小説本文



 
 早苗似の女性と出会いたくて、訪れるのも3度目となったこの界隈。“事”が終わって駅に戻った所で、本物の早苗を偶然にも見つけてしまった。お茶の後に尾行してみて、又、この界隈に戻ってきた。そしてなんと、今、向こうで早苗と話をしているのは、筆下ろしの相手をしてくれたあの女性(ひと)ではないのかと…敏男の目は先ほどから二人の女性にクギづけになっていた。


 その女性(ひと)に話し掛けられ早苗は、相手が最初は誰だか分からなかったようだ。予期せぬ相手から自己紹介でもあったのか、早苗の表情は怪訝から驚きへ。そして次には懐かしいものになったのか、今は信じられないといった表情で笑みを浮かべているようだ。その様子を遠目に見つめる敏男は、緊張したまま立ち竦んでいる。


 早苗は、高田由美(タカダ ユミ)の事を忘れるはずがなかった。今、目の辺りにするその雰囲気は、当時と比べるとふっくらとした感じではあるが、美貌と落ち着いた印象はあの頃と変わらない。口元から見える八重歯も、愛らしいままだった。
 長男の優作が小学生の時、一緒にPTAの役員をやったのがこの高田由美だった。確か歳も一緒で、同じ仕事に取り組んでいた。明るく活発的な由美と、静かだが芯の強い早苗はいいコンビで、二人の美幌は男性保護者の間でも人気だった。子供が中学の途中、ご主人の転職の関係で転校してから会うのは何年振りかと、早苗は頭で計算しながらも、この再会にただ驚くだけだった。


 「ところで由美さん、今日はどうしてこんな所に」
 「うふ、私、この辺は時々用事で来てるのよ。早苗さんこそ、今日はどうしたの」
 「ああ…うん」
 敏男といい、由美といい、今日はなぜか予期せぬ事ばかりがと…早苗はそれでも慎重に言葉を探して。
 「ええ、実はこの近くに知り合いが通ってるサークルがあって、アタシも興味がてら見学でもさせて貰おうかなって…」と、喋ってる途中で、由美の目が驚きに膨らんだ。


 「どうしたの、由美さん」
 由美の表情の変化に、早苗は覗き込むように聞いた。
 「ひょっとして早苗さんのいうサークルって、そこのビルにある【華の会】の事?」
 「え!!たぶんそうかもしれない。アタシもちょうど探してるところだったのよ…でも何で」
 「凄い偶然!私もそこの生徒なのよ」
 「えっ、本当に!」
 想定外の言葉に、早苗は目を丸くして驚いた。


 「じゃあ、早苗さん、一緒に行きましょうよ。私が講師(せんせい)とか紹介してあげるから」
 「ええ、はい…」
 まるで恋人のように腕を絡めてくる由美の勢いに、早苗は苦笑いを浮かべながら相づちを打っていた。そして、促されるままビルの入り口に向かった。


 部屋の様子はどこから見ても、ごく普通のカルチャースクールのようだった。受け付けこそ人手不足なのか無人で呼び鈴があるだけだったが、由美とそこを通り、奥に広がった光景は3、4人が一つのグループになってそれぞれがフラワーアレンジメントに取り組んでいる姿だった。
 ざっと見渡した感じでは確かに女性だけの教室のようで、丸テーブルの間を講師らしい60歳位の女性が声を掛けながら歩いている。
 部屋の所々からは、由美を見つけた者が声を掛けたり、手を上げたりして挨拶をする姿も見える。
 早苗は肝心の真知子の姿を探そうと、首を振った時だった。奥のドアから真知子が現れた。セーターの上にエプロンを着けてきたようだ。


 「早苗さん、こちらに来て」
 由美の声に振り向く早苗に、講師の女性が近づいてきた。
 早苗は講師と挨拶を交わし、一日体験を許された。この講師の気さくな雰囲気からも、明るさに包まれた教室のようだ。早苗は由美にロッカーに連れて行ってもらい、エプロンの一つを借り受けた。
 部屋に戻ると、真知子はテーブルの一つに腰を降ろしている。そこのテーブルからは早くも明るい声が聞こえてくる。早苗はどこか拍子抜けする感じなのだが、それでも目を凝らして辺りを注視した。


 早苗はグループの一つに仲間入りさせてもらったが、真知子は背中側のテーブルにいる。
 部屋には丸テーブルが6つで、それぞれに3、4人の生徒だから20人前後はいるのだろう。早苗の前には他の生徒と同じような、小さな花器が置かれている。テーブルの中央に置かれた花束を真似て創作する課題で、教室は全体的に和やかな雰囲気で進んでいるようだった。


