小説本文




 『そう、余った縄を前に回して…そう上手よ』
 『・・・・・・』
 『もう少しきつく…そういいわ……』
 『・・・・・・』


 縄が意識を持った生き物のように、女体を絡みとっている。


 『ねぇ、〇〇〇くん….』
 『・・・・・』
 『さあ、この格好でエッチ…しましょうか…』
 『・・・・・』
 『オマンコで…それともお尻の穴にする….』
 朱い唇が歪み、濡れた言葉が噴き零れてくる。
 清楚なはずのこの女性(ひと)の口から、こんな卑猥な言葉が聞こえるなんて….。


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 渋谷優作(シブヤ ユウサク)は母:早苗(サナエ)がヒソヒソ話をするのを初めて聞いたような気がした。知る限りでは昔から誠実で物静か、はたまた健康的に肉感的とよく言われてきた母。誰が言ったかというと前者は友人の母親連中。後者の“肉感的”とは悪友の表現だったと記憶していた。そんな“ヒソヒソ”といった後ろめたいイメージが似合わない母だったから、優作は「ただいま」を言えず廊下で足を止めたのだった。


 優作は息を止めて、ソロリソロリと片耳を曇りガラスに近づけてみた。
 父が単身赴任。今は母と子の二人暮らしだけれども、いつも明るいこの家の今夜は、奇妙な静けさに包まれていた。
 耳に微かに聞こえて来るのは相変わらずのヒソヒソ声で、優作は扉を少しぐらい開けてやろうかと、それを遊び心と自分に問いかけた。


 隙間から息を止めて覗いてみる。廊下の電気は消えているから、向こうからはシルエットにはならないだろうと一人頷いて。
 さて見えたものは、母:早苗の深刻そうな表情(かお)と、んっ?…と、どこか見覚えのある顔だった。
 (ヌケサク先生?)
 それは、優作が小学6年生の時の担任・・確か本名は大塚晋作(オオツカ シンサク)。陽気で人気者だった、その先生だけど、ちょっとピントがずれてたから、“ヌケサク先生”とアダ名されたその先生だった。


 そう言えばと。母の早苗とヌケサク先生はむかし、同じ職場だったと聞かされた事があった。早苗が優作を身ごもるまでの間だったが、ある町の小学校で同僚だったと。そして、優作が入った学校にこのヌケサク先生がいて、早苗がとても驚いたという話も思い出した。
 優作は視線の先…小さなテーブルを挟んで座る二人の間に、どこか微妙な空気が流れている…と、緊張を感じた….。


 『…誰にも見られないように….』
 『・・・・・・・』
 『・・・・・・・』
 『…気のせいじゃないかしら….』
 『…なら、いいんだけど….』
 『…尾行?….』
 『ああ….』
 『・・・・・・』
 『・・・・・・』
 『…もうこんな時間だわ』
 『ああ…悪かったね…』
 『・・・・・・・』
 『・・・・・・・』
 『ええ…けど…』
 『…うん、俺も気をつけておく….』
 『・・・・・・・』
 『・・・・・・・』


 話を終わらせたかったのは母の方だったかと、優作は早苗が腰を上げる様子に扉から身を離した。勿論、気配を殺したつもりで、そしてそのまま2階の部屋へと階段に向かった。
 部屋着に着替えると、どんな顔をして下に行こうかと…そんな事を一瞬考えながら、優作は忍び足で部屋を後にした。


 ソロリと居間のドアを開けて「ただいま~」
 「あら優作、いつの間に帰ってたの」
 そう言った母の表情(かお)はいつもの顔かと、確認するようにジリリと見つめた。


 「んん~どうかした…お母さんの顔に何かついてる?」
 「あ、いや…」
 そう呟いて、頭を巡らせて。
 「母さん、誰か来てたよね?」と、聞いてみた。
 「ああ…大塚先生が来てたのよ」
 早苗はあっさり…というか、いつもの落ち着いた声で言った。


 「大塚先生って、“ヌケサク”でしょ」
 「ええ、そうよ」
 「それじゃあ、顔を出せば良かったな」
 優作は特に不満の色も見せずに言ってみた。
 「でも、優作も浪人の身を見られるのは嫌でしょ」
 そこに来たかと、優作は大げさに首を傾げてみせて「ひょとして俺の事で話をしに来たの?」
 「ん~『優作は元気でやってますか~』って聞かれたから正直に言っといたけど…でも今日はチョッと違うのよねえ….」
 そう切り返した母の声はどこか歯切れが悪く、語尾が引っ掛かった様子も気になった。


