小説本文



 
 敏男は電車に揺られていた。
 結局、早苗とあの女性(ひと)の姿をもう一度見る事なく、帰宅する事にしたのだった。この後、一旦家に寄ってから優作の所に夕飯をご馳走になりに行くのだ。これまでなら、早苗の手料理に心を踊らせながら向かったのだったが、さすがにこの日は違っていた。まず、優作を見たらどういう顔をしようかと…。それと、心配はもう一つ。早苗が自分を見てどういう反応を示すか?。駅で会ったのはあくまでも偶然という事だが、優作の前でその事を言うのか?。優作にはどう説明しようか?。そんな事を考えながらもベストの答を見つける事も出来ず。
 (俺は嘘が下手なんだよな…)
 と、弱気の顔を覗かせながら帰宅についたのだった。


 優作の家に着いたのは夜の7時頃だった。自分の家に着いてからは、行くのを止めようかとも考えたが、冷蔵庫にあった父親の缶ビールを飲んで…といっても、3口ほど飲んで後は捨てたのだが…酒の力なんぞを借りて行く事にした。
 ほろ酔い気分…ではないが、自転車を漕いで何とか着く事が出来た。


 出迎えた優作はいつもの笑顔で、今日の予備校をサボった事にハラをたててるといった素振りはこれっぽちも見せなかった。そんな優作を見つめて、改めて良い奴だと思うと、胸の奥がキュッと痛くなる気がした。


 「おい、何してんだよ。早く上がれよ」と言う、嬉しそうな声に急かされて、靴を脱いだ。しかし、「でも、母さん、まだ帰ってないんだ」
 と、部屋の電気を点けながら告げた優作の横顔は、それでもリラックスしてる感じだった。


 リビングに入り、いつものソファー、いつもの席に腰を降ろす。敏男の尻の形に嵌まった年季のいったソファーだ。


 「お、おばさん…どうしたんだろうな…」
 何気なく聞いてみた。が、語尾が震えたのが自分でも分かった。
 「ん…買い物にでも行ってるのかな…。けど、車はあるんだよな」
 一人言のように告げて、それでも優作に真剣に心配してる様子は見れなかったが。


 この夜の敏男は無口だった。優作が「やっぱりお前、具合、悪いんじゃないの」と聞いて来る度に首を振っていた。出掛けに飲んで来たビールも役に立つ気配がなく、敏男は静まった部屋の中を改めるように眺めてみた。
 敏男の家は父親と祖母しかいないが、酒飲みの父とチャキチャキの祖母に囲まれた家庭は明るかった。けれど、母親がいない寂しさはやはり特別なもので、それを気付かされたのは優作の家に来るようになってからだった。敏男は優作の家を訪ねる度に、寂しさを忘れながらも、寂しさを思い出していたのだ。


 「おっ」と、玄関の気配に優作が立ち上がった。それからしばらくすると、人の気配がした。
 リビングのドアの音に、敏男の緊張は高まったが、いざ現れた早苗の姿は疲れはてた様子だった。
 「ただいま…ごめんなさいね」
 それだけ言うのもやっとという感じで、早苗は敏男の存在にも気づかない。
 「あ…あの、おばさん、お邪魔してます…」
 顔を振るのも億劫な感じで、早苗は敏男を見るや「敏男君、来てたんだ…」と今にも崩れ落ちそうな足元でそう告げた。


 「母さん、どうしたの?具合でも悪いの」
 優作の声は健気な感じで、母親想いなのがよく分かる。
 敏男は口を聞く間もなく、早苗が廊下に出て行く姿を見送るだけだった。
 しばらくして、外食にしようと、示し合わせたように二人は出かける事にした。


 近くの中華料理屋ーー。
 二人はどこか重たそうに食事をした。優作は箸を動かしながら、時おり思い出したようにその日の授業の事を口にした。敏男は相づちを打つが、早苗の憔悴が頭から離れない。原因はあのビルの中…そしてあの女性(ひと)にあったのだと心で頷くのだ。


 「なぁ、敏男」
 食欲がないのか、優作が箸を置いて改まった。
 「今度、ヌケサク先生の所に行ってみないか」
 不意に出たその名前に、敏男は、ンっと息を飲んで「ど、どうした?」
 「ああ…うん。ちょっと前にヌケサク先生が家(うち)に来てた事…言っただろ」
 「ああ、夜中って言ってたよな」
 「うん。その時のヒソヒソ話がなんかまだ気になるんだよな…それを直接聞いてみようかなって思ったりして…」
 「ん~そうか…」
 「で、お前も一緒に行かないか?久し振りだし」


