君からのメールだ。


 《今、M駅の改札に着きました。
 これから暫く張ってます。》


 彼からのその文面を読むとゾワゾワと武者震いがやって来た。
 まだ動きがあったわけではないのに、熱いものが沸き上がって来たのだ。
 私は一呼吸おいてから返信を送る事にした。


 《渋谷君。
 ご苦労様です。
 よろしくお願いします》


 メールを送った私は、イスに座り直して本を手に取ったがページを開く事はない。直ぐに立ち上がると洋服タンスに向かっていた。
 あっという間に着替えを済ますと、何かに背中を押されるように家を出た。頭の中にはM駅だ。そこへはバスで最寄り駅まで行って、そこから電車に乗り換えれば30分ほど。ざっくり考えれば、渋谷君が言ってた通り、家から1時間位だ。
 目的の駅に着いた私は、渋谷君にメールで伝えておく事にした。


 《ご苦労様です。
 私もM駅に来てしまいました。今、改札を出た辺りです。
 渋谷君はどこにいますか?
 連絡をお願い致します》


 暫くその場で返信を待っていたが、いてもたってもいられなくなった私は、何かを求めるように歩き出した。
 駅の北側に出れば、家電量販店にシネコン、それに名の知れたカフェがいくつか目に付いた。
 駅の反対側に出てみれば、北側とは全く違った雰囲気だ。
 昼間のこの時間でも、暗い欲望が身を隠してる感じがする。
 私の足は不思議な力に吸い込まれるように進んだ。


 真新しいビルの横には、昭和の香りが残る古い雑居ビルがあった。そこの袖看板にはレンタルルームの文字があり、近くには“ソレ用”のホテルなのかビジネスホテルなのか区別のつかない建物があったりもする。
 もう少し歩けば、有名な塾を見つける事が出来たが、その回りには風俗店だ。
 渋谷君が『善と悪が同居する街』と言った意味が分かった気がした。


 スマホを片手に持ったまま歩いていたが、返信が来る事はなかった。
 私は立ち止まって、もう一度メールを確認したところで、休憩を取る事にした。レトロ調の喫茶店を見つけたのだ。


 そこは仄暗い店だった。私はアイスコーヒーをお願いする。
 客は少なく崩れた感じの中年男に、もう一人は普通の主婦…に観(み)えるが、妄想を働かせれば風俗関係か。
 やがて、その女性がスマホを手に取るとちゃちゃっと操作をしてから店を後にした。その後ろ姿に女店主が掛けた言葉ーー『ご苦労さん。頑張ってきてね』、あの意味は何だろう。
 暫くすると、その女店主がコーヒーを持って来てくれた。


 「あのぉ、お客さん。ひょっとして待ち合わせ?それともこれから“決める”のかしら」
 「い、いえ」と呟いてみたが、女の言葉にピンと来るものがあったのは間違いない。この街は怪しい空気に覆われているのだ。


 緊張を覚えた私に「ちょっといいですか」女がそう断ってからテーブルを挟んだイスに腰掛けた。
 「お客さん、この辺りは初めてでしょ」
 「え、ええ、そうですけど…」
 「ふふふ、あっち側は開けて健全になっちゃったけど、こっち側は昔のままなのよね」
 女が聞いてもない事を呟いて、意味深に見詰めてくる。
 「この辺には、昔馴染みの怪しい遊びが残っているんですよ。お兄さんも真面目そうな感じだけど…ふふふ、そんな男(ひと)がよく“お忍び”で来てるのよね」


 私を包む空気がザワザワと音を立て始めた。女が更に身を乗り出し、囁き掛けてくる。
 「お相手が決まってないのなら…ふふふ、いい子紹介するわよ」
 ウアア、心の中で“やはり”と呻き声を上げてしまった。そんなこちらの表情を読み取ってか、女が口元を歪める。
 「この辺りはね、人妻さんが多いのよ。みんな訳ありだけど、家に帰れば普通の主婦だし。それにね、倦怠期の年頃だから“あっち”の方だって凄いのよ。旦那にやった事のないサービスだってしちゃうんだから」
 ゴクリ、思わず唾を飲み込んでしまう。


 「い、いえ、普通に待ち合わせなんですよ…あっ、男の友人と…」
 「あらら、そうなの。それはそれは失礼しました」
 愛想の良い顔を見せて、立ち上がろうとする女。その姿に小声で訊いてみた。
 「あのお、この辺りって…いわゆる人妻売春のメッカだったんですか」
 私の質問に女が嬉しそうな笑みを浮かべて、上がりかけた腰を下ろそうとする。
 「いえいえ、メッカってほどじゃないですよ。でも、隠れ家的にやってる所があるみたいよ」
 言い終えて、女が見詰めて来る。その目の中に、身体が吸い込まれていく錯覚を覚えてしまう。私は着信があったフリをして、会話を切る事をにした。


 結局私は、コーヒーを半分以上残したまま店を出てしまった。
 女店主の怪しげな誘いも興味がないといえば嘘になるが、私の腰は完全に引けていたのだ。


 店を出てからは、もう一度この辺りを探るように歩いてみた。
 先程よりもカップルが多い気がする。中にはアンバランスに観(み)える組み合わせがある気もするが、それは考え過ぎなのか。それでも、そんな二人連れの中に妻がいれば…と妄想を立てれば得体の知れない高鳴りを覚える私がいた。
 それから又、歩き回りながら渋谷君からの返信を待っていると、間もなくしてそれが来た。


 《すいません。今メールに気づきました。
 寺田先生はまだM駅にいますか?
 いるなら今からでも会って話が出来ますか?
 実は大変な事態になってしまいました!》


 メールを読み終えた瞬間、例え様のない恐怖が湧き起こってきた。
 大変な事態とは何なのだ。
 渋谷君は見事に妻を見つけていたのだ。その妻は教え子ではなく男と会っていたのか。彼は、妻が男といかがわしいホテルにでも入る姿を目撃したのか。
 私は強張ったままメールの文字を読み直すと、震える指で返信を打ったのだ。


 《まだM駅の近くにいます。
 今から駅の1番大きな改札の前に行きます。
 そこで落ち合いましょう》


 メールを送って私は歩き始めた。先ほどから心臓がドクドクと鳴っている。
 ああ、渋谷君…君はいったい何を見たのだ。