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第4話
「はい、気をつけて帰ってね」
早苗はそう言って、その日最後の子供、小学5年生の女の子を送り出した。
新学期が始まってまだ1か月近くだから、しばらくは不規則な時間になるだろうと思いながらも、真面目に来てくれる生徒がいる限りは頑張らねばと思った。
息子の優作が小学5年の時だった。昔取った杵柄(きねづか)で、我が子の勉強をみるようになって、そこにクラスの大久保敏男君が加わり始めてから口コミで広がっていった。お母さん先生というのも保護者に受けが良かったのかもしれない。月謝を払うという親もいたが、あくまでもボランティアにこだわった。教師の在り方にはどんな時でも尊重の気持ちを持っているつもりだったが、それでもいつしか情熱に欠ける教師の姿が目に付くようになっていた。そんな気持ちが今もこのボランティアが続く理由だと思っていた。
時々小さなこの勉強会が、教師をバカにしてる事にならないかと考える事はあったが、そんな気持ちを正直にぶつけられる仲間も近くにはいなかった。そんなある時、優作が高校に上がる時に昔の同僚が戻ってきた。以前、別の町の小学校で一緒に苦楽を共にした大塚晋作(オオツカ シンサク)だった。
大塚晋作とは妙な縁を感じていた。結婚して子供が出来て、新築を買ったこの町の小学校に大塚がいた。そして優作の担任になった事だった。もう一つは、同じ小学校に勤務していた時に、ともに師事したのが、当時教頭だった神田幸春(カンダ ユキハル)先生だった。ゆくゆくは校長に教育委員会にと噂されていた人だが、異動を何度と繰り返しているうちに、辞めたと耳にした。電話も繋がらなくなり、年賀状も届かなくなり、いつしか教育の在り方に嫌気がさして辞めただとか、教え子の母親と不謹慎な関係をもってそれが奥さんに見つかった…等と好き勝手な噂が広がっていた。味方も多いが敵も多いタイプだとは、聞いていた。
早苗は珈琲を煎れてイスに腰かけた。
ここ数日、手が空くと必ず頭に浮かぶ事がある。大塚の事だった。
最初、スーパーで声を掛けられた時は驚いた。そのままお茶を誘われた時は身構えてしまった。単身赴任とはいえ、夫を持つ身で他の男性とお茶などとは周りの目を気にしたからだ。
けれど、席について『実は待っていた』と言われた時は更に驚いた。そして……..“あんな事”を聞かされるとは………。
早苗はスマホを取り出して、その番号を表示した。登録名は【ヌケサク】。
その後、電話があった時も驚いた。
その電話で、この人の心配は本気だと感じた。そしてもう一度こちらから確認したのは、『なぜ、アタシなのか』という事だった。
大塚は『君が頼りなんだ』と、すがるような言い方をしてきた。気づけば早苗は、根負けするように約束していた。そして、外では人目が気になると、自宅で打ち合わせをする事にした。教師と元教師…それに息子の恩師となれば、誰かに見られたとしても説明がつくと思った。けれど時間は夜にした。あの日は、優作も帰りが遅くなると言っていたのだ。
あの夜、会って細かい事柄まで確認する事が出来た。勿論、大塚の悩みも理解したつもりだった。
3日後、大塚の車で出掛ける事になった。一度、“ソコ”を見ておこうと思ったからだ。夜中にしたのは、当然人の目が気になるからで、優作の事も気になったが、本人は浪人生になってから夜は早く寝るようになっていた….。
早苗はいったんスマホを閉じると、いつものスーパーに買い物に出かける事にした。
一通り買い物を済ませると、ファーストフードの店に行ってみた。
珈琲を頼み、一口飲んでスマホを取り出してみる。ネットに接続して、あの夜、車の中で大塚から聞かされた“その名前”を検索した。
【華の会】・・・と、打ってみる。
画面上にはいくつかの候補が並ぶが、すぐにそれは見つかった。目的のそのサイトは、生け花やフラワーアレンジの教室のような感じだった。
けれど、大塚によればコレが“隠れ蓑”という事だ。確かにそれを入り口に誘い込み、洗脳し、心を惑わし、蟻地獄に引き込む。よくある手口だと思った。しかし、早苗にしてみれば自分には絶対ありえないと自信があった。大塚は『そんな人ほど危ないんだよ』と言ったが、昔から自分の事を“染まらないタイプ”だと疑わなかった。そんな早苗だから、大塚も依頼したのだろうが………。
ふーっと息を吐いて、私なら大丈夫、上手くやれるわと、頭の中でそんな言葉を繰り返してみる。
行われるのは週に1、2度。平日の昼間であったり夜中であったり。大塚の話では明日の木曜日が“その日”と言っていた。
