小説本文




 敏男が上野と再び会ったのは、居酒屋で優作と遭遇してから1週間後だった。
 あれ以降、優作と敏男の間には微妙な温度があった。


 「今日は渋谷は来ないのかよ」
 その店の席で、上野がどこか楽しげに敏男に訊いてきた。


 「バ、バカ、来るわけないだろ!それに店に入る時も回りに注意もしたし」
 「へへ、分かってるって、そんなにムキになるなよ」
 上野のひねた笑い顔。敏男は怒ってみせたが、心には不安も感じていた。個室を選んだのも、念を入れての事だった。


 「で、その、優作の母さんの事だけどさ…どうなのよ、おもしろいアイデアがあるんだろ?」
 目の前のグラスを手に取りながら、敏男は聞いた。
 「ああ…まぁ色々考えてたんだけどよ」
 思わせ振りな笑みを浮かべて、上野がジョッキを口に運ぶ。
 「それで…どんな…」
 「ん~っとなぁ…薬使うわ」
 ポツっと出た“薬”と言う単語に、敏男は「んっ!?」と眉間に皺を寄せて。
 「なに?薬?」
 「ああ、そう言った」
 「な、なんなんだよ、その薬ってのは。まさか覚醒剤とかそういうヤツかよ」
 「そ!ビンゴ」
 「!!…」
 巨体が思わず仰け反りそうになった。
 しかし。
 「と言うのは冗談だよ」
 悪びれた様子もなく、軽い笑いをたてた上野だった。が、その目は笑ってはいなかった。敏男は付き合いは浅いが、この男の“不思議な力”を認めていた。なのでもう一度「本当だよな」と念を押して聞いてみた。
 今度はハッキリと分かる怪しい歪みを口元に見せて、上野は黙ったまま敏男を見つめる。それは敏男の覚悟を探っているようだ。


 「まさか本当に麻薬のような…」
 と、敏男が言い掛けた言葉を遮って。
 「麻薬じゃないけどよ…お前、催淫剤って聞いた事あるか」
 「…サイインザイ?」
 「ああ、それを飲むとエッチな気分になって、男とやりたくなるんだわ」
 「そ、そんなのあるのかよ…」
 「ああ、知り合いにセンセイがいて、その人が倦怠期の夫婦の営みに刺激を与える薬を開発したんよ」
 敏男は“倦怠期”だとか“夫婦の営み”だとか、聞きなれない単語をスラスラ口にした上野を不思議な感じで眺めて。
 「そんな薬があったのかよ」と真顔で聞いた。


 「ああ、それでソレをチョッと、貰って来たんよ」
 「・・・・・・・」
 言い終えて、澄ました顔…いや、心で何を考えてるか分からない表情(かお)を見せる上野に、敏男の中にジワジワと不安が込み上げてきた。
 今回のこの“早苗をものにする作戦”……それは妄想の中だけで完結するいわばゲームじゃなかったのか。上野という自分より先を行くこの男に相談を掛けたとしても、心の奥では実行されないと思っていたのではないか…。
 と、敏男の背中には冷たいものが流れ落ちていった。


 「大久保よお、お前はあまり無理しなくていいぞ」
 敏男の沈黙をどう捉えたのか、上野がどうでも良いような感じで言葉を吐き掛けた。そして冷たい眼差しで“もの”にする事にしたからさ、と独り言のように告げた。
 ギクリと驚きに目を広げて、敏男の口は無意識に「なんで」と動いて、息を止めた。


 しばらく言葉を探す敏男だったが、上野がまた、何気に聞いてきた。
 「大久保は渋谷と仲良かったよな。今も仲は良いのか?まさかチンポをシャブリあう仲じゃないよな」
 そのくだらない冗談にも、敏男は笑えなかった。先程から上野が発する冷たいオーラに、萎縮しているのだ。


