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 気温差に身体がブルルと震えた。
 時計を見ると9時を少し過ぎたところだ。
 あの狭い空間から外に出た途端、早苗は先程の事が夢の中の出来事だったような気がした。しかし、闇はまだまだ深く、日常と違う空気が纏わり付いている。そして…。


 階段から現れた人影に、思わず唇を噛み、目を反らした。
 「待たせたな。ん?どうした早苗先生」
 声の主は神田幸春。チラリと覗いたその長身の後ろにはもう一人、高田由美が俯き気味に立っていた。


 「さぁ、そろそろタクシーも来るだろう。仲良く二人で、語り合いながら帰りなさい」
 まるで保護者のようなその声に頬を震わせたのは、二人同時だったかも知れない。早苗も由美も視線を落としたまま俯いている。


 神田が由美に労いの言葉を掛け、早苗には意味深な笑いを向けた時だった。向こうから車のライトが近づいてきた。
 ドアが開くと、逃げるように先に乗り込んだのは早苗だった。運転手の問いに、目印となる小学校の名前を告げて、ガラス窓に目をやった。由美が神田の話に黙ったまま頷いている。
 やがて乗り込んだ由美を確認すると、車は暗やみから逃げるように走り出した。


 二人は沈黙に耐えるように前を向いていた。
 やがて、先に口を開いたのは由美の方だった。
 「早苗さん…ビックリした?」
 「・・・・・・・・・」
 「あの…言いたい事…いっぱいあるよね。その…聞いて、何でもいいから」
 比較的落ち着いた感じの声だった。早苗はゆっくり横を向き、そして軽く唇を潤し息を飲んで。
 「ええ…驚いたわ。けど何で…?」
 「…ん…理由はハッキリしてて、お金なの」
 その単語に、やはり、そうかと、早苗は頷くしかなかった。
 「昔、主人の転職の関係で引っ越したでしょ。その会社が勤めて直ぐに倒産しちゃって…。その後借金なんかもして、今でも結構大変なの」
 早苗にはその理由だけで充分だった。言い訳がましい事を由美に喋らせるのも嫌な気がして「うんうん」と頷いてみせて、納得の意思を表した。
 それよりも早苗の頭の中に蔓延るのは、由美と神田の繋がりであり、【華の会】との関係性であった。


 「由美さん、もういいわ、分かったから」
 前を向きながら、早苗は自分に言い聞かせるように頷いて。
 「小学校の教師をしている時にもあったの…」
 早苗は聞かれもしないのに、昔の出来事を話し始めた。無意識に友人を擁護したい気持ちが生まれていたのかも知れない。


 「ある男子生徒がいたの。3人兄弟の長男なんだけど、両親が離婚してて3人とも母親に育てられていて…」
 「・・・・・・・・・」
 「母親は確か、パート勤めだったと思うけど、ある時クラスで変な噂がたったの」
 「・・・・・・・・・」
 「その母親が売春してるって噂なの。やがて騒ぎは落ち着くんだけど、真相は分からないまま…ある時学年の教師で慰労会があって、その時にその話が話題になったの」
 「…どんな話しだったの…」
 由美が興味を示してきた。
 「売春に纏わる善悪の話かな…。そこにいた教師の半分位は如何なる理由でも売春はダメって意見で、一部は生活費の為なら止むを得ないっていう感じだったと思う」
 「…その時の早苗さんの意見は…」
 由美の言葉に、んんっと唇を結んでから軽く頷いて。
 「アタシは…当然人に勧められる仕事ではないけど、借金なんかが原因で、子供に人並みの生活をおくらせる為であれば仕方ないのかなって…」


 その時、ある記憶が甦ってきた。早苗は不意に黙りこみ、こめかみに指を当て、当時の様子を思い出そうとした。確かその時の慰労会には神田も顔を見せていた。そして、その時、神田が口にした言葉を…。


 そうだ…。
 『夫からは養育費を貰えない、払うと言っておきながら。
 親や親族に頼ればいい。それも勝手な言い方で、そんなに都合よく行くものではない。
 生活保護の支給も限度がある』
 そんな風に謎掛けのようにも聞こえる“問い”をあの日の神田は確かに呟いた…。


 そこで…。
 「あの…由美さんの“お仕事”って、ひょっとしたら神田先生から紹介というか、斡旋されたの…」
 運転手の様子を探りながら、早苗は訪ねてみた。
 「ええ、そうよ…」
 流石に由美も、歯切れが悪そうに呟いた。
 そして又、沈黙が始まった。