 早苗は見よう見まねで花をいじるわけだが、当然真知子の事が気になってしまう。隣の由美は手元を動かしながら、適当に周りとお喋りも楽しんでいる。けれど、真知子とは口を聞く気配はない。20人ほどの生徒がいるわけだから、気が合う者もいれば喋った事の無い者もいるだろう。その真知子はテーブルの仲間と、適当に話をしている様子だ。
 早苗は想像していたものとは違う雰囲気に、少しの戸惑いがあった。また、駅で偶然に敏男と会った上に、数日前の大塚の車に乗った所を見られた事、それに何年ぶりかで由美と会った事、そんな突発的な出来事にペースを狂わされていたのかも知れない。


 それから30分ほどが経った頃だった。
 「では皆さん、この後は自由研究にしましょう」
 講師の言葉に、所々でホッと一息抜けた様子だ。
 トイレに立つ者がいたり、スマホを手にする者がいたり、教室は小休止に入った感じだ。
 さて、自分はどのようにしようかと気を入れ直したところで、後ろを見れば真知子は4、5人と連れだって奥の方へと向かっている。
 その時、由美が近づいて来て小声で囁いた。
 「早苗さん、この後は自由時間みたいなものよ。真面目に自由研究をする人達もいるけど、殆どの人は世間話なのかな。私は殆どがお喋りよ」
 そう言ってペロッと舌を出す由美にさりげなく聞いてみた。
 「あっちの奥は、個室でもあるの?」
 「ああ、あっちは…」
 「向こうに行かれたグループはどういう感じなんですかね」
 「大塚さん達ね..“あっち”は、ウフフ…」
 その時、由美の笑いを遮(さえぎ)るように、講師の女性が声を掛けてきた。手にはアンケートのような物を持っている。立場上、教室についての説明を聞くのがマナーかと、改めて講師に礼を言って頭を下げたのだった。


 講師の説明や勧誘は10分位で終わり、時計を見れば教室の残り時間もあと少しだ。
 「あの、講師(せんせい)、皆さんの自由研究を見て回ってもよろしいですか」
 早苗は講師の了解のもと、テーブルを見て廻る事にした。まさにここからが、ここに来た目的の一歩なのだと、自分に気合いを入れるつもりで。
 耳を傾ければ皆、花の話題より世間話に夢中といった感じで、この部屋に“怪しい”ものは無いと判断して、早苗は真知子がいるはずの奥の部屋に向かう事にした。


 先程の由美の笑いが気になってはいたが、早苗は後方の扉へと向かった。ゆっくりドアを開けてみると、そこからまた内廊下が続いていた。建物全体が細長い作りになっているのか、狭い廊下を突き当たりまで行ってみる事にした。ここまで来ると教室の声は全く聞こえない。ちょっとした無気味さを感じるのだが、早苗は使命感に言い聞かせ、突き当たりのドアをノックした。
 返事がないので、自分からドアを開けてみた。「失礼します」と挨拶しながら中を覗き込んで見れば、見えたのは中央で椅子に腰掛ける二人の女性と、それを囲むように立つ4人の女性の姿だった。4人の中には真知子の顔を見ることが出来る。
 その瞬間、一斉に向かってきた視線にドキリとした。

 「あっあの、どちら様でしょう“こちら”に何かご用でしょうか?」
 怖々放たれた女性の言葉に、早苗も緊張を覚えながらも「あの、一日体験の者です。講師の先生から見学を許されまして、こちらを見に来ました…」と、何とか言葉をぶつけてみた。
 見れば、早苗に声を掛けた女性が困惑顔だ。椅子に座る女性は緊張の面持ちで、その女性達を背に真知子達が顔を合わせて小声で話し始めた。


 やがて「すいません。お名前は何でしょうか」
 振り向いた女性の質問に一瞬本名をどうしようかと考えた。が、「渋谷早苗と申します」と正直に伝えていた…当然、真知子の表情を気にしながらだ。
 真知子は4人の内の一人だったが“渋谷早苗”と言う名前に反応を示す事はなかった。自分の夫の元同僚の事など忘れているのだろうと…勿論、忘れてもらっている方が今はよいのだが。
 気付けば女性の一人が電話をかけている。雰囲気からは、早苗の見学について伺いをたてているようだ。


 少しして…。
 「渋谷さん、それではどうぞ。特別に貴女の見学を認めます。そこの椅子に座って下さい」
 「は、はい」
 女性が電話で誰に了解を得たのかは気になったが、早苗は小さく返事をして、壁沿いの椅子に腰掛けた。


 「では目白さんに田端さん、続けます。今日は神聖な集まりですから、初めに心を清める為にこの聖水を飲みましょう」
 見れば真知子ともう一人の女性が盆にグラスを乗せて、中央に座る二人の女性に持っていく。早苗の場所からは、どこにでも見かける普通のコップに見えたのだが。
 「さあ、一気にそちらを飲み干してくださいね」
 女の言葉に二人は一瞬躊躇した素振りを見せながらも、飲み干していく。早苗の口は「あれは一体…」と小さく呟(つぶや)いた。


