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第1話
この山間の小都市(まち)にも、ようやく春が訪れようとしていた。
2月に初めてこの地に足を踏み入れた時には、想像以上の寒さに大変な所に来てしまったと想ったものだった。
それでもすぐにこの土地の水に慣れたのは、夏美が持って生まれた順応性と使命感によるものだ。
『会社に勤めていたら生真面目な管理職タイプよね』・・教員になってからも、友人達からよく言われた事があった。
学生の頃から友人達とはよく冗談も言いあったし、自分の事を堅物などと思った事は無かったが、どこかで“生真面目”なイメージがあったのかもしれない。
また、『結婚できて良かったわね。美人すぎて逆に婚期を逃すのが結構いるのよ』・・そんな事も言われた事がある。
昔から美人と言われる事が多かったが、近寄りがたい雰囲気もあったのかも知れない。
それでも恋愛経験は人並みで、結婚するまで何人かの男性と付き合った事もあったのだが・・。
夫の山中高志は大学時代の同級生で、歳も同じで、その頃から対等に意見を言い合い、お互いの趣味を尊重しあえる仲だった。
高志との結婚は友達付き合いの延長のようで、いつの間にか一緒になる事が自然な事だと互いがそう意識していた。
友人の大恋愛の話に憧れも持ったが、高志との馴れ初めは心のどこかで自分らしいと思っていた。
結婚後も共働きであったし、食べさせてもらっている、食べさせてあげていると言う感覚は全くなかった。
しかし、ある時夏美は教師の職に行き詰まりを感じた。
自分の倫理観、職業意識が周りと違って見えたからだった。
『やっぱりダメだわ、公立高校の先生はみんなサラリーマンみたいで』・・いつしかそんな愚痴を夫の高志に言う事があった。
そして結局、教師を辞めたのは結婚5年目の30歳の時だった。
専業主婦になってから頻繁に学生時代の友人を家に呼ぶようになったが、子持ちになった友人達の姿に自分だけが取り残された気分だった。
結局、“堂島学園”の話を考えるようになったのは、それが自分の道だと思い直したからかも知れない。
“堂島泰三”・・・日本全国から“落ちこぼれ”と呼ばれる若者を積極的に受け入れ、更生すべく“園”を運営する教育者。
また、経営不振の学校を買収して再生する実業家の“顔”も持っていた。
夏美が堂島泰三を意識し始めたのは、教職を辞める事になる年の春。
ある教育関係者の紹介で、都内で食事をする事になったのだった。
『貴女、お美しいけど充たされておらんな』
初対面の挨拶がこれだった。
『貴女自身は、その美しさに気づいていながら、それを隠そうとしているな。それが奥ゆかしいと勘違いしてはおらぬか』
『!?』
『奥底にある己の“本性”を少しでも表に出す事が出来れば、貴女はもっと魅力的な人間になるぞ』
『・・・・・・・』
『教師である前に人間なのだから・・その人間臭さを出してこそ人を惹きつける』
『・・人間臭さなんて・・それに教師はやっぱり身だしなみとか、襟元を正すとか・・そう言った事が大事だと思います』
そう反論したが、声は弱々しかった。
会話は進み、出会ってわずかな時間から常に堂島のペースになっている事に気付いてはいたが、これも堂島の魅力だったと後になってわかった。
『おやおや、貴女は同僚の先生連中を“サラリーマン”のようだと称されたが、儂は貴女もその公立高校のサラリーマン教師とあまり変わらぬように見えるがな』
『そ、そんな事はありませんわ』
そう言ってはみたが、語尾が小さくなったのは自分を見透かされた気持ちになったからか。
堂島がシガレットケースからタバコを一本取り出して。
『貴女はタバコは吸うのかな』
『・・いいえ』
『今まで一度も?』
『はい、生まれて一度も吸った事がありません』
『ほう、それは何故?』
『そ それは身体に悪いから』
『ほう、何故身体に悪いと言えるのかな、一度も吸った事が無い貴女が』
