小説本文



新一と弥生、二人が訪ねてきた日の夜。
 軽い食事を終えたダイニングテーブルの上には、ワインボトルとグラスが置かれてある。
 夏美はグラスを手に取ってテレビでもつけようと、もう片方の手にリモコンを持ち、一人がけのソファーに移動しようとした。
 その時“あれっ”とソファーの下に白っぽい小さな箱を発見した。
 グラスをテーブルに置き戻し、身体を屈(かが)めて手を伸ばし取り出してみれば、それはタバコの箱だった。


 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・)


 どこからどう見ても、それは間違いなく昼間の新一の物だ。
 なぜ、こんな所にこんな物が・・・と考えて、浮かんでくるのは昼間の新一の顔。
 あの時の新一の笑み・・それは、意識過剰な自分の思い過ごしと考えようとしていたが、手の中の箱を見てみれば再びよからぬ考えが膨れてきた。
 やはり・・・新一は堂島の研究室のソファーの下に落ちていたショーツに、気づいていたのではないか?
 そしてどこかで、悪戯心が芽生えたのだろうか。
 その箱をシゲシゲと見ていると“先生、僕は知ってるんですよ”と、問いかけてくるような気になった。


 ひょっとして、新一はドアの向こうで堂島との不埒な行為も、聞き耳をたてて聞いていたのではないか?
 しかし、あの若者の澄んだ瞳の裏側に黒いものがあるとは思いたくはない。
 やましい事をしたのはこちら側であって、仮に新一によからぬ感情が芽生えたとしても、その原因を作ったのはこちらにあるのだし。


 夏美はその箱を目の前で軽く振ってみた。
 まだ本数は半分ほど残っている。
 自分に“吸ってみれば”と、置いて行ったのか? まさか吸うかどうかの賭けを弥生としているという訳ではないだろう。


 夏美は箱から1本取り出してみた。
 そう言えば、弥生も吸った事があると言っていた。
 あの美人で可愛らしい弥生が、上手そうに煙を吐き出す姿はなかなか想像できるものではないが、それでも自ら言ったのだから間違いはない。


 夏美はふと、それを口に咥えてみようかと好奇心が沸いてきた。
 ペンを持つようにして、それを鼻先に近づけてみる。
 鼻孔をくすぐったのは、記憶の中のあの匂いだった・・。


 その時、テーブルに置いてあった携帯電話が震え始めた。
 ドキリとして手に取って画面を見てみれば、そこには“高志”の文字。
 堂島と関係を持ってしまってからは、こちらから夫に電話を掛けた事は一度もない。
 夏美は、後ろめたい気持ちのまま通話ボタンを押した。


 『・・・夏美・・元気?・・』
 聞こえてきたのは、いつもの夫の声だった。


 「ああ・・貴方・・・」
 『あれ?・・なんか元気ないね。大丈夫?」
 「え、大丈夫よ。・・ちょっと眠かったから・・」
 『ふ~ん、ならいいけど・・。それで今日電話したのはね・・』


 夫の高志が話してきたのは、ゴールデンウィークの事だった。
 そう言えば、もうすぐそんな季節だった。


 『・・それでね、今回は行けないから夏休みには、行くようにするよ。夏美の学校も見てみたいし・・』
 「 ・・・貴方、こっちに来ようと思っていたんだ・・・」
 『うん、そうなんだけど、いつも急な出張が入るから・・・・でも、そのおかげで夏休みは早めにとれると思うしさ』


 電話はその後、取りとめもない話が続き、互いの健康を気遣う言葉を掛けて終わった。
 それでも、夏美の頭の中には一つの考えが浮かんでいた。
 この田舎町の生活は、寮と大学の往復で日々の大半を過ごしている。
 この閉鎖的な環境の中で、堂島と顔を合わせていると、この状況はドンドン深みへと沈んで行ってしまう。
 (主人はいないが、一度東京に戻ろう・・)
 夏美は一人小さく頷いた。