 敏男は硬い頭で考えた。まさか優作のお母さんと“何か”あるんでしょ…とは言えないが…まして優作本人の前で。けれど敏男は自分の中に蔓延(はびこ)るモヤモヤを少しでも払拭(ふっしょく)したい気持ちがあって、首を縦に振っていた。よく考えてみれば、今日の昼間はヌケサク先生はおそらく授業で、休んでまで早苗と会う時間は無かった筈だ。
 二人はそれからしばらくして、店の前で別れる事にした。


 優作は静かに鍵を開けて、家の中へと入っていった。
 母はもう寝ているだろうと決めつけて、廊下を通って自分の部屋へと真っ直ぐ上がって行った。
 浪人生になってからは朝型に変えようとして、時計を見ればもうすぐ寝る時間だ。ささっとシャワーを浴びて、部屋に戻ると直ぐに布団の中へ潜り込んだ。いつの間にか雨音が聞こえている。その音を聞きながら、目を閉じた…。


 ・・・・雨音は続いている。
 優作はふと、目を覚ました。
 父親が単身赴任…それでも明るさを失わなかったこの家の今夜は、どんより黒いマントに覆われたように暗かった。と、思い出して、優作は時計を見た。布団に入ってまだ1時間位しか経っていない。
 妙に喉が乾き、下に降りる事にした。
 キッチンで水を一杯。それだけを飲んで廊下に出た…その時。
 (母さんは大丈夫かな。ちゃんと寝てるかな)
 そんな心配が湧いて、廊下を曲がって母が寝ているであろう和室の方に行ってみる事にした。


 優作はベッド派だったが両親は布団派だった。廊下には、その和室からカーキー色の光が線となって流れるように落ちていた。
 几帳面な早苗はいつも、引戸扉をピタッと閉じていた。が、この夜は疲れのせいで閉め忘れたのか、隙間が5cmほど開いたままのようだ。
 優作はその隙間を閉じるついでに、母の様子も見ておこうと廊下を進んでみた。


 部屋は小さい灯りだけが点いていた。
 確か母親と同じ布団で寝ていたのは幼稚園の頃までだったか。自分の部屋を持たせて貰ったのは小学校に上がった頃で、それでも風の強い夜や雨音の激しい夜は母親の布団に潜り込む事があった。母は母で『大丈夫よ。大きい電気は消しても小さい電気を点けとけば、怖くないからね』と言ってた事を思い出した。その時と同じ小さな灯りだけが点いていたのだ。


 その隙間から優作の目に見えたものは母の肢体…と、布団の端に雑多に脱ぎ散らかされた衣服だった。優作はやれやれとしゃがんでみた。そこで、ンっと目を凝らしたのは、衣服に交じって乱雑に散り落ちていたのが下着だったからだ。
 黒いブラジャーと黒いショーツ。
 昔から必ず友達連中に“肉感的”と言われてきた母…その母の象徴を包み込む二つのランジェリー。


 雨音は一層激しくなっていた。遠くでは雷も鳴っている。その音に反応するように、目の前の肢体が布団を蹴って寝返った。驚きに息を飲んだのは、その肢体が一糸も身に着けていなかったからだった。
 寝息なのか呻きなのか分からないクグもった声を吐きながら、肢体が露(あらわ)になる。ムッチリした太ももと豊満な臀部。それに広い背中は、何かに耐えるように律動しているようだ。


 優作の身体は沈むようにしゃがみ込んでいった。子供くらいの背丈にまでしゃがんだ所で、5、6cm程だった隙間が優作の意思によって半分程に狭まった。その隙間からもう一度中を覗き込んだ…そう、幼い頃と同じように…。
 目の奥で、横になっていた女体は“何か”に操られるように波を打っている。見えない鞭に打たれたように、時おり痙攣に震えを起こしている…。
 その瞬間、フラッシュバック!--幼い頃に覗いた父と母のあの夜の寝室の風景。
 優作はしゃがんだ姿勢からその場に座り込んだ。そのまま尻這いで壁まで下がり、息を吐いた。そして今、頭の中には封印されていた遠い昔のその光景が甦った…。


 小学校1年生の頃だったのか。
 初めての一人寝は雨の音に不気味さを感じたのか、幼い体は暗い階段を下りて母の部屋を目指していた。
 あの夜も部屋の引戸扉は隙間が開き、中から小さい灯りが廊下に流れ落ちていた。
 優作少年が微睡(まどろ)みながら隙間の前に立ち、そっと覗いた目の前に広がった光景…。


