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第10話
校舎から子供の集団がワイワイ楽しそうに、湧き出るように姿を現した。それを見た敏男が「うおっ、懐かしい」と、顔を綻ばせた。
優作の頬にも笑みが浮かんでいる。
時刻は夕方の4時半。
月曜の授業を終えて、二人は予備校から真っ直ぐこの母校にやって来たのだ。
学校は比較的家からも近くにあったわけだが、校舎の中まで入るのは卒業してから初めてかと…。けれど、特別な感情を覚えるでなく、優作は敏男を促して足を進めた。
数日前の夜に自宅で母と話し込んでいた、ヌケサクこと大塚晋作の顔を思い浮かべてみた。恩師という言葉が浮かぶような特別な感慨はない。そして今は、母親と話していたあの夜の、あの秘密めいたやり取りを巡らせてしまう。母親に対するイメージが歪んだ原因が、これから会うヌケサクにあるのかと、敵対心のような疑念も少しあったかもしれない。
敏男は敏男で親友、優作の母親である早苗に対して、疑問を芽生えさせていた。
今時の小学校は、卒業生と言えども自由に中へは入れない。自分が子供の頃と比べると、セキュリティの意識が高くなっているのだなと、そんな時代の流れなんぞを感じながら二人は、受付と書かれた窓口に向かった。
卒業生である事を告げると、窓口のおばさんの優しそうな顔が一層微笑んでくれたりした。
「なんだか緊張するなぁ」
敏男が巨漢をブルっとさせて、首をコキコキ鳴らして背伸びをした。
「職員室の場所は変わってないんだなぁ」
一人ごちて、優作は廊下をスタスタと進んだ。
【職員室】と書かれたプレートは縦書きで、その字体は昔の頃と同じだっけかと眺めたりもした。
開いた扉からチラリと、顔を入れたのは敏男の方だった。
「おい、いる、いるわ。ヌケサク先生いるわ」
まるで、動物園で目当てにしていた珍獣でも見つけたかのように、敏男がソワソワと身体を揺すっている。そんな熊のような巨体の横で、優作はヤレヤレと肩をすくめながら苦笑いした。
一歩入って遠目に見えたのは、机に向かい、書き物をしているヌケサクの横顔だった。
(そうそう、あの夜の横顔もこんなだったな)
優作は一人頷きながら、足を踏み出した。
「こんにちは、ヌケサク先生」
声を掛けたのは敏男だった。
チラリと振り向いたその横顔に、やはり老けたな…と感じたのは二人同時で、こちらに向く目元にはクッキリとしたシワが見え、頬っぺたも記憶よりも弛んで見えた。けれど「オオッ」と上がった大塚の嬉しそうな声と、眼鏡の奥で広がった瞳は、二人に昔のままの優しい雰囲気を思い出させた。
「大久保敏男に…」と、後ろに聳え立つ巨漢を優しげに見上げた瞳が、次に優作を見ると一つ静かに頷き「渋谷…優作か」と、確かめるように呟いた。
「先生久しぶり。元気にしてました?」
敏男の大きな声に、方々で先生方の和やかな声が上がった。
大塚が敏男の肩を「大きくなったなぁ、元気か」と叩き、それに敏男が頭を掻く。そのほのぼのとした様子を見ながら、優作の頭は、さてどうしようかと考える。まさか、他の先生方がいるこの場所で“核心”を探るわけにはいかないだろうと。
結局、大塚とじっくり話が出来たのは15分ほど経った後の、空いた教室の一つでだった。
優作が、相談があるんですと、神妙な顔つきで話し掛けた様子に、若者の悩みにアドバイスの一つでもする気になってくれたのか、あっさりと時間を割いてくれたのだ。
大塚が椅子の一つに腰を下ろすのを見て、二人もその小さな椅子に腰掛けた。敏男が座った椅子が重みで壊れないか、優作はそんな事を真剣に心配しながら自分も腰かけた。
「あの…先生、実は…何日か前に家(うち)に来ましたよね」
「・・・・・・」
大塚はいきなりの質問にも、視線をシッカリ受け止め、慌てた素振りなどこれっぽちも見せる事なく「ああ、うん、いつだったかな…君のお母さん…早苗先生に相談があってね、お邪魔させてもらったよ」