『それは・・医学的にも・・』
『ヘビースモーカーでも長生きする人間はたくさんいるだろ』
『・・それは』
『・・まあ、タバコを吸いなさいとは言わんが、何ごとも頭ごなしにダメと言うのはよくない。・・・・貴女は食わず嫌いというか、“殻”に囲まれすぎだな』
『・・・・・』
『その殻を破れれば、もっと人間味が出てきて教師としても一人の女としても魅力的な人間に近づけるんだがな』
『・・・・・・』
堂島泰三の印象は、大きく、押しが強く、迫力があり・・・そして冷たい目だった。
会話の中でその細い目が、心を射抜くように見つめて来る事があった。
夏美は幾度となく心の中に、ゾクリとする“何か”を感じる事があった。
『夏美さん、私の高校には全国からいろんな子が集まってきますよ。・・登校拒否、中退は当たり前。万引きや窃盗、中にはレイプ経験者もいる・・もちろん加害者だ』
『・・・・・』
『そんな“彼ら”は人間らしいと言えば人間らしい。彼らと接するには“普通”の教師ではダメなんだよ。それ以上に人間臭い教師じゃないと』
夏美は何とか話題を変えようしたのだが。
『・・・大学はどうなのですか?・・・大学も買収されたと聞いています』
堂島は細い目のままゆっくり顔を振り。
『大学は普通だ。ただこれからは、個性のある子を集めてその個性を伸ばすように指導していかないと』
『…そうですね』
『その大学はちょっとした地方にあってな。もともと儂の生まれ故郷なんだが、そこでは教師にも寮生活をしてもらっておる』
『・・・・・・・・』
『なるべく若い先生を雇い、教授へ育てていく。学生を育てると同時に先生も育てていく。よその大学の様に資格や経験、肩書きは二の次だ。一番大事なのは儂の目に適(かな)うかどうか・・・。儂が認めれば昇進も早く給料も上がる』
『そうなのですか』
夏美の言葉にも気にする事無く。
『これから高校や大学も新たに増やしていくつもりじゃ。だから優秀な人材が必要だ』
その後、教師を辞めた後も年に1,2度、堂島の講演を聞きに出かけた。
深く話す機会はなかったが、挨拶は交わし、面識は出来たと思っていた。
そしてなぜか、日常の中でも堂島の冷たい”あの目”を思い出す事があった。
ある年、昔の教師仲間から堂島の大学で教員を募集している噂を耳にした。
自宅から通える距離であれば自分もと思ったが、“妻”の立場としては無理な選択であった・・・・・。
それでも、時折堂島の声が聞こえてきた・・・。
『その殻を破れれば~』
『~もっと人間味が出てきて~一人の女としても~』
ある頃から夫の高志にそれとなく“堂島泰三”の話をするようになった。
地方の大学に勤めたいとは言えなかったが、夫はどこかで感ずいていたかもしれない。
もう一つ、夫婦生活にも中だるみの様なものを感じていた。
子供がいない事が大きな原因かもしれないが、“一時の別居”が二人に良い刺激を与えてくれるのでは・・・結局は自分への理由付けの一つだったかもしれないが・・・・。
夫に思い切って話してみたのは、暑い夏の日の事だった。
『わかってるよ』
(・・・・・・・・)
『夏美が悩んでいるのは分かっていたさ。・・・寂しいけど一生会えない訳じゃないから・・・・一度しかない人生だから思い切って行って来いよ、生まれ変わってみる気でさ』
夫の言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
感謝の言葉しか頭に浮かばず、夏美は固く誓った。
『その前に、採用試験に合格しないとな』
夫の悪戯っぽい言葉にも、夏美はもう一度誓ったのだった。
そしてその年の秋に採用試験を受け、見事合格した。
助手からのスタートではあったが、それは当然の事だろうし、新たな挑戦に身が引き締まる思いだった。
2月からの当職は受験の手伝いからで、4月からの授業の準備を考えれば休む間もない忙しさである事が想像できた。
