小説本文




 シティホテルの一室ーー。
 私の中では、今しがた訊いた話の余韻が続いていた。彼、渋谷君が語った話の中に出て来た奥様ーーその女性が妻の久美子とシンクロした事も大きな要因の一つだ。


 私はチラリと神田先生の顔を覗いた。怪しげな老紳士ーー思えばこの先生を私に紹介したのは、以前いた中学の先輩教師だった。
 当時のその先輩は、いつも辛そうで重そうな様子だった。同僚達は真面目すぎる、几帳面すぎると、堅いその性格を心配していた。原因はその頃から、上司や保護者からのプレッシャーによるストレスと思われていた。
 そんな先輩と研修会で久しぶりに会って驚いた。あの病的な雰囲気が綺麗になくなって、明るくなっていたのだ。
 そしてその日、先輩ーー大塚晋作(オオツカ シンサク)先生に誘われて飲みに行った居酒屋で信じられないような話を聞かされた。そう、それが目の前の神田先生に繋がる話だったのだ。


 あの日の先輩は、酔いが進まぬうちから自身の性癖から夫婦関係までをカミングアウトしたのだ。しかも周囲の目も気にせず、どこか振り切ったように。
 先輩は、私の雰囲気に病的なストレスの影を感じ取ってくれたのかも知れない。私の事を“変態の世界が馴染む”と判断したのかも知れない。そして、神田先生の名前を出しながら陰湿で淫靡な世界が実在する事を語ったのだ。


 私が1番印象に残ったのは“こちら側の世界”という言葉だった。その響きが何故か私の背中を押していたのだ。いや、引き釣り込まれていたのか。
 おそらく“お堅い”職業の裏で、世間様に顔向け出来ないような不道徳な行為をしてみたい、という気持ちが心のどこかにあったのだ。そう、仄暗い闇の部分だ。
 しかし…。
 次の日になってみれば、本来の小心者の顔が出て来た。いつもの怖じけが幅を効かせてきたわけだ。やはり私は、ネットの世界だけで満足するしかないのかと…。
 そんな事を考えたその日の夜、先輩ーー大塚先生からメールがあった…。


   《居酒屋での話、覚えてる?
   あの時も云ったけど、あれは本当の話なんだよ。
   どうだい君も1度、神田先生と会って実例の1つか2つ、詳しく訊いてみないかい?
   きっと救われた気持ちになると思うよ、同類がいるんだって。
   そして、奥さんと一緒になるべく早くこちら側の世界に》


 私は先輩の言葉を思い出していた…。
 と、声がした。
 「寺田先生、どうぞ飲んで下さいね。コンビニで買ってきたやつですけど、冷やしておきましたから」
 顔を上げれば渋谷君が缶コーヒーを置いてくれていた。彼の顔はどこにでも見かける爽やかなお兄さんだ。この彼が本当に歳の差夫婦をサディスティックに操ったのかと、信じられない気がする。しかし、そのギャップこそがリアルな現実である気もしている。


 「あのぉ、渋谷さん」
 弱気な私は遥か年下の彼を“さん付け”で呼んでいた。
 「はは、『渋谷』でいいですからね。で、なんでしょうか」
 「ああ、じゃあ渋谷君さぁ、なんだか凄い話を聞かされてビックリしていますよ」
 「へへ、ありがとうございます、って言えばいいんですかね」
 そう云って彼がおどけてみせる。
 「でも他にも“おもしろい”話があるんですよ」
 と、今度は意味深に笑ってみせる。
 ぎこちなく頷く私に、彼も頷き返してくれた。
 そして又も凄い話を聞かされた。


 「高校で教師をしている御主人、その人から妻を痴漢してくれーーそんな依頼もありましたね。痴漢とは流石に僕もビビりましたけど、神田先生が奥さんは了解してるからって仰るんで頑張りましたよ」
 と云って彼が、神田先生に肩を竦める仕草をする。


 「満員電車に乗り込みまして、周りに注意しながらやってみましたよ。奥さんは僕がいつ来るかとドキドキしながら待ってたんですかね…。ええ、それで最初はスカートの上から尻を触って、少しずつ割れ目に沿って指を這わせました。それで反応をみながら前の方も触りに行ったりと。で、様子を窺いながらスカートの中にも手を入れて結構大胆に触ってあげましたよ。まぁ僕もかなり緊張してましたけど、間違いなく興奮もありました。でも…」
 又も彼が、神田先生を向いて肩を竦めた。
 「その奥さんが旦那に説得されて来たのか、楽しみに来たのかなんて僕は知りませんでした。けど、当然のように緊張してるし困ったような表情(かお)はしてましたよ。それはそうですよね、納得して痴漢を受け入れたとしても周りの目があるわけですから」
 同意を求めるような彼の目に、私は引き込まれるように頷いている。
 「でも奥さんも途中から感じてたと思います。うん、いるんですよね痴漢されて悦(よろこ)ぶ女って。その奥さんがそうだったかは分かりませんが、間違いなくアソコをモゾモゾさせて快感を得ようとしてましたね」
 「あぁ…あるんですかね、そんな事が…」
 彼は私の呟きに頷き返しながら、隣の神田先生をチラリと覗いた。


 「終わった後なんですけどね。約束の駅で待ち合わせた御主人には細かい事…その時の奥様の様子とかをリアルに話したんですよ。御主人は想像を働かせてか興奮されてましてね。その様子を見て“仕事”としては成功したって思ったんです。…けど、なんと奥様はこの日の痴漢については何も知らされてなかったと。本物の痴漢にあったと思ってる筈だと訊かされて僕はもうビックリですよ。まさか僕にまでフェイクを掛けるなんて、こっちは真っ青でしたよ」
 と、それでも彼が明るく笑う。逆に私の方は唖然と声を失っている。そんな私の事などを気にせず彼が続ける。


