小説本文




 予備校は1時限目が始まるところだった。
 席に座る敏男の横に、優作がやって来た。
 「おはよう、敏男」
 「おお、優作。あれ?何だか眠そうだなぁ」
 「ああ、ちょっとな」
 「夕べは遅かったのかよ?」
 「ん~まあな」
 「そっか…ところでおばさんの具合は良くなったのかよ」
 「う~ん…今朝も何だかボオッとしてたな」
 優作への質問は、敏男がずっと気にしていた事だった。昨日、あのビルの中に消えていった早苗。そして一緒に入って行った女性…敏男の筆下ろしをした名前も分からないあの女(ひと)。あのビルにあった【華の会】という、今どきのセンスの欠片も感じられない名前の会に、二人で参加していたのか?そうだとして、中で何かあったのか…。
 「・・・・・・・・・」
 敏男は眉間に皺を寄せて、腕組みをしている。


 「ん?ん?…敏男、聞いてるか」
 ハッと気づけば、優作が覗き込んでいた。
 「大丈夫かよ敏男?お前、昨日の休みは、やっぱり具合が悪かったからじゃないのか」
 「へ!?…い、いや大丈夫だ。で?」
 優作は一旦ため息を吐き、肩をすくめてみせて。
 「だからなっ…夕べも言ったけど、ヌケサク先生の所に行く件だよ」
 「あ、そうだったな…。で、いつにしようか」


 心配事はともに早苗の事なのだが、それぞれが納得する答えに近づきたくて、母校の大塚を訪ねる事にした。
 「じゃあ今度の月曜。授業が終わったらダッシュで」
 そこまで話が決まったちょうどその時、教室に先生が入ってきた。


 昼休みーー。
 「またカレーか」
 「そう言うお前もだろ。けど、俺のはカツカレーの大盛だ」
 ごった返す食堂の一角。二人は笑いながら席に着いて。
 「頂きます」と、同時に口にしてから、水を一口飲むと、スプーンを運び始めた。
 二人の口数はいつもより少なかったが、それなりに食が進んだところで、優作がスプーンを置いた。
 「ヌケサク先生の事だけどさ…」
 「ん?」
 「行く時は電話してからの方がいいかな」
 「そうだなぁ…それより、こっそり行って驚かしてやるってのはどうだ」
 ふいに目を輝かせて、敏男が頷いている。
 「じゃあ、そうしようか…」と、優作が返したところでこの話しは終わり、二人は又、もくもくとカレーにありつき始めた…。




 金曜の夜といえば、土日の休みを考えて、ワクワクしながら過ごすのがこれまでだったが、浪人生になってからはそうはいかず、部屋に籠(こも)って問題集を広げるのが当たり前になっていた。優作は夕飯を終わらせ、部屋の机に向かったところだった。


 母の早苗の様子は、昨晩よりも疲れて見えた。優作が予備校から帰った時には家にいたのだが、 身体全体が気だるそうな雰囲気で、特に目の色はどんより病的な感じがした。優作は問題集を開いたまま、母の様子を思い浮かべてみた。
 『母さん、体調はどう。昨日より疲れているみたいだけど…』
 母の返事は、心配を掛けまいとする様子がありありだったが、逆に優作の不安を高めるものだった。


 ふーっと溜息を付くと、優作の指は無意識に問題集を閉じていた。寝る時間にはまだ早いと、それが分かっていながらも、モヤモヤした気分がこれ以上勉強する気力を奪っていたのだ。
 ああッと苛立ちを声に出して、座りながら目一杯の背伸びをした。ふんぞり返るように背中に体重を掛け、両足を机の上に放り出した。その格好は親なら誰もが『行儀が悪い』という振る舞いだ。特に元教育者の母:早苗なら尚更の筈だった。


 ふと視線を落とせば、机の上にはノートパソコンが開いたままだ。
 『分かってるわね。勉強とかニュース位にしなさいね。あまり…』
 父親が単身赴任に出発する頃に、ちょうど購入した自分専用のノートパソコン。贅沢品だと言ったのは、母親の方だったが、結局買った時には『…あまり、エッチなのは見てはダメよ』と言おうとしたのではないか。そんな何年か前の事が自然と思い浮かんだ優作の手は、そのパソコンを手元に近づけるように動かした。
 チラリとドアを振り返って、シッカリと閉まっているのを確認して、ソロリとキーに指を置いた。