 「お、お前はどうなんだよ。優作とは仲良いってわけじゃなかったけど、悪いって感じでもなかったよな」
 敏男なりに気を使った聞き方だった。
 「ん~そうだなぁ…まあ、どうでもいいような存在だったけど、気に入らない部類かな」
 「・・・・・・・・」
 「まぁ、そのうち分かる時が来るからよ」
 いつの間にか怪しい雰囲気を感じて敏男は、上野の様子に怖じ気を覚え始めていた。けれど、何とかもう少し突っ込んで聞いておこう思ったのは、早苗や優作に対する気持ちが残っているからだった。
 「あのさあ、言ったと思うけど、オバサンとヌケサク先生が一緒に車に乗ってる写真は無いんだぜ。それに二人がエッチしたかどうかも本当のところは分からないし…」
 「・・・・・・・」


 「さっき言った薬だって、どう飲ませるか…それだって結構危険じゃん…」
 無意識に“事”から逃げるような敏男の雰囲気をどう読んだのか、それでもそんな事はもう、どうでもいいような口調で上野が「ああ、大丈夫“写真”もなくても平気。まぁ楽しみにしてろって」
 「・・・・・・・」
 敏男にはもう、言葉が浮かんでこなかった。この先どうなるのか、そんな事を考えてももう無理なのかと、そんな気持ちが芽生え始めていた。


 帰り際だった。
 「大久保、それでよぉ、金貯まったら又、連絡しろよ。新しい女はいないけど、まだまだ良い女(ひと)いるからよ」
 あのレンタルルームでの買春の話を出して、敏男の顔を抉るように覗いてきた。上野がソコで受付の仕事をバイト感覚でやってて、恩恵を受けて“いい思い”をしている話も聞いていた。
 その上野が囁くように続けた。
 「でもよぉ、金で買わなくても、何でも言う事を聞く奴隷みたいな女がいると助かるよな」
 下品に歪む口元。言葉を忘れたかのような敏男に、歪んだ口が続けて囁いた。
 「そうそう、渋谷みたいなタイプってよぉ、ああいうのは将来変態になるぜ。今でも頭の中じゃ縄で女を縛って、夜な夜なチンポをしごいてるんじゃないのか」
 上野の言葉を聞きながら、敏男は背中に冷たいものを感じて固まっていた。見れば上野は踵を返してレジへと向かっている。敏男はしばらく動く事が出来なかった。


 その日の夜ーー。
 この数日、日課になっていたエロサイトのサーフィンも休んで、敏男は上野が言ってた話に悩んでいた。今さら優作にお前の母さんが狙われてるぞとは言えないし。もし言ったとしても、この所の様子からは、アホかお前は、で間違いなく終わるだろう。
 結局のところ、その夜敏男がした事といえば、手を合わせて神様に早苗の無事を願う事だった。しかしその祈りの最後には「オバサンと無事にエッチが出来ますように」と、訳の分からない敏男だった。


 敏男の念が届いたのか、居間で一人で寛いでいた早苗のスマホが震えた。
 メールと思いきや、それは見知らぬ番号からの電話だった。出るか、出まいか一瞬迷ったが、2階の気配を窺ってから、テレビの音を小さくしながら早苗はそれに出てみた。


 「はい…」
 声は相手の気配を探るような、小さなものだった。
 『もしもし、早苗さん?アタシ、由美です』
 早苗は「あ!」っと心の中で声を上げた。


 『番号、変わってなかったのね、良かったわ』
 高田由美は夜分の電話に申し訳ない旨を告げて『実は相談があるんだけど、今大丈夫?』と聞いてきた。
 早苗はもう一度2階の気配を気にしながら「どうしたの」と返していた。


 由美の相談とは、知り合いの男子学生の事だった。早苗はすぐに、娘さんーー確か名前は保奈美さんーーの彼氏の事かと思った。けれど『違うわよ、保奈美も彼氏がいるみたいだけど』と、娘が就職していて、寮に入ってる事を告げられた。
 どうやら対象は、知り合いの学生らしく、相談するなら男の子を持つ親が良いだろうと考え、早苗の顔が浮かんだらしかった。