 ふと、今はどの辺りを走っているのだろうかと、早苗は外を見つめてみた。何となく頭に地図が広がると到着の時間を想定して。
 (今のうちに聞いておかねば)
 と、自分に言い聞かせて、由美の様子を窺った。


 「由美さん、あの…大塚真知子さんとは親しいの」
 【華の会】で由美の口から真知子の名前が出たのは記憶にあるから、二人は顔見知りなのは間違いない事は分かっているつもりだったが、改まって聞いたのだった。


 「ああ、大塚真知子さんね、知ってるわよ。確か…ご主人が学校の先生だとか、神田先生から聞いた事があったわ」
 早苗は大きく息を吐き出し、「ええ、そうなの。…その真知子さんなんだけど…」
 「・・・・・・・・・」
 「真知子さんも、その…由美さんと同じような事をしてるの…?」
 恐る恐る早苗は聞いた。


 由美は肩をすくめて見せて。
 「いいえ、アタシの知る限りでは、お金の為に身体は…」
 由美の語尾は小さく…しかし早苗は、言葉の意味を直ぐに理解し、「それじゃあ」と次の言葉を促した。


 「真知子さんは、あの“会”では比較的新しい方なの。今のところは、身体をお金で…って言うのは無いわ。けれど…」


 早苗はミラー越しに運転手の様子を確認して、声を落とし「じゃあ真知子さんがやってることは…」
 「それはね」由美がキュッと視線を向けてきた。それは開き直りというか、どこか覚悟を決めたような視線だ。


 「真知子さん達がやってるのは、神田先生の手伝いよ」
 「手伝いって」
 「詳しくは知らないけど、欲求不満の女性を満たしてあげる仕事かな。後は変わった性癖を持った夫婦を助けるお手伝い」
 「それを実践するのがあの【華の会】なの?」
 「いえ、会員全員が“あんな事”をしてるわけじゃないわ。普通にフラワーアレンジメントをする為に来てるのが大半だから。講師の先生だって普通の人よ。けど、神田先生がやってる事は薄々知ってるみたいだけど」
 そう言って由美がペロリと舌を出した。既に由美の緊張はとけている。


 「うふふ…早苗さん、気になるみたいねぇ」
 好奇心の色を乗せて、由美が見つめて来た。シートの上を尻這いで身体を寄せてきて。
 「あの変な薬・・早苗さんも知ってるわよね」
 ドキリと早苗の胸の鼓動がなった。
 「あの薬は人間の欲求不満を解消するのよ。自分の奥底にある“本性”を正直に出せるんですって。うふふ・・」
 由美の目が“お見通し”ですよ、と言いたげに迫って来た。早苗の身体は熱くなっていく。


 「でもね…売春にしたって、男女の戯れにしたって、基本的にエッチが好きじゃないとやれないわ。早苗さんはどう、セックス好き?」
 「!・・・・」
 どこか開き直った由美の言葉に、早苗は運転手の様子を気にして俯いた。そして、頬の火照りに息苦しさを感じた。


 「あっ、次の交差点の手前で停めて下さい」
 由美の声に車はスピードを落とし始めた。
 「早苗さん、今夜の事…神田先生から、早苗さんが覗いてた事を聞かされた時は心臓が止まるかと思ったわ。その後、貴女と顔を合わせるのは本当に辛かったわ。でも話せて良かった。やっぱり神田先生の言う通りね」
 「・・・・・・」
 「じゃあ今日はここで。ふふ、これからは“裸の付き合い”が出来そう」
 そう言って由美は、意味深な笑みを残して車を降りた。


 タクシーは再び走り出した。
 目を瞑れば色々考える事があった…が。
 とにかく、大塚の依頼ーー奥様の真知子の調査は、これで終わりにしようと思った。そして、あの【華の会】から真知子を“救い出す”・・その考えも余計な事なのかと結論付けようしていた。
 真知子自身が言った、大塚の性癖…それが本当かどうかは分からないが、もうこちらから大塚へ報告するのも止めようと思った。
 気が付けば、見慣れた景色が近づいている。


 タクシーをよく行くコンビニで降りて、買い物をして帰ろうと店内に向かった。
 一度大塚の車に乗ったのが、この場所だった。ふと、敏男に言われた言葉が浮かんできた。
 『~オバサンに似た人が車の助手席に乗ってて~』
 大塚の隣に乗っている所を見られていたのだと、改まって苦い気持ちが湧いてくる。けれど…。人違いで通すしかないのだと、自分に言い聞かせる。その内に又、家に優作を訪ねて来る事が間違いなくあるだろうが、シラを切るしかないと、早苗は誓ったのだった。