 「他にはですね、怪しい集まりに助っ人として呼ばれた事がありましたね。いわゆる乱交パーティーってやつです」
 (あぁっ…乱交…)
 「はい。僕みたいな若いのがスパイスになるからって呼ばれたわけです。参加者はみんな仮面…妖しい仮面を着けてたんですけど、身体の方は確かに中年のものでしたね。でもパーティーの方は若さが放射されてましたよ」
 「あぁ、そんな世界が…」
 「ええ、驚かないで下さいね。参加者は教員夫婦を中心に役所関係、それに警察にお勤めの人もいたんですよ。それにしてもあの人達を見てると思いましたよ“お堅い”職業の人の方がストレスが溜まるんだなって。….参加者の女性にサクラは一切いないって聞いてましたけど、それも納得がいきましたね。とにかく、その乱れ方が半端なかったんです」
 「ウアアッ…」
 口から呻き声が溢れ出した。しかし言葉が続かない。驚きと同時に“感動”のようなものが芽生えていたのか、妙な興奮が生まれていたのだ。


 コホンーーその時、咳払いのような音が聞こえた。
 見れば神田先生がこっちを見つめている。
 「優作君、寺田先生も予定があった筈じゃし、そろそろ…」
 先生の嗄(しわが)れ声に横目を向けると、ベッド脇のデジタル時計が目についた。
 もうこんな時間なのだ。と、いつの間にか話に夢中になっていた自分に気がついた。


 「うむ、寺田先生、それで私らの素性も話したし、これまで請けてきた仕事についても幾つか話して聞かせた。話は全て事実じゃが、まあ信じるかどうかは貴方の自由じゃ…」
 「ああ、はい。し、信じます」
 「…それで貴方の依頼、それをこの場で無理して云う必要はないし妄想や願望もそのまま内に秘めておくもよし。私らの事や先輩教師の事、それを口外さえしなければ誰も文句は云わない。分かるかな?」
 「は、はい分かります…」
 「では、今日は帰ってゆっくり考えて下され。それで心が決まったら、この渋谷優作君…彼の連絡先を教えておくからメールか電話でも寄こせば良い」
 「は、はい」
 「貴方の悩みが人様に言えない事、世間に顔向け出来ない事、道徳に反する事、そんな事は気にする必要はない。…良いかな」
 「あぁ、分かりました。ありがとうございます」


 今日ここに来る前は、この場で妄想から願望まで全て暴露して何かしらのお願いーー依頼をしようと考えていた私だったが、神田先生が間というか猶予を与えてくれたのは良かったのかも知れない。それに、直ぐに“仕事”として請け負わない姿勢も尊重できる気がする。
 気が付けば私は、深々と頭を下げていた。
 そして私は、渋谷君と連絡先の交換を済ませると、一足先に部屋を後にした。




 この日、私にはもう一つ予定があったのだ。
 それは妻との“久しぶり”のデートなのだ。子供のいない私達は、新婚の頃から年に何度かこういう形…改まって別々に家を出て待ち合わせの場所で「久しぶり」と云って腕を組む…そんな幼稚っぽい“ごっこ”をしていたのだ。
 とは言っても、それは遠い昔の話。何年、いや、それ以上も昔の事だった。しかし今日は、その“ごっこ”を何年か振りにするのだ。先日、今日の“ごっこ”を誘った時の妻の表情。戸惑いも有り、困惑も有り、それでもはにかむ中には嬉しさを垣間見えた気もしていた。
 しかし私の頭の中は、その妻を対象とした卑猥な妄想でいっぱいなのだ。特にこの数ヶ月のストレスは私の精神を蝕んでいる。それが私の性癖を爆発させようとしているのか、ソレを自分が望んでいるのかどうか、それさえ分からない。これから行う久しぶりの“デートごっこ”ーーひょっとしたらそれが、何かしらの試金石になるかも知れない。そんな気持ちを抱えながら待ち合わせの駅に向かっていた。


 電車に乗り込んで暫くすると、人妻風の女性に目がいった。すると直ぐにいつもの妄想が湧き立ってきた。
 あぁ…。
 怪しげなサイトの中から人妻売春サークルを見つけるのだ。そこにいる女性は暇をもて余してる主婦ではない。
 それはお堅い職業…そう、女医や女弁護士、それに女教師だ。そんな女達が旦那の留守を狙って、同僚達の目を盗んで、隠密に闇をさ迷いながら己の快楽の為に身体を売るのだ。普段お堅い仕事で生徒達に上から目線で物を云ってた女が、男の前で奴隷のように扱われるのだ。しかしそれこそ、女が望んでいた事なのだ。女は日常で高潔な気配を振り撒きながらも、その事にストレスも感じていたのだ。そして鬱屈を溜めた精神は歪み、女自身を妄想から現実の快楽へと誘い込むのだ。
 女は自分の行いに、心のどこかで理由を正当化するのだ。社会体験。旦那への反発。だが女は分かっているのだ心の奥の自分の本心が。そう、嫌らしくて変態的なセックスをして桃源郷をさ迷いたいだけなのだ。
 これから会う女も間違いなく、そういう女の一人だ。と、私の妄想がはち切れそうになる寸前、電車は目的の駅に滑り込んだ。


 電車を降りた私は約束のカフェを探した。
 そして見つけた店の前には、聖職者の仮面を被った売春婦が…。