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そして又一つ、夏が近づいた。
 試験を終えた者から、待ちに待った長い休みに入って行く。
 教授達はここからが大変で、採点にレポートチェックと忙しい日々が続いていく。
 夏美は助手になって初めての体験を、慌ただしくもやり終えた。
 やはり受け持つ講座の学生の成績は気になるところで、特に新一と弥生の事は心配であった。
 それでも2人の成績はそれなりのもので、夏美は大きな安堵を覚えていた。


 あの後も新一から話し掛けられる事はあったが、その様子はどこかあっさりしていて、拍子抜けの感があった。
 ただ、弥生と歩く新一の姿を見る事は殆ど無く、一抹の不安を感じていた。


 その日、夫の高志から電話があった。
 既に蝉の鳴き声も聞こえていて、この地域特有の湿気を感じる夜。
 ジットリ掻いた汗をシャワーで洗い流し、バスタオルを身体に捲いた時だった。


 『夏美、俺』
 「あ 貴方」
 『大丈夫?今』
 「ええ大丈夫よ。お風呂から出たところだから」
 『うわっ、夏美の風呂上がり姿か』
 「んもっ、なに?」
 夫の感嘆の声に、夏美が戸惑いの様子で鼻を鳴らす。


 『へへ、早く夏美を拝みたいね』
 「・・・貴方どうしたの、何だか今日は浮かれてるみたい」
 『そりゃそうさ。休みが決まったんだから』
 「あ そ、そうなんだ」
 『ん?あまり嬉しくないみたいだな』
 「えっ そ そんな事ないわ。でもね・・・」
 『・・・どうしたの?』
 「うん…実は、貴方が来ている間もお仕事があるの」
 『え!そうなのかい』
 「うん。ゴメンね。色々と頼まれた仕事が残っていて・・・」
 『そうか・・・でも、それも夏美が信頼されてるからだよ』
 「・・・・・」
 『まあ俺の自慢の夏美なんだから、仕方ないさ。それに全く一緒にいれない訳じゃないんだろ」
 (・・・貴方・・・)
 『ん?どうしたの夏美』
 「・・あ な 何でもないわ」
 『とにかく行く日が決まったら、電話かメールするよ』
 (・・・・・・・・)


 切れた携帯電話を握りながら、夏美はしばらくうなだれていた。
 ちょうど一年程前、社会復帰に遠いこの大学を選んだ時も、快く送り出してくれた夫。
 頭の中に浮かぶ“男”の姿は幻影だと、夏美はそれを振り払おうと夫の事を考えようとする。
 夫の好物を思い出し、献立を考えようする。
 しかし、身体の奥からは疼きの予兆が、今夜も湧き上がってくる。


 蒸し暑さが湧き上がり始めた初夏の夜。
 夏美は寝汗を掻きながら、淫夢に魘(うな)されていた・・・・。






 「夏美先生・・・」
 「えっ」
 夏美が振り返ったそこには、弥生が立っていた。


 いつもと違う感じがしたのは、スカート姿だったからだ。
 「弥生さん・・」
 「へへ、どうですかこのスカート?」 
 「・・・・・う うん、とっても似合ってるわ」
 弥生のはにかんだ様子に、夏美は口元を惹き付らせる。


 「ありがとうございます。でも・・夏美先生には負けるけど」
 「そ そんな事ないわよ…」
 「・・・今度、先生にお化粧の仕方も教えてもらおうかな」
 「え!な 何?・・弥生さん・・・貴女 そんな化粧なんかしなくても綺麗だし。それに健康的だし」
 「へへ、でも、もうすぐ二十歳(ハタチ)なのに子供っぽいって言われるし・・・」
 そう言って、弥生が軽く唇を噛んだ様子を夏美は見逃さなかった。
 弥生は何か言いたそう、いや、聞きたそうな雰囲気なのが伺える。