 その頃―ー。
 大久保敏男は、部屋から“ある番号”に電話をかけていた。


 「・・・・・・・・・」
 『ハイよ』
 いきなり明るい声が聞こえてきた。
 「う、上野?…わ、悪い」
 『ん、俺は平気だぜぇい』
 なぜかテンションの高い様子に、やはり夜型のヤツだと、敏男は納得の苦笑いを浮かべてから一つ間を置いて。
 「あのさぁ…ちょっと相談があるんだけど」
 『ああ。たまったの?又、犯(や)りたくなったんか』
 「い、いや…」
 『あれだぜ“たまった”ってのは精液じゃないぜ、金の事だぜ』
 そう言って笑う上野に、今夜は乗りが良さそうだなと、敏男も自分のテンションを上げようと思った。


 「あのなぁ、今日は“そっちの女”の話しじゃなくて、別の女の話なんだよ」
 『ん~別の女?…何ソレ?面白いの?』
 「あっああ、おもしろい、おもしろい。絶対おもしろい話になると思うんだ。それでお前にも相談に乗って貰いたくって」
 小声でオドオドしながら喋る姿は、Vシネマに出てくる小悪党そのものだった。
 敏男は悪の先輩、上野に優作の母親が小学校時代の恩師と不倫している(らしい)と言う話を、ああでもない、こうでもないと、説明して、又、説明し直してと延々と聞かせたのだった。自分なりに一通り言って聞かせた時は、額から一筋の汗が流れ落ちていた。


 「で、で、分かったかい俺の言った事は」
 『・・・・・・』
 「お、おい上野、寝てないよな..」
 『あん…聞いてるよ。で、ちょっともう1回聞くぞ』
 帰って来た言葉に安堵の息を吐いて、敏男は次の言葉に期待した。


 『優作って、あの渋谷の事だよな、この間まで同じクラスだった。で、その渋谷の母ちゃんがカナエ?サナエ?・・って言うのか。それと』
 相手の言葉が終る前に、先を急ぐように敏男は口を挟んで。
 「そっそう、優作は3年3組で一緒の渋谷優作。優作の母さんはサ、ナ、エ、渋谷早苗!」
 『うんうん。ああそれと、相手の男はなに?ヌケサクって言った?何なのソイツは?』
 「い、いや…ごめんごめん、ヌケサクってのはその頃の渾名で、本名はオ、オ、ツ、カ、大塚晋作!」
 敏男は一字一句正しく向こうに伝わるように発音した。


 「・・・・・・・・・」
 『ん―――』
 少しの沈黙があり、やがて聞こえてきたのは気の抜けたような、高揚の感じない響きだった。敏男は心の中で、この企みも失敗かと嘆きの気分がやって来るのを覚悟した…その時。
 『おもしろそうじゃん』
 ボソッと聞こえた声に、伏し目がちだった瞼がパチリと広がった。


 『で、お前、その渋谷の母ちゃんに密会の現場を目撃した話をした時、そのオバサンはビックリした顔をしたんだな。それと、その大塚って先生に言った時もそのオッサンも驚いたんだよな』
 今言ったばかりの事を復唱するように聞いてくる上野の言葉に、敏男も又、思い返すように「そうそう」と相づちを打っていた。


 『うんうん、それで大久保よう、その駐車場で車に乗ってる所の写真は撮ってないのかよ』
 「あっああ、ゴメン…」
 何故か謝罪の言葉が口に付いて、頭までも下げていた敏男。口に付いたのは。
 「ど、どうかな…何か上手い方法は無いかなぁ…」
 心細そうな一人言だ。


 『・・・・・・・・』
 またも上野の思考中の間があり、敏男はカップ麺の出来を待つように待っていた。


 『あのよう、お前はその何だ…要するに、解りやすく言うと渋谷の母ちゃんと犯(や)りたいんだな。・・まさか小遣い程度の金をせしめて、それでハイお仕舞いって事じゃないよな』
 まさにズバリを言い当てられて、敏男は息を飲んだ。しかしその沈黙は、正解の意思が見事に上野に伝わっていた。直ぐに電話口に聞こえて来た嬉しそうな響きに、敏男は諦めの…いや、決心が固まって行くのを自覚した。
 それは、こちらから持ち掛けた相談事であったが、主導権は早々と上野に渡り、敏男自身も弱味を握られた事に気づいたのかも知れなかった。


 『よしよし、何だかおもしろくなりそうな気がするわ。近い内に会って話をしようぜ』
 上野の落ち着いた声を聞きながら、敏男の身体は得体の知れない高ぶりに武者震いを起こしていた…。