早苗はふと、今しがた買ったばかりの色つきのサングラスに目をやった。どこで誰に見られるか分からない。そんな事を考えると急に、武者震いが湧いてきた……。
そして木曜日。
少し早いが家を出た。近くのコンビニにタクシーを呼び、それに乗り込んだ。行き先はとある駅だった。大塚からは『いくらでも遠慮せずにタクシーを使ってくれ。当然金は払うから』と言われていたし、日当も払うと言われていたが、それは丁寧に断った。金銭まで受け取ってしまうと、仕事として責任を感じてしまうからだった。大塚が責任を追求する事はないと思えたが。
タクシーが走り出すと、用意していたサングラスをかけてみた。前のミラーを覗けば、あまりにも似合わない自分がいる。
そのまま背もたれに背中を預けて目を閉じれば、車の揺れに弾けるように、これまでの大塚の言葉が頭の中を飛び交った。
『妻の真知子(マチコ)の様子が変なんだ』
『携帯を見てしまった。どうしても知りたくて』
『俺達に子供がいないのが原因かも』
『やばい宗教かもしれない』
『会員は女性だけみたい。なぜ、ごく普通の主婦が….』
『夜に出かけて泊りの時もある』
『尾(つ)けてみた。怪しい気配がする….』
『裏で何かやってる。間違いない….』
『心配で心配で』
『頼む!君だけしか頼める人がいないんだ』
『頼む、早苗先生!!』
その瞬間、ハッと飛び起きた。
おきた勢いでサングラスがズレ落ちそうになっていた。
早苗は目元に手をやり、窓から外を見上げてみた。
気がつけばスマホのランプが光っている。見れば“ヌケサク”からのメールだ。
《早苗先生、何卒よろしくお願いいたします》
早苗はその短い一文を見つめながら、唇をキュッと噛み締めた。
駅には予定より1時間近くも早く着いてしまった。目的の場所はここから歩いて5分ほど。一昨日の夜、大塚の車から確認しているから間違いはない。
お気に入りのバックを開けて、大塚から貰っていた地図を取り出してみる。丁寧に駅と目的地、それに目印になる店や交差点にまで赤い丸印が付いてある。それを覗きこもうとしてサングラスを外した時だった。
「おばさん」
その声に飛び上がって驚いた。
「と、敏男くん!!」
目の前にいたのは、どこからどう見ても息子の一番の友達、大久保敏男だ。
早苗は心の中で、よりによってと呟きながら「敏男君、どうしたのこんな所で…あれ!?予備校は….」と、聞いてみた。
「あはは、今日はさぼり……..うん」
さほど悪い事をしている様子も見せず、けれどバツが悪そうに敏男は頭をかいている。
「おばさん、久しぶりだね。卒業式以来かな。でも、こんな所で何してたの」
敏男が普段からの人の好(よ)さそうな顔のまま聞いてきた。
「えっ、ええ…….今日はちょっと買い物に…」
早苗は呟くように告げて、手に持った地図をコソコソとバッグに仕舞おうとした。
「ふ~ん、そうなんだ….」
「ええ、それで敏男君は予備校をサボって、こんなに所で何してたの、ひょっとして彼女?」
敏男の痛いところを突いたつもりだったが、早苗の顔はまだ引きつっている。
「へへへ、まぁいいじゃないの…それより買い物は終わったの?」さっき“買った”女を思い返しながらも聞いてみた。
「・・・・・・」
早苗の頭の中はこの状況をどうしようかと働いた。が、「おばさん、時間があるんだったらお茶でもしようよ」と、間髪いれずに詰めよってくる敏男の強引さに身体は強張ってしまっていた。
早苗の沈黙を了解ととって、敏男は店を探すためにクルクル顔を振り始めた。その背中を見ながら、そっと時計を見た。大塚の話によると奥さんの真知子がこの駅に到着するのは、1時間ほど先のはずだ。早苗は仕方なしに敏男に付き合う事にした。
カフェの一つに入って、窓際の席に座った。敏男が選んだ店のこの席からは、駅の改札辺りが良く見える。反対側の改札なら仕方ないが、真知子が向かう目的の場所にはこちらの改札が近いはずだった。
座ってからせわしなく外に目を向ける早苗の顔を、覗き込むように敏男が聞いてきた。
「あの~おばさんさぁ、変な事聞くけど、優作のお父さんって単身赴任から帰って来たの」
「へッ!?」
いきなりの予期せぬ質問に驚いた。
「と、敏男君…今何て言った….」
「え、優作のお父さん、帰ってきたのって」
「どうしてそんな事聞くの….」
「いや、この間、見かけた気がしたから」
「え!…い、いつ、何処でよ」
早苗は乗り出しそうになる気持ちを抑えて、聞いていた。
「えっ、いや、その…学校の近くのコンビニの駐車場で…」
「そ、それって…」