 「で、具体的にどんなコトなの」
 この手の話しに頭の中が教師モードに変わったのか、早苗の声は畏まったものだった。
 しかし『それは電話では説明しづらいの。だから一度会えないかな』と、電話口で頭を下げてる由美の様子が窺えた。
 早苗の頭の中には、先日の“事”があったばかりで、由美の変わり身(?)の早さに疑念も涌いた。が、根が良い事は昔から知っていたわけで、前向きの返事をしたのだった。
 とりあえず次の水曜日の夕方に会う事になった。場所は由美の自宅になったが、生活費の一部を売春で稼ぐ由美の家へ、上がり込む事には抵抗があったのだが。


 「あの、ご主人の都合は大丈夫なの」
 早苗はなるべく毅然とした口調で尋ねてみた。
 『ええ大丈夫よ。言わなかったけど、家(うち)の人、地方の現場で缶詰めなの。帰って来るのは年に数回だから』 どこかあっけらかんとした声に、早苗は由美の昔からの明るさを思い出していた。
 早苗は序(つい)でに他の情報も仕入れようかとしたが、『じゃあお願いします』と話を終わらせようとした気配に、まさか電話の向こうは“仕事中”だったのかと鼓動は一打ちした。


 電話を切ってから風呂の準備に入った早苗は、無意識の内に由美の恥態を思い浮かべていた。見られているとは知らず、鏡に両手を付き、立ったままの格好で男の物を受け入れていたあの姿だ。
 そして、そのまま携帯電話を握りしめながら、実況中継でもするように“その声”を聞かせた由美。あの時の由美は、電話の相手が自身の夫と信じてその声を上げていたのだ。如何に長年連れ添ったパートナーが相手だとしても、信じられない事だった。もし、自分だったら…と一瞬そんな場面を想像しかけて…早苗は浴室に向かった。


 脱衣篭に脱いだ洋服を綺麗に置いていく。
 零れ出る膨らみは、他人と比べた事などないが、まだ“イケテる”方だと思っていた。若い頃から何度も男性の視線を意識してきた上と下の膨らみ。早苗は自分の身体を鏡の前で見つめてみた。
 そう言えば、優作が中学生の頃だったか『母さん、肉感的ってなに?』と聞いてきた事があった。早苗は湯船に浸かりながら、そんな昔の事を思い出した。


 その優作はーー。
 階下の気配に“ソレ”見ていた指が一瞬止まった。
 この数日はどこかイライラが募(つの)っていた。その原因を自分なりに考えてみると、それは大久保敏男の事…それと上野重幸の存在だった。あの日、敏男が試験をサボったのは間違いないと確信していた。昔から嘘の下手な敏男の態度で直ぐに分かった事だった。もうそれなりの年齢(とし)だし、いつまでも同じ道を行くわけは無いし、サボりについてとやかく言う事は無いのだが、その原因が“あの”上野だとしたらと、心にささくれの様なものを感じるのだった。


 上野重幸とは高校3年生の一年間だけ同じクラスだった。気が合う、合わないでいえば間違いなく合わない人種だった。それは向こうからも感じていた。俗にいう不良とは違う、どこか得体の知れない不健康なヤツだと思っていたーー今も思っている。そんなヤツと親友の(の筈の)敏男が酒を飲んでいた…。優作は…また1つ溜息をした。


