小説本文




 早苗は、真知子が店を出ていった後も暫くこめかみに指を当てていた。頭の中では赤色灯が回り、不快なサイレンの音が鳴っている。
 ブルルと頭を振って、残った水を飲み干そうとグラスに手をやった。一気に喉に流し込んで、自分に気を入れ直すつもりでもう一度頭を振ってみた。
 (チョッと待ってよ。何?…今の真知子さんの話は)
 と、今ほどの出来事を思い返してみる。


 大塚先生が真知子さんを“華の会”に勧めたっていうの?
 しかも、神田先生に教えられて?
 それに何?…寝取られって?
 大塚先生が奥様である真知子さんの恥ずかしい姿を見たがってるっていうの?
 それは、赤の他人とセックスする姿って事?
 しかも、その様子を奥様の口から聞いて興奮を覚えてって…。
 それに、アタシにこれまで依頼してきた理由が自分が“悦”に入って喜ぶ為ですって…。
 本当だとしたら呆れてものも言えない。
 けど、まさかそんな筈はありえないわ。


 早苗は頭のノイズを振りきるように、大塚に電話をしようかとスマホを手に取った。しかし…。
 「授業中だわ…」
 小さく呟いただけで、直ぐにスマホをテーブルに置いた。


 1度トイレに立ち、顔を洗い、目頭をマッサージするように抑え付ける。静かに深呼吸をしてから、もう一度自分に気合いを入れるように大きく頷いた。
 席に戻り時計を見てみた。
 大塚の話もそうだが、由美の事も気になってしまう。
 真知子が言った言葉が甦る。
 『今日なら夜の7時頃に【華の会】の近くのレンタルルームがあるビルのそばで見かける事が出来る・・』確かそのような事を言っていた。場所は何となく分かる。けれど“レンタルルーム”と言うのは何だろう…、今、流行りの共同オフィスみたいなものなのか?ーー早苗はそんな事を考えた。
 それにしても、夜の7時にはまだまだ時間がある。さて、どうしようか…。


 結局、早苗はこの近くで時間を潰す事にした。
 食欲はなく、昼は軽いものしか口に入らなかったが、やけにノドが渇いた。
 宛もなく洋服や雑貨などを見て歩いたが、購買意欲など湧く筈もない。夕方頃には異常に睡魔に襲われ、ファーストフードの店の片隅で一眠りしてしまった。
 目がさめた後も、喫茶店を2軒ほど梯子して何とか時間を進めた。
 陽が暮れてきた頃、思い出したように優作にメールをした。
 《ごめんなさい。今夜は帰りが遅くなります。悪いけど夕飯は一人で食べておいてね》


 メールを送ると、改まって一人息子の事が浮かんだ。残念ながら今は、悲しいかな浪人生活を送っている。高望みせず、人並みの大学なら間違いなく受かっていたはずだった。それを、実力以上の所に挑戦したのは親の存在を意識したからだろうか。それを想うと心苦しいものがある。
 親が教師である事が知らずにプレッシャーになっていたのは、想像が出来る。おまけに父親も勤め先は世界的に名のある大企業だ。
 親の事は気にせず、お前はお前のしたいように生きろ。と、父親も言っていたがそれも又、本意に受け取る事が出来なかったのだろうと考えてしまう。


 その時、胸の奥にドキリと大きな弾みが起きて、息子、優作の顔に、見ず知らずの……それも同じ年頃の男の子の顔が覆い被さった。
 汗臭い…いや、若者特有の体臭までが記憶の奥から甦った。その瞬間、股間の奥からキューンと痺れるような感触が涌き出て来た。早苗は思わず、椅子から立ち上がりそうになって、慌てて息を詰めた。
身を固くすると、股間の奥の\”\”アソコ”が確かに濡れたような気がする。早苗は後ろめたそうに回りに目を配ってみた…。