 次の日。
 夏美は学部長の所に顔を出した。
 カレンダー通りの休日はどのように使おうが自由だったが、数日この場所を離れるのであれば一声かけようと思っていたのだ。


 夏美の目の前には、頭の薄い男がいつも通りニコニコとした笑顔で立っている。
 「学部長、ゴールデンウィークの事ですが・・」と、言いかけて。


 「ああ、そう言えば。連休は理事長と東北の大学に出張だそうですね。堂島理事長も『助かる』と、喜んでましたよ」
 !!っと息を呑みこんだ。


 「確か2泊3日でしたか。空気がおいしくて食べ物も美味しいらしいですよ。せっかく行くのですから、そっちも楽しんできてくださいね」
 「・・・・・・・・・・」


 正に言葉を失って夏美は呆然と男の言う事を聞いていた。
 まさか自分の知らないところで、そんな話が進んでいたとは。
 夏美はこの場で何を言っても無駄である事を察知して。
 心の中で“イッテキマス・・”と死にそうな声で挨拶して部屋を後にした。
 校舎を出て、歩き出すと直ぐにタイミングの良すぎる電話が掛かってきた。


 『もしもし、儂じゃ・・。』
 (・・・・・・・・・)


 夏美は明日の夕方、屋敷に“仕事”の手伝いをしに来るように命じられた。
 急に眩暈の様なものを感じ、目に留まったベンチに腰を降ろそうとした。
 その時。


 「夏美先生・・・」
 顔を上げれば、新一が一人で立っている。
 「・・・どうしたんですか、なんだか元気がないみたいですね?」


 夏美は新一の無邪気な顔を見て。
 「ああ・・新一君か・・・」
 新一が嬉しそうに隣に腰を降ろしてきた。


 夏美は無理に明るく微笑んで。
 「あれ、今日は可愛らしい彼女は一緒じゃないの?」
 「・・弥生は別です・・・。でも今は弥生がいない方がいいから・・」


 新一の語尾が小さく、慎重気味になっている。
 新一は夏美から一度視線を外し下を向き、それから顔を上げ。
 そして小さな声で。


 「先生・・・ゴールデンウィーク、ゆっくり話をする時間を取って頂けませんか?」
 新一の視線に、夏美は小さく息を呑み込んだ。


 「俺・・・先生に聞きたい事があるんです・・・」
 「え!? ・・聞きたい事?」


 落ち着いて返事をしたつもりだったが、幾分か声が震えている。
 夏美を見つめる新一の視線はどこか落ち着かず、しかし真剣だった。


 「・・・・・・はい。・・・実は、この間の理事・・」
 と言いかけて、新一の顔が上がった。
 こちらに小走りで向かって来る弥生の姿が目に付いた。


 弥生が来た事でその場の空気は穏やかなものへと変わっていった。
 それでも夏美の表情(かお)はどこかで強張り、態度はぎこちないものだった。
 弥生の横で、新一は何か言いたげな視線を向けてきたが。


 「・・ごめん、仕事があるから・・・・それじゃあね・・・」
 明らかに緊張した声でそう告げて、夏美は二人に背を向けた。


 背中に視線を感じながら、新一の言葉を思い出していた。
 『・・・この間の理事長の部屋で・・』
 と、間違いなくそう続けようとしたのだ。


 堂島にゴールデンウィークの期間に学生から相談を受けていると言えば、東北への出張を取り止めてくれるだろうか?
 (いや、それはありえない)
 安易な現実逃避を自分で否定して、夏美は職員室へと歩いていく。


 明日は又、屋敷へ行かねばならない。
 待っているのは真面(まとも)な仕事か、それとも凌辱の儀式か・・。
 堂島に“新一”の相談をしてどうにかなるのだろうか?
 それでも今ほどの新一の様子は堂島の耳に入れておかなければ・・・・自分の為にも。


 夏美が視界から消えるまで、新一は黙ったままその後ろ姿を見送っていた。
 その横では、弥生が新一の横顔をいぶかしげな瞳で見つめていた・・・。

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