「ついこの間の夜中。偶然、小学校の近くのコンビニに行ったんよ。そしたらおばさんに良く似た人が車の助手席に乗ってて….。隣は良く見えなかったけど男の人だったからてっきり….」
「そ、それは、人違いじゃ….」
「・・・・・・・・・」
早苗はなんとか話題を変えようとして、予備校の事などを話し出した。時おり時計を見たり、改札口の様子を探りながらだ。
敏男は敏男で相づちをうちながらも、早苗の言葉が浮ついている感じを受けていた。いつしか、ひょっとしたらと、ある疑心が浮かんできた。おばさんはこの後、“男”ーーヌケサクと会うのではないのかと。
店に入ってどの位たった頃だったか。
「敏男君、ごめん。おばさん、これから約束があるんだ。又、家の方に来て」
そう言って早苗は伝票をつかんで立ち上がった。
「あの、おばさん、俺、もうちょっとココにいてもいいかな」
「へっ!?」
早苗は一瞬焦り、考えたが。
「えっ、ええ…いいわよ….」
敏男は強ばる早苗の顔を見ながら、軽く頭を下げたのだった。
さて。
敏男は早苗が駅に向かう後ろ姿を確認して店を出た。
早苗は一度も振り向く事なく、売店の横まで進んだ。時間を確認して、それからバッグから地図を取り出してみる。
敏男に会った事はアクシンデントであったが、気を取り直して改札辺りを注視した。
大塚の妻の真知子が週に1、2度通い、泊まりの時もあるという“その”サークル…いや、今の段階ではサークルと呼んでいいのか…、とにかく怪しげな匂いのするその“会”がここから歩いて5、6分の所にある。真知子がそこに通っている事実…それはもう大塚が確認済みなのだが、その実態を調べる為に自分はいるのだと。早苗は大塚がつかんだ情報ーーこの駅への到着時刻ーーその時が近づくにつれ緊張が高鳴った。
早苗はスマホを開き、保存してあるその写真を見た。大塚に送ってもらっていた真知子の顔と全体を写した写真だ。真知子とはかなり前に何度か会った事があったが、その容姿などは殆ど記憶に残っていなかった。身長は自分と同じ位と聞いていたので163cmかと。
写真は昨年に撮ったものだと聞かされた物で、画像の中の女性は年相応の落ち着いた感じがする。
やがて、ほぼ時間通りに到着した電車に、早苗の緊張は更に高まったが。
(アタシなら上手くやれるわ)
そう心の中で自分に気合いを入れたちょうどその時、改札にそれらしい姿が現れた。
「うん。間違いないわ、真知子さんだわ」
久しぶりに目にする真知子は、思ったよりふっくらした感じだ。髪型は写真の通りでストレートの髪は肩より少し長く、服装は春物のセーターに下はジーンズっぽいパンツ姿だ。
大塚も真知子を尾行しながら、ビルまでは行ける事が出来たと言っていたが、その時の格好も普段着だったと。そして、そのビルにある“会”の会場は女性しか入れなかったと….。
そんな大塚とのやり取りを思い出しながら、早苗は適当な距離をおいて、真知子の姿を追いかけた。
駅から5、6分歩いた頃だったか、目に付く風景が慣れないものへと変わっていた。夜と昼とでは雰囲気が随分と違う感じだ。
真知子はいつの間にか、バッグから日傘を取り出している。確かにここ数日は紫外線を気にする天候なのだ。
真知子は傘で顔を覆いながら歩き、止まったのは薄汚れたビルの前だった。
早苗は距離をおいて足を止め、そのビルを見た。袖看板の一つに【華の会】と、見る事が出来る。
間違いないと頷いて、そばの電柱の後ろへと身を寄せた。真知子は狭い階段を上ろうとしている。
敏男は早苗の後を気付かれぬように、ここまで尾(つ)けてきた。その目は遠目に、電柱の影から雑居ビルを見つめる早苗の姿を確認する事が出来る。この辺りは、数時間前にいた、あの“レンタルルーム”のすぐそばだ。
尾行は容易(たやすい)ものだったが、途中で早苗がサングラスを掛けた時には、後ろめたい事があると確信した。やはり、“男”――大塚と密会するのかと。
向かった先が“この辺り”だった事には敏男も多少の驚きを感じていた。そして、この辺りにラブホテルかシティホテルなのか、“それ”に利用するホテルがあったのを思い出して、苦い感情の湧き上がりを覚えていた。同時に早苗に対するイメージが歪んでいくようであった。
早苗はビルを見上げている。
ちょうどその時、どこからともなく一人の女性が早苗に近づいた。
(ん!? んん、あれはまさか….)
敏男の目はその女性に釘付けになった。
真知子の姿は、既にビルの中へと消えている。
早苗の表情は、きょとんとしたものから驚きへ。そして、一瞬何かを懐かしむ顔へと。そして笑顔が広がり、何ともいえない顔へと変わっていったのだった….。