 それから又、早苗は店を代えて時間を潰した。
 昔、一緒にPTAの役員をした高田由美。彼女の顔を思い出すと、活発で健康的な容姿が浮かぶ。真知子が言っていた『…彼女は、もっと凄い事をしてるみたいよ』…その“凄い事”とはいったい…。
 まさか由美はと、考えを巡らせれば“性的”な事に頭が行ってしまう。自分が見知らぬ若者と過ちをおかしてる時・・・記憶の中には、由美の意味深な笑いがあった……気がする。あれは何だったのだろうか…。
 早苗の性格からは、どんな事でも真実を知りたかった。それで傷つく事になったとしても…。


 その場所は直ぐに宛がついた。【華の会】の看板を確認してから、早苗はその界隈を見廻りするように歩いていた。
 時刻は夜の7時少し前。
 ネオンもいくつか見えるが、全体的には暗い場所だった。歩いてみると、昼間との雰囲気がこんなに違うものかと、不気味さを覚えながらも、真知子の言った“レンタルルーム”と書かれた看板は直ぐに見つける事ができた。と、そこで本当に由美が来るのかと、疑心も湧いたりしたが、待ち伏せするなら何処にしようかと気持ちは決まっていた。会えばストレートに聞いてみよう。由美と自分の関係なら、思いきって聞いてみても良いのではないか。恥ずかしい事実があったとしても、それは違反薬物が原因なのだと、そんな気持ちがあったのだ。


 しばらく、近くのテナントビルのエントランスから目的のビルを見張ってみた。
 あれは…?
 目的のビルの左向こうから、歩いて来たその姿は間違いなく高田由美だった。暗闇の中でも確認できたその容姿は、昔と比べるとふっくらした感じがあるが、自分と同じで、ややポッチャリ気味の肉感的なものだ。
 暗がりの中でも豊満な胸が、目につくように揺れている。早苗は意を決して由美の方に向かおうとした。その時。


 「オバサ~ン」
 不意の声に飛び上がって驚いた。
 振り向くと、今風の感じの若者の顔があった。
 「なに驚いてんのさ。俺だよ、俺」
 「・・・・・・」
 早苗は心臓を鷲掴みされた感覚に強ばっている。


 飄々(ひょうひょう)と話すその若者の顔に、息子、優作の顔が被さって。
 「あ!?」
 そう一声上げて、またまた心臓が縮み上がった。
 「ん~、思い出せない?俺だってば」
 さほどどうでも良いような感じで言った若者の顔が、意味深に笑っていた。
 気が付けば、目の端を由美の姿が通りすぎて行く。


 若者が横目に由美の姿を認めて、口元を更に歪め。
 「オバサンさあ…由美さんの様子を探りに来たんでしょ」
 お見通しですよと言わんばかりに、若い唇が戸惑いなく動いている。


 「・・・・・・・」
 「ん~オバサン、緊張してんの?大丈夫だよ、これから面白いもんを見るんだしさ」
 「な、何を…」
 絞り出すように、早苗が呟いた。


 「あ~そっか、何で俺がここにいるか分かんないんだな」
 どこか馬鹿にしたような響きに、早苗は無意識に小さく頷いていた。若者は一歩近づいて。
 「えっとねぇ、真知子さん知ってるよねぇ。それに神田先生も」
 「・・・・・・・」
 「真知子さんが今夜、オバサンが由美さんの所に来る事を神田先生に連絡したわけ。そうしたら、神田先生が俺を呼んだんよ」
 「・・・・・・」
 「で、俺がオバサンを向かえに来たのよ。皆で由美さんの“仕事”っぷりを覗こうって志向なわけで…分かる?」
 「・・・・・・・」
 若者の言葉をハッキリと聞いたつもりで、早苗はもう一度シッカリ目の前の顔を見つめてみた。
 (ああ…ヤッパリこの子なのだ…)
 と、記憶はこの若者の顔…そして身体を覚えていた。
 「あれ、その顔はやっと俺の事を思い出したって顔かな」
 「・・・・・・・・」
 「そう“あの時”の俺だよ」
 その若者の口元が歪んだ。