「・・・・・・・」
「君は何処かに寄り道でもしてたのか、いなかったかよね」
「・・・・・・・」
すらすら出た歯切れの良い声と言葉に、優作は黙ったまま頷き返す。
「で、それがどうかしたのかい?」
優作は静かに頷いて「ええ、実は、その頃からお母さん…いや、母の様子が少しおかしくなって。それでちょっと気になってて…。原因を考えてたら、大塚先生との話の中に何かあったのかなと…」
「・・・・・・・」
二人が話始めた横で、敏男は大塚の口元をじっと見つめていた。その敏男の目付きは珍しく鋭さを増している。
小学校の頃の、優しくおおらかな恩師のイメージも、確かに今もそう変わらないと思ったが、“裏”では教え子の母親と不倫でも働いているのではないかと、そう思って見つめてみると、温厚な顔は仮面なのだろうかと、そんな考えが浮かんでしまう。そして、この男の唇と早苗の唇が重なる姿を想像すると、敏男の心には暗い炎が上がるようだった。
「そうなのかい、それはちょっと心配だねぇ」
「・・・・・・・」
(何が『心配だねぇ』だよ)
優作に向かう声にも、敏男は大塚の顔を冷たく見下ろしながら、頬の歪みを自覚した。
「それで、あの日の夜は何の話をしに来てたんですか」
「・・・・・・・」
(お前の母さんと乳くりあいに来たんじゃないのかよ)
敏男は又、心の中で呟いた。
大塚は一瞬黙り込んだ。けれど直ぐに「うん、実はね」と、一つ改まって、「君らはもう、大人だよね」と小さく呟いてから、二人の顔を交互に覗いてみた。
「・・・・・・」
「実は僕の妻…数ヵ月前から少し様子がおかしくてね…。本人に訪ねても、どこか心を開じてしまった感じでね…。それで誰か、相談出来る人がいないかなと考えたら、浮かんだのが君のお母さんだったんだよ」
そこで一息付いて、大塚が優作に頷き掛ける。
「君らも知ってる通り、僕と早苗先生は昔、同じ小学校で教師をやっててね。わりと気心が知れる仲だったから、思いきって相談を掛けてみたんだよ」
あっさりと一気に話した大塚の様子に、優作は自然と頷いた。
「そうだったんですか。…でも…それで、先生の奥さんの事は解決したんですか」
優作の言葉と声には、納得と純粋の思いやりが込められている。と、敏男は思った。しかし…。
(優作…嘘だよ。嘘じゃないのかよ…。もっと突っ込んで聞いてみろよ)
敏男は唇を噛み締めながら、心の中で何度も言い聞かせてみた。
「いや、まぁ…うん。まだ…なんだけど…」
大塚のどこか沈んだ声に、優作はもう一度申し訳なさそうに頷いて「そうなのですか…」と頭を垂れた。
「ああ、でもコッチの事は、君達は心配しなくていいよ、大丈夫だから。それより、早苗先生はそんなに元気がないのかい?」
「えっ、ああ…でも、大丈夫ですよ…うん…」
優作が自分に言い聞かせるように頷いた。
(ゆ、優作…バカ。なんでそんな気を使うんだよ。オバサンの様子はずっと変なんだろ…)
と、敏男はそんな考えを浮かべたが、直ぐに…。
(でも…まてよ。優作の心配事が何処かに行ってくれたら)
そう考えた時、敏男は自分の身体の奥に黒い何かが湧き出るのを意識した。
「早苗先生も、優作君がちゃんと大学に行ってくれると少しはホッと出来るよ」
そう告げ、大塚がにっこり笑って見せた。その顔には、この場の話題に付いてはもう心配するな、それよりシッカリ勉強しろと言う教師特有のエールが込められていた。優作はそんな恩師の気持ちを察してか、頷いて見せた。そして、スッと隣の敏男に同意を求めるように視線を向けてみた。
「あ、ああ…そうだな」
と、巨漢がモゾモゾ頷いた。
校舎を出た二人は、気の向くままに歩いていた。
「優作よぉ、あれで良かったのかよ?納得出来たのか?」
「ん、ん~。まぁ、そうだな。ヌケサク先生の言うとおり、俺が予備校できちんと勉強してるか、それが一番の心配の種なのかな」
「・・・・・・」