又その忙しさこそ、自分が望んでいた事だとも思っていた。
そして夏美は、この地にやってきた。
2月に初めてこの地に足を踏み入れた時には、想像以上の寒さに大変な所に来てしまったと想ったものだった。
それでもすぐにこの土地の水に慣れたのは、夏美が持って生まれた順応性と使命感によるものだ。
『会社に勤めていたら生真面目な管理職タイプよね』・・教員になってからも、友人達からよく言われた事があった。
学生の頃から友人達とはよく冗談も言いあったし、自分の事を堅物などと思った事は無かったが、どこかで“生真面目”なイメージがあったのかもしれない。
また、『結婚できて良かったわね。美人すぎて逆に婚期を逃すのが結構いるのよ』・・そんな事も言われた事がある。
昔から美人と言われる事が多かったが、近寄りがたい雰囲気もあったのかも知れない。
それでも恋愛経験は人並みで、結婚するまで何人かの男性と付き合った事もあったのだが・・。
夫の山中高志は大学時代の同級生で、歳も同じで、その頃から対等に意見を言い合い、お互いの趣味を尊重しあえる仲だった。
高志との結婚は友達付き合いの延長のようで、いつの間にか一緒になる事が自然な事だと互いがそう意識していた。
友人の大恋愛の話に憧れも持ったが、高志との馴れ初めは心のどこかで自分らしいと思っていた。
結婚後も共働きであったし、食べさせてもらっている、食べさせてあげていると言う感覚は全くなかった。
しかし、ある時夏美は教師の職に行き詰まりを感じた。
自分の倫理観、職業意識が周りと違って見えたからだった。
『やっぱりダメだわ、公立高校の先生はみんなサラリーマンみたいで』・・いつしかそんな愚痴を夫の高志に言う事があった。
そして結局、教師を辞めたのは結婚5年目の30歳の時だった。
専業主婦になってから頻繁に学生時代の友人を家に呼ぶようになったが、子持ちになった友人達の姿に自分だけが取り残された気分だった。
結局、“堂島学園”の話を考えるようになったのは、それが自分の道だと思い直したからかも知れない。
“堂島泰三”・・・日本全国から“落ちこぼれ”と呼ばれる若者を積極的に受け入れ、更生すべく“園”を運営する教育者。
また、経営不振の学校を買収して再生する実業家の“顔”も持っていた。
夏美が堂島泰三を意識し始めたのは、教職を辞める事になる年の春。
ある教育関係者の紹介で、都内で食事をする事になったのだった。
『貴女、お美しいけど充たされておらんな』
初対面の挨拶がこれだった。
『貴女自身は、その美しさに気づいていながら、それを隠そうとしているな。それが奥ゆかしいと勘違いしてはおらぬか』
『!?』
『奥底にある己の“本性”を少しでも表に出す事が出来れば、貴女はもっと魅力的な人間になるぞ』
『・・・・・・・』
『教師である前に人間なのだから・・その人間臭さを出してこそ人を惹きつける』
『・・人間臭さなんて・・それに教師はやっぱり身だしなみとか、襟元を正すとか・・そう言った事が大事だと思います』
そう反論したが、声は弱々しかった。
会話は進み、出会ってわずかな時間から常に堂島のペースになっている事に気付いてはいたが、これも堂島の魅力だったと後になってわかった。
『おやおや、貴女は同僚の先生連中を“サラリーマン”のようだと称されたが、儂は貴女もその公立高校のサラリーマン教師とあまり変わらぬように見えるがな』
『そ、そんな事はありませんわ』
そう言ってはみたが、語尾が小さくなったのは自分を見透かされた気持ちになったからか。
堂島がシガレットケースからタバコを一本取り出して。
『貴女はタバコは吸うのかな』
『・・いいえ』
『今まで一度も?』
『はい、生まれて一度も吸った事がありません』
『ほう、それは何故?』
『そ それは身体に悪いから』
『ほう、何故身体に悪いと言えるのかな、一度も吸った事が無い貴女が』
『それは・・医学的にも・・』