 「では、目白さんに、田端さん、貴女方からは事前にアンケートを頂いておりましたね。改まって今から質問をさせて頂きますが、アンケートの答えと違っても構いません。今の正直な気持ちで答えて下さい」
 女の言葉に椅子に座る女性達の背筋が、すっと伸びた気がした。
 いつの間にか、真知子と他の女性が、部屋の全ての窓にカーテンを引いている。
 「では、質問を始めます。質問には目白さん、田端さんの順番で答えて下さい」
 「・・・・・・」


 重々しい雰囲気で始まった質問だったが、その内容と言えば拍子抜けするものであった。最初に名前と年齢に家族構成を聞かれた後は、趣味や好きな食べ物、好きな歌のジャンル、そんなものだ。部屋の空気は宗教の儀式のように感じる事も出来るのだが、どこか幼稚っぽく思えてきたところで、二人の女性の背中ががモゾモゾと蠢(うごめ)き出した気がした。身体が何かに急かされるように、今にも立ち上がり出しそうに見えるのだ。


 「さぁ続けましょう。次の質問です。好きな色とその好きな理由を教えて下さい。はい、目白さん」
 「ああ…はい、好きな色は紫です。理由は私が欲求不満で嫌らしい事をしたくてしたくてたまらないからです」目白と呼ばれた何処にでも見かける熟年女性が、目を輝かせながらそう答えた。
 「はい、私の好きな色はピンク色です。理由は、この熟れた身体をメチャクチャにしてもらいたいからです」田端と呼ばれたごく普通の主婦に見える女性の口からも、とんでもない言葉が吐き出された。
 「今のは何なの!?」早苗は二人の女性のその言葉に耳を疑った。


 「はい、そうなのです。欲求不満でエッチな事を我慢していたのは貴女だけじゃなんですよ。隣の人も好き者なのですよ。安心してくださいね」
 そう告げた女の声に、早苗は自身の身体が石のように固まっていくのを感じた。
 その時、後方の扉が静かに開かれた。入ってきたのは3人の男だった。


 「皆さんは、御主人とのセックスに満足していますか。他の男性とセックスしたいと思った事はありませんか。年下の若い男とセックスしたいと思いませんか」
 女から矢継ぎ早に聞かれる質問に、女達は腰を浮かせながら答えていた。早苗は唖然としたまま、その様子を眺めるだけだった…。




 敏男は時計を見た。
 早苗と“あの女性(ひと)”が雑居ビルの階段を登って行く姿を見届けてから、いつの間にか2時間近くが経っている。
 頭の中は整理がつかないままだが、幾つかの想像は働いていた。筆下ろしの相手をしてくれたであろうあの女性と早苗は、幼なじみ…いや、それではさすがに記憶に無いだろうから、高校辺りの同級生か…いや違う。それならもっと砕けた笑いが起こっても良かったのではと…。そうなると、何かで知り合ったママ友ではないかと、やっと自分なりの結論にたどり着いたところだった。
 まさか早苗は、昔の知り合いから今は売春紛いの事をしているとは告白されていないだろうかと、敏男は一人でそんな事を心配しながら時間を潰していたのだ。


 早苗達が向かったのが、ビルの中のどの部屋かは確認出来ないが、袖看板を上から見ていくと【華の会】…そこが妥当なのかと考えた。早苗に花の趣味があったかどうかと思い返しても、何度もお邪魔した家でもそれらしい物は見た事がなかったし、優作からも聞いた記憶もなかった。それと、敏男は早苗がこの辺りに来た理由を、ヌケサクこと大塚晋作と関係があると踏んでいた自分の勘が外れた事に、少しの残念な気持ちと、新たに“あの女性”が出現した事に、怪しいトキメキを覚えていたのも事実だった。


 ビルからは何人かのおばさん連中が出てきていた。敏男は早苗達の姿を期待して待ったのだが、待てど現れる気配も無く。まさか裏口でもあって、そこから帰ってしまっているのかと、そんな考えも頭を過り、結局帰る事にした。
 駅まで戻った時だった。携帯が鳴った。
 『敏男か~?俺、優作』
 敏男は直ぐに電話に出ていた。どうやら予備校を休んだのが、本当に病気が原因かと心配してくれての事だった。まさか“女”を買って、その後に偶然お前の母さんと会って後を尾(つ)けた…などと言えず、適当に休んだ言い訳をしながらも、頭の中ではゴメンと何度か繰り返していた。


 『そうだ、敏男。体調が悪いんじゃなかったら久しぶりに家(うち)に晩めしでも食いに来いよ。母さんとも全然会ってないだろ』
 優作の弾む言葉に、敏男はもう一度心の中で謝った。そして一瞬考えて…。
 「そ、そうか…じゃあ久しぶりにお邪魔しようかな…」
 結局そう告げ、親友の明るい笑い声を聞いて電話を切ったのだった…。