「とにかく俺達は、真面目に勉強する事だよ」
どこか吹っ切ったような優作の横顔を見ながら、敏男の頭には何とも言えない気持ちが湧いてきた。同意する気持ちもあるのだが、親友優作を何処かでめでたい奴だと見下ろすような気持ちが芽生え始めていたのだ。
そこからしばらく歩いた時だった。
「優作、ちょっと用事を思い出したわ。悪いけど今日はここで」
急にそう口にした敏男の様子に、「ああ、うん…」と、軽いとまどいを表した優作だったが、二人はそこで別れる事にした。
敏男は優作と別れると、振り向く事なく再び学校へと足を進めた。ヌケサクが帰る前にもう一度と、念を送るようにだ。
敏男は職員室の奥にヌケサクの姿を見つけると、荒い息を静かに吐き出した。
その巨漢を見つけた大塚が、僅かに驚きの表情を現した。しかし、人の良さそうな顔のまま近づいて来て。
「どうしたんだい、忘れもの?あれ、渋谷は帰ったの?」
「…えっ、ええ…実は」
強ばった表情(かお)で、敏男が頷く。
「ヌケサク先生さぁ…」
「・・・・・・・・・」
「あのさぁ…さっきの続きになるんだけど、本当は…」
と、その言葉の途中で、腹の下の方で冷たいものが落ちて行くのを意識した。俺は…親友の母親を“物”にするために、この恩師の弱味を握ろうとしている…と。
「ん、どうしたんだい、敏男君」
「あの…先生、もう帰る処なんでしょ。その…送ってくんないかな」
「は?」
教え子の思い付きにも、さほど気にする様子もなく、大塚は敏男を自分の車に乗せてくれたのだった。
大塚も敏男の家がこの学区内にあるのだから、大した距離でないのは分かっていながらも、気安く乗せてくれた。
久々の再会に、恩師が喜んで乗せてくれたとしたら、胸に痛みの一つも湧くのだろうが、今の敏男にはそんな余裕などこれっぽちも無かった。
「先生さぁ…」
車が校門を出ると直ぐに、敏男が話し掛けた。
「優作の母さんと夜中に出掛けたりしてるでしょ」
一息に、勢いに乗せて口に出してみた。
「え!?」
瞬間、ハンドルを握る大塚の身体が強張った、気がした。
「俺、見たんだよ。優作の母さんを乗せてホテル街を走るヌケサク先生の車を」
「・・・・・・・」
「あの…しゃ、写真も撮ってあるんだよ…」
「・・・・・・」
「けっこうバッチリ写ってるんだから」
敏男の嘘だった。夜中のコンビニの駐車場で、早苗が誰かの車に乗った所を見たのは本当だったが、運転手の顔は見えなかったし、ましてそこから何処に行って、何をしたかなどは想像の世界でしかなかった。勿論、写真なども撮っていない。けれど、あのレンタルルームがあるあの界隈にいくつかあったホテル郡を思い出して、空想の世界を広げ、敏男は言ってみたのだ。どこかに遊び心があった事は間違いなかったが、それでも大塚には響くものがあるだろうと、どこかに確信めいたものがあったのかも知れない。
「…敏男…君、それは本当の事…」
大塚の震えた声に、敏男は逆にドキリとした。まさか、今の俺の言葉が当たっていたのかと。
「えっ、ええ。ほ、本当ですよ。写真だってちゃんと保存してるんだから」
車はいつの間にか同じ所を回っていた。大塚の横顔は澄ましているようにも見えたが、その頬は震えているようにも見える。それを眺める敏男には、どこか余裕のようなものが生まれてきた。
「そ、それで…敏男君は、その事を渋谷には…」
「へへ、大丈夫ですよ。優作には言ってませんから」
「そ、そうかい…それで、君は…」
敏男はヌケサクが言い訳めいた事を口にしない事に、少しの疑問が湧いたが、あてずっぽで言った事がビンゴだったのかと、自分の運の良さに身体が震えてきた。
(さ、さて…ど、どうしようか)
と、心で考えた時、何故か上野の顔が浮かんできた。あいつならきっと良いアイデア…いや、良い料理方法を思い付くだろうと…。
車は宛もなく走り続けた。
ハンドルを握る大塚の顔は強ばっている。
助手席に座る敏男の顔は、黒い企みに醜く歪んでいた…。