『ヘビースモーカーでも長生きする人間はたくさんいるだろ』
『・・それは』
『・・まあ、タバコを吸いなさいとは言わんが、何ごとも頭ごなしにダメと言うのはよくない。・・・・貴女は食わず嫌いというか、“殻”に囲まれすぎだな』
『・・・・・』
『その殻を破れれば、もっと人間味が出てきて教師としても一人の女としても魅力的な人間に近づけるんだがな』
『・・・・・・』
堂島泰三の印象は、大きく、押しが強く、迫力があり・・・そして冷たい目だった。
会話の中でその細い目が、心を射抜くように見つめて来る事があった。
夏美は幾度となく心の中に、ゾクリとする“何か”を感じる事があった。
『夏美さん、私の高校には全国からいろんな子が集まってきますよ。・・登校拒否、中退は当たり前。万引きや窃盗、中にはレイプ経験者もいる・・もちろん加害者だ』
『・・・・・』
『そんな“彼ら”は人間らしいと言えば人間らしい。彼らと接するには“普通”の教師ではダメなんだよ。それ以上に人間臭い教師じゃないと』
夏美は何とか話題を変えようしたのだが。
『・・・大学はどうなのですか?・・・大学も買収されたと聞いています』
堂島は細い目のままゆっくり顔を振り。
『大学は普通だ。ただこれからは、個性のある子を集めてその個性を伸ばすように指導していかないと』
『…そうですね』
『その大学はちょっとした地方にあってな。もともと儂の生まれ故郷なんだが、そこでは教師にも寮生活をしてもらっておる』
『・・・・・・・・』
『なるべく若い先生を雇い、教授へ育てていく。学生を育てると同時に先生も育てていく。よその大学の様に資格や経験、肩書きは二の次だ。一番大事なのは儂の目に適(かな)うかどうか・・・。儂が認めれば昇進も早く給料も上がる』
『そうなのですか』
夏美の言葉にも気にする事無く。
『これから高校や大学も新たに増やしていくつもりじゃ。だから優秀な人材が必要だ』
その後、教師を辞めた後も年に1,2度、堂島の講演を聞きに出かけた。
深く話す機会はなかったが、挨拶は交わし、面識は出来たと思っていた。
そしてなぜか、日常の中でも堂島の冷たい”あの目”を思い出す事があった。
ある年、昔の教師仲間から堂島の大学で教員を募集している噂を耳にした。
自宅から通える距離であれば自分もと思ったが、“妻”の立場としては無理な選択であった・・・・・。
それでも、時折堂島の声が聞こえてきた・・・。
『その殻を破れれば~』
『~もっと人間味が出てきて~一人の女としても~』
ある頃から夫の高志にそれとなく“堂島泰三”の話をするようになった。
地方の大学に勤めたいとは言えなかったが、夫はどこかで感ずいていたかもしれない。
もう一つ、夫婦生活にも中だるみの様なものを感じていた。
子供がいない事が大きな原因かもしれないが、“一時の別居”が二人に良い刺激を与えてくれるのでは・・・結局は自分への理由付けの一つだったかもしれないが・・・・。
夫に思い切って話してみたのは、暑い夏の日の事だった。
『わかってるよ』
(・・・・・・・・)
『夏美が悩んでいるのは分かっていたさ。・・・寂しいけど一生会えない訳じゃないから・・・・一度しかない人生だから思い切って行って来いよ、生まれ変わってみる気でさ』
夫の言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
感謝の言葉しか頭に浮かばず、夏美は固く誓った。
『その前に、採用試験に合格しないとな』
夫の悪戯っぽい言葉にも、夏美はもう一度誓ったのだった。
そしてその年の秋に採用試験を受け、見事合格した。
助手からのスタートではあったが、それは当然の事だろうし、新たな挑戦に身が引き締まる思いだった。
2月からの当職は受験の手伝いからで、4月からの授業の準備を考えれば休む間もない忙しさである事が想像できた。
又その忙しさこそ、自分が望んでいた事だとも思っていた。
そして夏美は、この地にやってきた。