 2人はしばらく黙り込んでいたが。 
 「先生、夏休みは東京へ帰るんですか」
 「えっ ええ そうね、直ぐじゃないけど・・」
 「そうなんですか・・・じゃあ、まだしばらくコッチにいるんだ」


 弥生の心の中の気持ちは、分かるつもりだった。
 2人の前に自分が現れたバッカリにと。


 「先生は長い事、ご主人に会えなくて寂しかったですか?」
 「え!そ それはそうよ…」
 「・・・そうなんですか・・・・」
 「・・・・・」


 (ゴメンなさいね、弥生さん)
 今の自分に出きる事は、頭を下げる事だけなんだと、夏美は心の中で誤り、弥生に背を向け歩き出した。


 夏美と弥生・・・別れた2人をあの男、沖田が校舎の影から見つめていた。
 そして沖田の後ろからは、新一が3人の様子を見つめている。


 「あ あの~ 弥生に何かようでしたか?」
 恐々沖田に近づき、口に出来たのはそんな言葉だった。


 「・・・・・」
 沖田が黙ったまま振り向き、ギロリと向けてきた視線の冷たさに、新一はゾクッとした。
 「あ ああ いや、あの すいません。あの な 夏川弥生さんとは はい、良い仲でして。それで はい、あの “そちら”が弥生の姿をじっと見てたので・・はい」
 「・・・・・・」


 当然新一が悪さをしていた訳では無いし、目の前のプロレスラーのような体格に脅迫された訳でもなかった。
 それでも、新一は自分がここにいる言い訳を探すように、何とか喋り終えた。


 「ククッ、夏川弥生の“彼氏”ですか・・なるほど」
 「・・・・」


 静かに沈黙を演出しながら、沖田はしばらく新一を値踏みするように見つめていて。
 「そろそろあの娘(こ)も“軟弱”な男には嫌気がさしてくる頃でしょう」
 (えっ?)
 「草食系の男は、年上の女を追いかけ回すのが忙しいらしいし」
 (なっ!!)
 「君の“ある部分”の勇気・・・・と言うか無鉄砲な所は興味も持ったが」
 (?・・・・)
 「どちらにしても弱い男には、それなりの居場所に落ち着いてもらうのが一番いい」
 (・・・・・・)
 「私も人間ウォッチングが好きでね。パトロールの合間に色んな“モノ”を見せて貰ってます」
 沖田は最後にそう言うとニコリともせず、その場を後にした。


 気づけば夏美の姿も弥生の姿も消えている。
 心に広がった不安が、苦いものに変わっていくのを自覚しながら、新一は沖田の背中が小さくなるまでジッと見つめていた・・・・。






 その携帯電話の震えに気づいたのは、仕事が一段落した時だった。
 この日も堂島の屋敷で“真面目”な調べものを終えた頃、夏美は愛用のそれを手に取った。


 画面に見えた“高志”の文字にこっそり振り向いた。
 堂島は相変わらず、パソコンに目を向けている。
 夏美は手元でそのメールを隠すように広げてみた。


 <7月○日○時○分 ○駅到着予定>
 <迎えは結構。自分で学校に向かいます>
 <どこか良い待ち合わせ場所はある?>
 メールを読み終えると、直ぐにそれを仕舞いながら目を閉じた。


 (貴方・・)
 と、心の中で呟いた・・・・時。
 「ところで夏美先生、ご主人がこちらに来る日は決まったのかな?」
 堂島の声に背筋が跳ね上がった。


 夏美は震えながら立ち上がると、ゆっくり振り向いた。
 瞼が震え、何故か涙が零れ落ちそうだった。
 口元まで震えが広がり、頷いた。


 『儂に任せておけ』と、堂島の瞳が優しく語りかけている。


 夏美の意識がサワサワと沸いた白い霧に包まれていき、その瞬間、堂島の細い目がクワッと広がった。
 鋭い刃(やいば)が胸を抉る感触に、頭の中から子宮の奥まで痺れが走り抜けた。