 「ヌケサク先生は今でもソコなんでしょ」顎を振って母校の事を言ってみた。
 「ええそうよ。1回離れて2、3年前に又、戻ってきたのかな」
 「そうなんだよね。久しぶりに遊びに行ってみようかな」
 「優作が気にしないんだったら行ってらっしゃい」
 早苗がまた浪人の立場を示唆して、悪戯っぽく笑っている。優作は舌打ちを堪えて笑い返したのだった。


 自分の部屋に入って、ベッドに横になるとやっぱり気になった。メールで出来ない話だからわざわざ来たのかと。それともアドレスを知らないから来たのかと。どちらにしても電話では喋りずらい話なんだろうなと、結論づけようとして気がついた…二人はそんなに親しかったのかと….。


 一晩がたてば夕べの母の様子の事など、ころっと忘れていた。それを思い出したのは、予備校の食堂で大久保敏男(オオクボ トシオ)の顔を見た時だった。
 「よぉ、優作」
 大久保敏男はその大柄な体を揺すりながらやって来た。こいつといると身長175、体重69の俺でもガリガリに見えてしまう。そんないつもの事が頭を過りながら、優作は敏男に手を上げた。


 「カレーかよ。俺もだ」
 敏男は特盛のカレーを溢さないように、そっと優作の前に置いた。そして台布巾でテーブルを拭き直した。ガタイの割には、繊細で細かいところに気づく男だ。


 「ん~俺の顔に何かついてる?」
 敏男がスプーンを手にしながら聞いた。優作は敏男のまん丸な目をみ見た時に、母親の事を思い出していた。
 「…夕べもこんな事があったんだよなぁ….」
 「ん?」
 「ああ…いや、夕べ母さんからも聞かれたんだよ『顔に何かついてる?』って」
 「おばさんから?」
 「うん、今思い出した」
 「俺の健康的な体型を見て思い出したのかよ」
 敏男が言う健康的とはチョッと違うんだよなと一人苦笑いして、優作は曖昧に頷いてみせた。
 「で、どうしたんだ。おばさんは元気かよ。俺が今も、おばさんのファンなのは知ってるよな」
 満更でもないんだぞと得意げに、敏男はカレーを頬張りながら聞いてくる。
 「あのなぁ、お前は小学校の頃からだよな、うちの母さんのファンだっていうのわ」
 と、頬を緩めてまた思い出した。
 「そう言えば夕べ、ヌケサク先生が来たんだよ」
 「へっ、ヌケサクってあのヌケサク先生?」
 「そうそう、そうなんだよ。そのヌケサク先生が家に来てたんだよ」
 「なんで又?」
 小学校から高校、おまけに予備校まで全く同じ道を行く悪友の様子に、優作はやれやれと思いながらも夕べの母の話をしてやろうと思った。母 早苗の事になると、笑ってしまうほどムキになる悪友がそこにいるからだ。


 「大した事じゃないと思うんだけど….」
 「うんうん….」
 優作は夕べの早苗とヌケサク先生の“ひそひそ話”を教えた….。


 「ん~それは怪しいな。…うん、怪しい」
 「…怪しいって、何が?」
 「いや、よく分からんけどソレは怪しいんでないかい。昔の同僚同士とはいえ、夜中に相手の家でひそひそ話って…」
 「ん…そうなのかなぁ….」
 「たぶん切羽詰まった何かがあったんだな」
 おっとりしているように見えて、時に鋭い指摘をする敏男。こいつに言われるとヤッパリ“何か”あるんだろうかと、その気になるから不思議だ。


 「相手がヌケサクって事は、お前の事かなとも思うけど。ヒソヒソ話しだったって事は誰にも聞かれたくない何かがあるんだろうな。当然外じゃ人の目も気になるし….。たぶん、お前が留守なのを分かってて、おばさんが呼んだんだな…俺はそう思う」
 「ん~ん….」
 「…ひょっとしたらだよ、優作」
 「なんだよ改まって」
 「おばさん…ひょっとして…」
 「・・・・・・・」
 「教師に戻りたいと思ってるんじゃないかな」
 「へっ?….」


 単身赴任中の父は誰もが知る有名企業に勤めている。母が経済的な理由で働く必要はないはずだし。暇をもて余してるとしても、俺が浪人中は仕事はしないと言ってた記憶もある。それに、今でもボランティアで近所の小学生に勉強も教えているし。
 目の前の顔を見ながら、優作はもう一度首を振った。
 「教師に復帰か…でもそれはないだろな」
 「ああ、俺もそう思う。今のは冗談で言ったんだよ」
 「なんだよ、それは」
 優作の顔が呆れたと告げた時、昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。