小説本文



高台にある神社の境内には桜が咲き誇り、その下を小走りに寮の部屋へと戻った。
 見上げればそれは見事な夜桜なのだが、夏美の顔が上がらなかったのは、先程までの堂島との有るまじき行為に対する後ろめたさから来るものだった。
 こちらは被害者なのだが、それでも世間に対する後ろめたさと罪の様な意識があった。
 その気持ちは、初めて犯されたあの夜よりも強かった。
 初めての時は、ただ、ショックを受け、数日を過ごした。
 しかし今日の昼間、若者を祝う入学式という式典に、助手という立場とはいえ自分は出席していた。
 その自分がその日に、脅されているとはいえ自らの足で再び男の元を訪れた。
 そして案の定、再び犯された。


 自分に何か“策”は無かったのか?
 抵抗する手立ては無かったのか?
 学生時代から友人達に“生真面目”と言われるのも、事の起こりに対して自分を責める事が多かったからだ・・・と、己を分析した事もあった。
 そして今もまた・・・・。


 部屋に戻ると、本来そこには一人暮らし故(ゆえ)の寂しさはあるのだが。
 それでも今あるこの哀しさは、性質が違うものであって。
 夏美はその哀しさと怒りをどこかに追い払おうと考えるのだが・・・。
 しかし、どうにもならない現実がここにある。


 夫の高志の顔を自分から思い浮かべようとする事さえ、それが夫への“申し訳なさ”だと思えて。
 この一週間、こちらから夫へは電話をしていない。
 夫の声を聞いてしまうと、自分はどうにかなってしまうのではないかという思いと、申し訳なさが混在していたからだ。
 夫は丁度一週間ほど前から、海外へ出張に出ているはずだった。
 電話は何時(いつ)でも、何処(どこ)からでも通じる時代なのだが、それでも出張に出かけてくれている事が逆に良かったのかもしれないと考えた。


 この夜。
 一人侘しく食事を終えた。
 もう一度入浴をという気持ちもあったが、その元気も沸かなかった。
 何とかパジャマに着替え、仕事の事を考えようと気持ちを持って行こうとするが、本の一冊すら手に取る意識が沸いてこない。
 こんな時は・・・。


 (お酒でも・・)


 昔から酒に強かったわけではないが、たしなむ程度に飲む事はあった。
 酒で我を失う事など無かったが、周りからは面白みがないと言われた記憶が残っていて。
 やはりこの一週間は、ネガティブな思考に覆われていると認識せずを得なかった。
 ふと、堂島と幸恵の言葉が頭に浮かんでくる。
 

 夏美は東京から持ってきた唯一のワインを手に取った。
 中身は殆ど残っている。
 グラスをと・・・食器棚に向かう途中で床に脱ぎ散らかしたままのジャンバーを手に取った。
 ハンガーに掛けようと、手がポケット辺りに触れた時、何かの膨らみに気が付いた。
 はて? ・・・ ポケットに手を差し入れ、取り出してみれば、それはタバコの箱だった。
 すぐにその犯人が浮かんできて。
 しかし、幸恵の狙いは分からない。
 面白みのない自分をからかっているのか、それとも何かメッセージでもあるのか・・・。


 あまり見かける事のないその箱をしげしげと見てみれば、唾液の中にあの苦い味が沸いてくるようで。
 夏美は考えた末、それをゴミ箱へと押し込んだ。


 酒を注いだグラスに、そっと口を付ける。
 ヤケ酒とはいかないが、それでもアルコールの力を借りようと思うのだが。
 しかし、セーブしながら口を付けるのは、やはり自分の性格のせいかと又、考えた。
 早く酔いが回って睡魔が襲ってくれないかと思うのだが、そんな気持ちとは逆に、何故か堂島達の姿が意識の中に現れる。


 僅か数センチ注いだ酒を飲みきると、もう一杯とボトルに手をやった。
 ふと、その太さと量感に身震いした。
 不意に記憶の奥で堂島がニヤリと笑う。
 残影を振り払おうと頭を振るが、沸き上がってくるのは着物の帯をゆっくり回す男の姿。
 ふてぶてしく口元を歪め、細い目は冷たい光を放ち、分厚い裸の胸が顔を出す。
 堂々と曝け出した下半身には、いきり立つ牡のシンボルが天を向く。
 夏美はもう一度頭を振る。


 夫への申し訳なさの、理由はここにもあったのか?・・・と、思考の奥では無意識に答えを探す自分がいる。
 しかし、すぐにその危うい思考を否定する。
 「何を馬鹿げた事を」
 と、口に出してみた。


 この夜の酒は悪い酒であった。
 睡魔を与えてくれず、思考をどこに向けようとするのか。
 知らずの内に夫と堂島を比較している夏美がいた。
 いや、夫とではなく、それまでの男達との比較であった。


 夫と付き合う前には、何人かの男と付き合った事もあったし、肉体関係を結んだ者も一人いた。
 特別に良い想いも悪い想いもなく、結婚後もそれらは思い出以外の何物でもなく、思い出す事も全くなかった。
 夫と過去の男性を比較した事は無いし、比較しようなどとの考えも沸いた事など無かった。


 しかし・・・。
 この一週間、初めての夜に味わされた衝撃が、ふとした弾みで意識の中に現れてきて・・・。
 ・・・・夏美は酒を注ぐと一気に飲み干した。


 堂島泰三・・・。
 あの夜が来るまでは、その経歴、行動力、発言力に刺激を受け。
 また、哲学といったものを感じ、人として尊敬とまではいかないが、尊重はしていたつもりだった。
 そういう意味では、周りの男性と比較して、ある種の魅力を感じていたといえる。
 その男はもう一つ、“別の力”を持っていた・・・・。
 夏美は先ほど以上に頭を強く振った。
 

 夏美は腰を浮かせ、這いつくばるようにベットに近づくとゴロリと転げ込んだ。
 目を上に向ければ電気が点いたままだが、今夜はこのまま眠れそうな気がした。
 瞼を閉じてしばらくすると、“あの夜と今夜”の出来事が甦ってきた。
 腕を2つの胸の膨らみの上に置き、もう片方の手の平を下腹にあてた。
 そして、閉じた瞼にもグッと力を入れる。
 その仕草は、我が身を守るようで・・・。


 小鼻から吐き出る息遣いは、酒のせいだろうか粗いものだった。
 あの男の体臭も、アルコールとタバコの匂いが混ざった物だった・・・。
 “ピクリ”と胸の突起がパジャマの裏地に擦れるのを意識した。


 唇が渇き、舌がそれを一舐めした。
 身体は火照っている。
 股間の奥の“女”の部分も熱くなっている。
 夏美はもう一度、無意識に唇を一舐めした。


 微睡(まどろ)む意識の中では、夏美は一糸も身に着けない生まれたままの姿だった。
 情熱的なキスは、それまで経験した事があっただろうか。
 激しい愛撫に、それ以上の激しさで返した事があっただろうか。
 いや、激しい愛撫とは・・・自分は知っていただろうか。


 (「・・・ああ、貴方・・・」)
 夢の中か、現実か・・・口元から言葉が漏れ・・・。


 今まで自分から欲求を満足させてもらおうと、振る舞いをした事があっただろうか・・・。
 いつも受け身で、自分が“与える”立場だという意識はなかったか・・・。


 「・・・ああ、貴方・・・」
 夏美の口からはっきりと言葉が漏れ落ちた。


 唇は渇き、目尻は震え、肢体は軽い震えを起こし・・・。
 やがて夏美は眠りについていく・・・・・・・。