小説本文



火曜日。
 目覚めは思ったほど悪いものではありませんでした。夕べの妻の告白があまりにも強烈過ぎて、逆に私の頭は麻痺したのかもしれません。
 それと、清水達が興味があるのは妻の方で、私の職場には来ないだろうと、昔から臆病な自分に身に付いたズルい意識に幾分かの安堵があったのだと思います。
 知らない所で行われていた妻の変態遊戯。今日もひょっとしたら・・・・今朝はそんな事を妄想しながら仕事場に向かいました。


 業務をこなしながら、時折、妻の事が頭をよぎります。清水がまた現れ、妻を男子トイレに呼び込んでいるのではないかと・・・。
 いえ、呼び出しがなくとも妻は一人で、冷たく仄暗い男子トイレに向かっているのではないだろうか、夢遊病のように…そんな妄想が沸き起こってしまいます。


 私はこの日から帰宅後の妻の話を楽しみに・・・いえ、楽しみという表現がおかしいのは分かるのですが、妻の身を案じながらもどこかで、妖しいトキメキを覚える自分がいたのかも知れません。
 しかし、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日と、その日常の中に清水は現れなかったのです。


 「そうか、今日も奴らからのコンタクトはなかったのか」
 そう聞く私に、妻は淡々とその日の事を話してくれました。そこには清水の姿はなく、また“一人プレー”をした、などとの事実もなかったようです。
 頭の中では、次に清水から何かしらあるとすれば次の土曜日か日曜日だうと思っていたのですが、その予感は見事的中して、金曜日の夜に妻にメールがあったのです。






 「そ、それで何て書いてあるんだ!?」
 風呂上りに妻からメールの事を聞かされた時は、火照った体にブルッと震えが走りました。
 私はバスタオルを巻いた姿のまま、妻のスマホを覗き込みました。


 [日曜日、11時に〇〇駅のロータリー横の駐車場にご主人と来てください]
 と、そこにあったのは丁寧な文面でした。その瞬間、堀田さんの顔が浮かんできました。そういえば先週の日曜日以来、堀田さんとは一度も連絡を取り合っていません。
 頭の隅では堀田さん夫婦の事も当然気になってはいましたが、妻の告白を聞いてからは、彼ら夫婦の事は無意識に片隅に追いやっていたのかも知れません。
 しかし、頭の中にはボワ~っと堀田さん夫婦の姿が現れてきました。ご主人の落ち着いた顔とニコッと笑う顔。紀美子さんの明るい顔とニヤッと意味深に微笑む顔。そして小動物のように肩寄せ怯えていた二人の表情(かお)。それに、私たちの前でショー芸人のごとく痴態を披露した二人の姿です。
 気が付けば妻が戸惑いもなく[承知しました]と、返信を打っていました。
 私達はこの日の夜も次の日も、日曜日の事について“何か”を話す事はありませんでした。そう言えば、先週の日曜日には今後の善後策も考えようとしていた私達。いえ、私だけがそう思っていたのかも知れません。意識のどこかで行く末を支配されていると、諦めの気持ちが働いていたのでしょうか。


 日曜日。
 明け方、私は変な夢で目覚めました。
 夢の中で、私は妻と二人で知人のご子息の結婚披露宴に出席していました。場所は初めて堀田さん夫婦と会ったホテルです。
 お馴染みの音楽に乗って新郎新婦が入場してくるのですが、純白のウェディングドレスに身を包んで現れたのは、なんと妻の浩美なのです。艶やかな化粧で若作りしてますが間違いなく妻でした。そして妻が手を預けている黒いタキシードの男は、見た事もない男…と、思った瞬間、それが清水の部下の一人だと認識しました。