 父も母、早苗も素っ裸だった。母親の尻がこんなに大きいと知ったのはこの時だったかもしれない。人の尻の穴を見たのは間違いなく初めてだった。四つ足を付く母親は、父親から折檻されているのかと驚いた。
 父親の手には見た事もない縄が悪者の武器のようで、それが白い身体に絡みついていた。母親の口からは呻きのような…しかし、本気で拒んでいる様にも見えず、その表情は苦悶に歪むのだが、どこか嬉しそうな表情(かお)にも見えた。


 雨音に交じって聞こえていた声は、間違いなく苦しそうであったが、時間が経つにつれて、艶めかしい叫びになっていた。優作少年はいつの間にかその場で泣き出していたのかもしれない。気が付けば、胸を露(あらわ)にしたままの母親に抱き締められていた気がする。そしてその後どうなったか…朝、起きた時は母親の布団で寝ている自分がいた。
 あの夜と同じように…いや、今は自分の足で自分の部屋に戻り、ベッドの上にいた。この記憶は本当に俺の記憶なのかと自問した。けれど、頼りない記憶なんだと言い聞かせようとして、とにかく早く寝てしまおうと思ったが…。


 目覚めは、いつもより眠気を引きずったものだった。けれど寝不足を我慢して、机に向かいノートを広げてからパソコンを立ち上げた。早朝勉強を習慣付けようと始めて、今のところ何とかこなしている。もうすぐすると、下でガサガサと母が起きるはずだ。


 「おはよう、優作。昨日はゴメンね。お母さん、なんだかクタクタで」
 下に降りた優作に向かってきたのは、いつもの明るい声…ではなく、疲れを引きずった声だった。優作は元気づけるつもりで。
 「おはよう、母さん。…うん。顔色…だいぶ良いよ…」と、あえて、そんな言葉を口にした。


 早苗は優作が予備校に出掛けたのを見届けてから、シャワーを浴びる事にした。風呂に入らず寝入った身体はベトベトだ。
 鏡に映る裸を見た時だった。頭の中に”声”が聞こえてきた。
 ーーもう若くはない。
 所詮、ただのオバサンなのだ。
 掃除、洗濯、買い物、それに子供の世話。
 大した趣味もなく、暇をもて余してるのだ。時間がある事でそれが逆にストレスになっている…。


 ーーどうすればストレスは解消される?
 何をすれば有意義な時間を過ごせる?
 何が自分を満たしてくれる?


 シャワーを出ると寝室に向かった。
 着替えを始めようとした時『時間をもて余している時は、貴女も来てごらんなさい』又、声が聞こえてきた。
 数分後、着替えをすませて家を出ようとすると、スマホが震え出した。
 【ヌケサク】という文字を確認して開いてみた。
 「・・・・・」
 見れば昨夜から、メールが数十件、未読のままだ。
 順番に開いてみる。
 (ああ…真知子さんの事…話さないと…)
 切羽詰っていた大塚の顔。それがグニャッと歪む…そんな姿が浮かび、早苗の手はメールを閉じた。


 電車に揺られていると頭が傷んで、揺れ動く景色に、いくつかの顔が脳裏を横切った。
 駅で偶然に出会った敏男の顔。
 駅から教室に向かう大塚真知子の顔。
 何年ぶりかに会った高田由美の顔。
 サークルにいた講師や生徒の顔。
 そして…真知子の..“あんな”姿ーー破廉恥な。それと、神田幸春(カンダ ユキハル)…。


 昨日の駅に着いた早苗の足は、フラフラと改札に向かった。頭の中はまだ霧がかかったようで、その隙間から昔の上司の神田幸春の姿が浮かんできた。
 不意に不安の波が寄せてくる。あの破廉恥な振る舞いとあの“快楽”に酔った女性達の姿が思い出された。
 生まれて初めて見た他人のセックス。しかも自分と変わらない歳をした女性達。世間一般には人妻、熟女などと呼ばれる彼女達のあの浅ましい姿。しかも、その相手をしていたのが、どう考えても高校生か大学生に見えた衝撃。
 足元が揺れ動いているように感じた。見れば昨日、逃げるように飛び出したビルが、すぐそこにある。
 『明日、もう一度来なさい。聞きたい事がたくさんあるだろう。すべて説明してあげよう』神田幸春の言葉が甦ってきた。
 早苗はフーっと一息吐き出し、入り口に向かって踏み出した。


 そのドアには鍵がかかっていた。早苗は、電気が消えて鍵のかかったドアを眺めてみる。
 昨日の事、あれは白昼夢ではなかったのか…と記憶を遡ろうとした時だった。
 「やはり来たな、早苗先生」
 その声に振り向いた早苗は、「あ!」と声を上げたのだった。