 いつの間にか正した姿勢は、それでもいつもより前屈み気味で、後ろめたさを理解した上で「息抜きさ」と開き直った気でいた。
 『パソコンこそ悪魔の贈り物だよな』と、訳の分からない事を友達と話していたのは、高校に入った頃だったかと、優作はそんな事を思い出しながら指を進めた。高校時代に出来た彼女--結局、手を握っただけで別れた彼女--に、後ろめたい感情を覚えながら覗いた事もあったエロサイト。優作の指は、何かを思い出したように、キーを叩き始めた。


 画面に次から次へと現れるのは、いわゆる“SMもの”だった。その画像・・モデルは熟女。しかも彼女達の殆どが“素人”と、本当かどうか分からないけど、そんな文字を初めて見た時は衝撃を受けたものだった。
 縛りの写真に多いのは、黒い背景の和風の部屋で、モデルは熟女が多い気がして、縛る男には褌姿が多かった気がした。やはり…あの幼い記憶の中にある父と母の姿とダブってしまう…と、優作は後ろめたい気になってきた。


 いつしか時間は、いつもの就寝時間をとっくにオーバーしている。画面は別のサイトに変わり、指の向くまま“エロ”をサーフィンしていたのだ。投稿画像の掲示板には、無修正を載せれるところもあったりして、日常の中で自身のアソコやアソコを曝す--自分の意思でか、男の指示でか分からないが--姿は衝撃的で、又、その主人公となる中年女性の属性などを想像すると、例えようのない興奮が湧いてくるようだった…。


 優作はハッと気づいたように手を止めた。時計を見れば、もうこんな時間だと。頭をブルブルと振って息を吐いて。
 (ダメだよ、こんな事じゃ)
 自分に言い聞かせ、すぐにパソコンの電源を落とす事にした。
 布団にもぐれば、エロの残像が湧いてくるのだが、グッと気合いを入れるつもりで固く目を閉じた。


 休日の朝に、特別な事はなかった。
 優作は土日、祭日、変わらず、浪人してからは早朝勉強を続けていたし、早苗は早苗で、早起きはどんな時でも変わらないものだった。
 しかし。
 この朝の母親の様子に、いつも以上の違いを感じたのは、優作がリビングに入った時だった。


 『挨拶は何にもまして、一番大事なのよ』と、言ってた母親は家族の中でもそれを率先して行ってきた。
 その早苗が優作の姿に気づくと、そそくさとスマホを胸に抱えるように隠したのだ。


 スマホを胸に隠した動きに、早苗自身が後悔した。メールの相手は大塚で、優作が知る“ヌケサク先生”なわけだし、内容だって多少の隠密の要素を含んでいたとしても“打ち合わせ”の段取りなのに、だ。


 「お、おはよう優作。ゴメン…御飯…これから作るところなの」
 自分から切り出した言葉は小さく、か弱いものだった。返ってきた視線に疑心が含まれていると感じたのは、早苗の思い過ごしだったか。
 二人はどこかぎこちない感じのまま、それぞれが自分の日常に入っていったのだった。


 優作が出掛けたのを見届けると、早苗はスマホを取り出しメールをチェックした。見れば朝に送ったものへの、返信が来ている。


 《早苗先生、本当に大丈夫ですか?あれ以来、返事が遅いので心配しています。今日の真知子ですが、先のメールにも書きましたが彼女の様子は相変わらずで、心ここにあらずといった感じが続いています。とにかく早苗先生からの報告を聞きたいです。忙しいと思いますが13時に例の所でお待ちしています》


 語尾に丁寧な言葉使いが多くなっている事で、逆に大塚の緊張が分かった気がした。早苗の中には後ろめたい想いがあって、日に何度か真知子に対する気持ちが揺れ動く事があった。真知子が若い男と戯れる姿が頭に浮かび『彼女は気持ち良い想いをして幸せなのだ』と、そんな声まで聞こえて来るのだった。


 家は早めに出た。
 ショッピングセンターに着いた早苗はフラフラといつもの店に入り、無意識に珈琲を注文した。頭の中は病みあがりの感じでボオッとしている。が、昨日の“あやまち”には自己嫌悪しかなかった。まさか…あんなにあっさり薬入りの飲み物を口にしてしまうとは…。そして、その後、沸き起こった悦楽の欲求と脳が痺れるほど感じた快楽。
 その時、不意に聞こえた声に振り向いた。「あ、大塚先生…」気怠い呟きが漏れた。
 二人のありきたりの挨拶が終わると、大塚は椅子に座って改まった。そして、潜入捜査への感謝を述べ、続けてその報告が遅かった事に対して、心配していた事を告げた。