 舞台中央でこちらを振り返った二人。妻は俯いていて幾分か震えて見えます。男は肘から妻の手を離すと、司会からマイクを受けとります。そして。
 「皆さん、紹介致します。こちらが変態マゾ奴隷の浩美です」と、緊張のかけらもなく告げたのです。私の腹の奥にスーっと冷たいものが落ちていきます。男がマイクを握ったまま私を見つめています。そして続けます。
 「では、今度は新郎を呼んでみましょうか」
 と、その瞬間ライトが落ち、熱いスポットライトが私に向きました。
 周りからは拍手が沸き上がり、首を降ると礼服を纏った男達がニヤニヤ下品な笑みを浮かべて私をみています。品評するような視線でです。
 誰かが私の背中を押しました。フラフラ私の足は壇上の方へ向かいます。
 壇上からくるりと振り返ると礼服を着ていた男達は浴衣に着替えていて、胡座(あくら)座りで私達を見上げています。
 気がつけば隣の妻は、ウェディングベールを被ってはいるのですが、その下は…裸で豊満な乳房が丸見えで、陰毛を晒け出した何とも卑猥な格好です。私は…裸の上半身に首にはネクタイです。そしてタキシードだけを羽織り、下半身は妻と同じく何も身につけておりません。
 いつの間にか会場も華やかなものから、狭く陰気な畳部屋に変わっています。そうです、あのラブホテルの畳部屋にそっくりです。


 私は頬が引きつくのを感じなから、眼球だけを動かしました。車座の男達の向こうに、突っ立っている男女の姿が見えました。三組の夫婦のようです。男は皆な素っ裸にネクタイだけを締めた滑稽な格好です。隣の女性達は、素っ裸に赤い褌(ふんどし)姿です。
 その中の一人が私の方を泣きそうな目でじっと見つめているのが分かりました。堀田さんです。
 私達を見上げる男達は、ヒソヒソと卑猥な笑みで猥談に花を咲かせているようです。零(こぼ)れ聞こえてくるのは『奴隷』『肉便器』『調教』『好き者』といった単語です。
 その言葉が木霊(こだま)のように回り出した瞬間、私は眠りから覚めたのでした。


 朝の食卓は静かなものでした。食後のコーヒーの味も分かりませんし、朝刊に目を通しても、活字は頭の中に刻まれていきません。
 しばらくして洗い物を終えた妻が、洗面所の方に向かった気配がありました。おそらく、間違いなく“生贄”…あるいは“見世物”にされるのが分かっていながら、我が身に化粧を施す心情は如何なものか…と考えながら、妻が向かった方向を見つめておりました・・・・。




 約束の駐車場には、堀田さん御夫婦が先についていました。
 1週間ぶりの再会ですが、とても長い間会っていなかった気持ちになるのは何故でしょうか。
 堀田さんも紀美子さんも私たちの顔を見ると「おはようございます」と小さく呟き、軽く頭を下げるだけです。
 車に乗りますと直ぐに「今日はどこに…」と聞く私がいます。堀田さんが「ホテルに…」と呟き返し、私の頭の中には「やっぱり…」と言う言葉が浮かんでいました。
 

 いつの間にか見慣れてしまった風景が通り過ぎ、あと15分ほどで目的のホテルに到達する頃です。それまで黙り込んでいた堀田さんがハンドルを握ったまま口を開きました。
 「あの…菊地さん。今日は菊地さん御夫婦は、見学だけだと思います」
 堀田さんの息苦しそうな声に、身体が少し起き上がります。
 「け、見学と言いますと…」
 私の呟きに、堀田さんは前を見ながら続けます。
 「今日は私を含め3組の夫婦が恥を晒します。奥さんと一緒に私達の姿をよく見ておいて下さい」
 「・・・・・・」
 「それでもし、私達と同じように恥ずかしい姿を見られたくなったら、遠慮なしに仰って下さい」
 「…ば、ばかな・・」
 とっさにそんな言葉が口に付きましたが、すぐに堀田さんが返します。
 「いえ、菊地さんはそうでも奥様が」
 「!!・・・・」
 私はすぐに隣に顔を向けておりました。妻は先ほどから前の一点を見つめているようです。
 そしてまた、車内は沈黙に入りました。