 「さあ、行こうか」
 若者は徐に早苗の手を掴んだ。早苗の身体はもう、無防備の状態で連れて行かれる。この名前も知らない若者とセックスした記憶が甦り、それが弱味となっていたであろう。とにかく、身体が強張りながらも付いて歩いていたのだ。
 そして、向かったのはレンタルルームの看板が上がったビルだった。


 ビルのエントランスに入った所で、足がすくみ、立ち止まってしまった。
 そこには、うすら寒い空気が流れている。
 壁沿いには、個人の名前や会社名が乱雑に書かれた汚い集合ポストがある。如何にもの雑居ビルは、やはり不気味な臭いで満たされている。


 「さぁ、行くよ。上に部屋がいくつかあるんだわ」
 いつの間にかエレベーターの扉が開いていた。
 若者の飄々(ひょうひょう)とした様子からは、犯罪の気配は感じないが、それでも足は竦んでいた。


 「大丈夫だからねえ。後でちゃんと由美さんにも会えるし」
 エレベーターに乗り込んだ若者が、慣れた手付きで階数のボタンを押す。
 「ねえ、ここは何をする所なの?由美さんは何処に行ったの?」
 しかし、早苗が言い終わるのを待たずに、若者が自分の唇に指を当てた。静かにと伝えたのだ。


 「オバサン、大丈夫だって。ちゃんと由美さんと話が出来るんだから」
 まるで何かを諭すような声で、同意を求めるように続けた。
 「でも、会うのは“仕事”が終わってからだよ、由美さんの」


 ガタンとエレベーターが止まり、扉が開かれた。早苗は腕を引かれ、降りた正面のドアの前で身体は緊張に震えを感じていた。
 ドアが慣れた若者の手つきで、開かれた。
 開いたドアを前に、早苗の身体は再び固くなったが、若者に手首を掴まれたまま中へと足を踏み入れた。
 中は6畳ほどの大きさで、事務机が一つに古めかしいソファー。他には同じく年季の入ったロッカーに小さな冷蔵庫、そんなものだった。


 「あ…あの、由美さんは何処に…」
 押し殺したような早苗の声にも、若者は机の上の電話の履歴を確認しながら、パソコンを立ち上げている。
 「ねぇ、君…」
 早苗の緊張を含んだ声に、若者はパソコンに目をやったまま。
 「上野…」と小さく呟いた。
 (上野…)
 早苗もまた、心の中でその名前を思い出すように呟いた…。


 「オバサン、チョッと待って…今日の予約の確認をと」
 上野と名乗った若者は、椅子に座り、如何にも慣れた様子でパソコンのキーボードをちゃちゃっと打ち込み始めている。早苗はその横顔をジッと見つめた。
 どこか見覚えがある…?
 神田に薬を飲まされ、セックスをしてしまったあの時…ではなく、ずっと以前から知っていた…?
 突然に湧いた記憶に、早苗は戸惑いを覚えたが、記憶は明らかになっていかない。しかし何かを、この若者から聞き出そうかと身体が前屈みになった時だった。


 「よしよし、これでOK」
 そう言い終えるや、スクっと立ち上がって。
 「時間もいい具合だわ」
 一人頷き、早苗にニヤっと笑いかけた。


 上野がスタスタと部屋の奥に見えるドアに歩き、その前で振り向いて。
 「オバサン、神田先生が今夜の事は絶対内緒だって」
 そう告げ、そのドアを開ける。壁のスイッチに手を当て、灯りを点ける。
 「さあこっち、由美さんいるから」
 早苗は恐々、その中に足を踏み入れた。そこは2畳程の物置のような…と言うよりただの空間のようだった。
 上野がさっきと同じように唇に指を当て、静かにと合図して顔を近づけた。
 「声…聞こえないと思うけど、静かにね」
 その囁きにも、早苗は意味も分からず、いったい由美が何処にいるの?と、口に付きそうになった、が。
 「ココ」
 上野があっさり目の前のカーテンを、するりと引いた。
 「あっ!!」
 そこに見えた人の姿に、早苗は息を飲んだのだった。