 「ところで」
 一つ頷いて、大塚が話し始めた、いや聞き始めた。
 「で“会”の様子はどうだった?侵入は上手く出来たの?。それで真知子は…」
 パパッと繰り出された質問に、早苗はボオっとしたまま大塚をみつめ返して。
 「ええ…行きました。教室はどこにでもあるような感じで、生徒さんは結構いらっしゃいました。皆さん普通にフラワーアレンジメントをやってました。真知子さんも回りの皆さんと楽しそうにやっておられましたよ」
 「・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・」
 「じゃ、じゃあ何も怪しいところは無かったって言うのかい?」
 念を押すように大塚が覗き込んだ。
 「えっええ…そうですね…」
 大塚は聞こえないように息を吐いて、聞き方を変えようとして。


 「その教室には何人位いたの?講師の先生は女性でしょ。いくつ位の人だった?」
 「…ええっと…20人位で、講師(せんせい)はたぶん60歳位だと思います」
 「…そうか。で、全員女性だったでしょ?…教室は何時間くらいやってたの?」


 早苗の表情は、言葉のやり取りが進むにつれて鈍よりした翳りに覆われてきていた。
 「ああ…そうです、全員女性でしたわ。時間は90分位かと思います…」
 「・・・・・・・」
 質問に最低限の答えだけを返す早苗の雰囲気。それを見つめる大塚の口元が、ピクピクと震えてみえる。
 「そうですか…」と、丁寧な言葉尻にも、口元は歪んだままだった。そして。
 「真知子のその…雰囲気とかはどうだったの?…」と、聞いてきた。


 早苗からの報告の場は、大塚の尋問のような雰囲気になっていた。回りの目も気にせず、大塚が続ける。
 「それと、何か宗教めいた事はしなかったかい?たとえば儀式の真似事のような…」
 「・・・・・・・」
 「・・・・・・・」
 黙り込んだ早苗を、大塚も黙ったまま見つめた。
 「・・・・・・・」
 「な、無かったと思います。宗教めいた事も…」
 「・・・・・・・」


 大塚は目を瞑って俯いていた。
 やがて薄っらと目を開けて宙を睨んだ。
 (・・・・・・・)


 それからしばらく無言のまま座っていた二人だったが、沈黙を破ったのは早苗だった。
 「真知子さんは、その…とても楽しそうにされてたんですよ…」
 重い口調でボソリと落とした言葉に、大塚は目を細めて見つめ返して。
 「…そうなのか…家では心ここにあらずで、前にも“君”に言ったように、病的な感じだよ」
 笑ったように見えた顔は、自虐的で。
 「で…一体、どんな風に真知子は楽しんでいたんだろう…」


 大塚の一人言のような質問に早苗は沈黙した。
 その表情(かお)はますます暗くなっていき、その目からは既に生気が消えている。その変化に大塚が何か言おうとした時だった。
 「真知子さんは…」
 と、表情が消えた早苗の口からは、ボソボソと小さな声が零れ出した。
 「…専業主婦としてのマンネリ感…漠然とした孤独感…それに欲求不満…。それらを払拭しようと楽しまれてました」
 その言葉を聞いた大塚は、無意識に腰を浮かせて。
 「だ、だから…どんな風に楽しんでいたんだい」
 呻くように絞り出たその言葉に、早苗は大塚の顔をジッと見つめた。そして「…大丈夫ですよ。真知子さんは自分自身を解放出来る所にいるのですから」と、呟き返した。
 生気が失われた表情(かお)のままで、甘ったるい声を発した早苗の様子に、大塚は冷たい震えを覚えた。握っていた拳はブルブルと震え、それが身体中に伝染して行きそうな感じで、大塚はその震えを噛み締めた…。


 早苗の頭の中では、いつの間にかノイズが鳴っていた。
 大塚がスッと立ち上がった。そのまま黙って出口へと向かう。早苗は唇を噛みながら、その後ろ姿を見送るだけだった…。


 大塚のいなくなったテーブルで、早苗は頭を抱え俯いていた。何故はっきり本当の事を言わなかったのだろうか…それは、あの場所で行われた真実を教えてしまえば、大塚はどう思う?あの真面目な大塚は…それに…私自身の過ちも分かってしまうじゃないの…。
 再び真知子達のあられもない姿と、昨日の自分が重なり合って浮かんで来る。そんな自分の惨めな格好を眺める大塚の顔までが浮かんできた。
(ああ…でも、ダメよ、ダメだわ。こんな事で挫けちゃ)
 早苗はプルプルと頭を振った。1度位の過ちで、そのまま流されてはいけない。自分は動物ではないのだ。快楽の為に生きるのではない。人としておかしいものは、おかしいのだ。大塚に気づかれず、真知子をあの会から遠ざければ良いのだ。写真を撮られた訳では無い。脅される事も無いはずだと、早苗は心の中で言い聞かせるように誓ったのだった。