 高速の出口が近づいて来た時です。私の心臓の音が高鳴ってきました。
 「ほ、堀田さん…大丈夫ですかね…」
 何を今さらなのですが、声は見事に震えております。小心者丸出しの声です。


 「菊地さん…自分に素直になればいいのです」
 「・・・・・」
 「恥も外聞も捨てて、全てを曝(さら)け出すんです」
 「・・・・・」
 黙り込んだ私に堀田さんが続けます。
 「大丈夫ですよ。菊地さん御夫婦には“資質”があるんですから」
 ミラー越しに、歪んだ口元が見えました。
 気が付けは隣の妻の手を握っておりました。どこまでいっても臆病者の私の手です。


 車は間もなくして、いつものホテルの駐車場へ入って行きました。見れば記憶通りのワゴン車が止まっております。
 車を降りると私は堀田さんの後を、妻は紀美子さんに肘を取られるように歩いて行きました。


 向かった部屋は初めて入る部屋でした。これまでの部屋の倍以上の大きさでしょうか。
 玄関から廊下を歩きますと奥の方から微かな灯りと、話し声が漏れてくるのが分かりました。
 堀田さんが一番手前の部屋の扉を開けると、私達夫婦を招き入れます。そこは仄暗い陰気な畳部屋でした。


 一瞬身体が強張りました。そこに初めて見る顔があったからです。
 見ると年の頃は私達と同じ位の中年カップルです。
 堀田さんが彼等と目線で挨拶を交わすと、私達の方を向き直ります。そして。
 「こちらが菊地俊也さんと浩美さん御夫婦です」と静かに言いました。
 私は反射的に軽く頭を下げていました。隣では妻も同じように軽くお辞儀をしたようです。そして堀田さんが続けます。
 「こちらが私達の一つ先輩にあたる落合さん御夫婦。そしてこちらがさらに先輩になる山本さん御夫婦です」


 堀田さんの紹介に、その二組の夫婦がその場で軽く頭を下げました。私達はつられてもう一度頭を下げます。
 その後は、それ以上の挨拶もなく、各々が腰を降ろしました。
 私は息苦しさを感じながら、時折周りの様子を見ます。堀田さん達を含め皆、殆ど黙ったままです。まるでお通夜のようです。


 しばらくして、先輩各の山本さんのご主人が顔を上げます。
 「では、そろそろ支度しますか」
 その暗く重い声にそれぞれがゆっくり腰を上げます。落合さんの奥様は「トイレに…」と呟き、部屋を出て行きます。
 山本さんの奥様が紀美子さんに「シャワーは」と聞きます。
 紀美子さんは「出掛けに浴びて来ました」と小さく答えます。
 この部屋は、舞台に上がる芸人の控え室のような物なのでしょうが、声を潜め、小さくなって何かに怯えているこの姿は牢屋の中で出番を待つ、「生け贄」「奴隷」といった表現がお似合いなのだろうと思いました。
 私の背筋には、冷たい震えがザワザワと広がっておりました。


 落合さんの奥様が戻って直ぐに、部屋のドアが静かに開きました。男の姿にゴクリと息を呑みます。清水です。
 「・・・・・・・・・・」


 清水の沈黙の視線に、部屋の温度が更に下がった感じです。皆の緊張が高まったのも分かります。
 「クククク……」
 薄気味悪い笑いに身体が締め付けられます。
 清水の視線が私達に向きました。
 「菊地さん夫婦も浴衣に着替えておけ」そう言って清水が堀田さんに顎をしゃくります。堀田さんは押入れの扉を開けます。


 「菊地さんのところは今日は見学の予定だが、ハプニング的に登場してもらうかもしれないからな」
 清水のぶっきらぼうな言い方にも、私の体温はまた一つ下がった感じです。


 「それと段取りは前回と一緒だから、まあシッカリ頼むわな」
 誰に告げるでもなくそう言うと、清水はもう一度皆の顔を見回しました。


 清水が部屋を出て行くと、皆それぞれ着替えを始めます。
 私は妻の横顔を覗き込みました。そしてそろりと、上着のボタンに指を掛けました・・・・。