 「くそっ」と小さく舌打ちをして、止まっていた指先が動き始めた。カチャカチャ鳴るマウスのリズムで、画面に新たなエロ画像が現れる。
 今夜、優作が見ていたのは…覗いてしまっていたのは、熟女を中心とした投稿画像のサイトだった。中でも魅かれたのは、年齢にすると30代半ばから40代後半の膨っくらとした女性。そのふくよかな身体が荒縄に縛られているものなら、尚更の興奮を感じる事が出来た。
 投稿者の中にはそれらの写真を無修正や顔出しで掲載している者もおり、又、屋外で撮影された物も多かった。
 男との絡みーー結合の部分まで鮮明に写している物もあって、中にはその場面でピースサインをしている女もいた。しかし、優作の内側から熱い高鳴りが沸いて出たのは、熟年女性が羞恥に顔を歪める姿だった。それが若い男ーー遥かに年下の男の手によるものであれば尚更の事だった。
 優作は清楚な熟女が、不敵な若者に傀儡される様を想像すると、異様な興奮を覚えるのだった。


 (あぁっくそっ!勉強も…いや、勉強をしないといけないのに)
 歯ぎしりする気分で、自分を叱咤しようとしたが、その手は止まらなかった。古い物から直近の投稿までを吸い込まれるように閲覧した。投稿者のハンドルネームの横には、都道府県、市町村の表示があり、それが馴染みの場所であれば、より一層の高鳴りが沸くようであった。


 次の日の朝は、何とかいつも通りに起きる事が出来た。問題集を進めると、カタカタと階下で母親が起きた気配がした。いつもの日常の始まりであったが、濃いめのコーヒーを飲もうと思ったのは、夕べ遅くまで覗いてしまったエロサイトによる寝不足があったからだ。
 下に降りた優作に、早苗は朝の挨拶をすると「そうだわ。優作、小学校の時同じクラスだった高田保奈美さんって女の子覚えてる?」と、いきなり聞いてきた。


 「え!?なに、急に…」
 とっさに聞かれた質問にも、優作はその名前を思い出そうとした。
 「高田保奈美…ん~いたような気もするなあ…けど何で」
 ボオッとする頭を2、3度振って、優作は寝不足気味の顔を向けた。
 「そっか…そうだよね。昔の事だもんね」
 その早苗の言葉にもさほど興味を示さず、優作は一旦ソファーに腰掛けた。その優作にコーヒーを出してくれた母親の顔を見ながら、聞いてみた。
 「その子がどうかしたの」
 「ああ…うん」
 なぜ、高田親娘の話を出したのかは自分でも分からなかったが、早苗は由美の事を話し出した。
 「その保奈美さんのお母さんと一緒に、PTAの役員をやってたのよ。その子ん家は途中で引っ越したんだけど、それまで結構仲良くやってたの」
 「で、それで」
 どこかかったるい感じで、優作は続きを促す。


 「ああ、それでその人とつい最近、偶然に会ったのよ」
 「その人っての言うのは、お母さんの方?」
 「ええ、そうよ」
 「・・・・・・」
 眠気を引きずる頭は、コーヒーを飲んでも今一つハッキリしない。
 「そう言えば、PTAの役員やってたよね…。うんうん、やってたやってた」
 頭の中に幾つかの場面・・母親が学校の中を歩く姿を浮かべる事が出来た。そう言えば…隣によく似た体型の女の人が…そう、ムッチリして…肉感的な…。


 いつの間にかコーヒーカップを手に持ったまま、優作は一点を見つめていた。
 「優作、優作!」
 その声にハッと我に帰った。
 「ちょっと~大丈夫?」
 「え…うん、ボオッとしてた。で、何だって」
 早苗が呆れたように顔を向けて「だから、そう言う事で水曜日は遅くなるかも知れないからね」
 「ああ…OK、OK。夕飯、一人で食べてればいいんでしょ」
 「ん…そこまで遅くなるか分からないけど、一応そのつもりでいてくれる」
 「ああ、分かった。久しぶりなんだろうからユックリしてきて」


 優作にユックリと言われたが、早苗の中には長居する気持ちはなかった。やはり、例の“仕事”の話を聞いてしまった以上は距離を置かなければいけないと無意識に考えていたのかも知れない。それでも持って生まれた人を放っておけない性格が顔を出していたのだが…。