小説本文



夕方の慌しい駅前を抜け、数百メートル離れたホテルのロビー。
レストランの待ち合わせをしている客、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる客、さまざまな人々が日常を過ごしている空間。
その中を妻と探偵と俺の3人で歩く。


「君はここで待っててほしい。」


探偵の仕事の領域を超えているであろうことはわかっていた。
しかしそれを承知でついてきてくれた探偵、今自分にとって信じていいと言えるただ一人の人間だろう。
探偵は頷き、ロビーにあるソファーの方へと歩きだした。
そして俺はエレベーターの方へ向かう。
妻は何も言わずについてくる。
エレベーターが到着し、乗り込む。
他に客はいない。
妻と2人だけのエレベーター内。
11階のボタンを押す。
ホテルから1歩外に出れば帰宅途中のサラリーマンや若者が行き交ういつも通りの日常。
非日常を歩んでいるたった一人の自分。
今でも夢なんじゃないかと感じることがある。
それでも2人っきりのエレベーター内でどんどん上に進んでいくことで更に非日常を大きなものに感じさせられる。
これが今の俺の現実なんだ。


エレベーターは11階に到着し、ドアが開く。
明るく重厚な雰囲気の廊下を進んでいく。
1101・・・1102・・・男達のいる部屋が近づく。
なぜかさっきまであった怒りが収まり、異常なほど冷静な自分がいた。
自分の弱さ、自信の無さ、今起こっている現実にどうすればいいかわからない自分には怒りに身を任せることしかできなかった。
今はやるべきことを見つけた。
いや、自分でもそれが一番正しいことなのかわからない。
ただ、少なくとも自分の本能が今俺を動かしていることだけは確かだった。
原因を考えることから逃げているのかもしれない。
それでもいい。
解決なんてないかもしれない。
ただ一つ一つ絡まった糸を解くことへの動機付けはある。
それは過去を信じることだ。
自分が妻や子供たちと過ごした過去は事実であり、それは何物にも代え難い大切なもの。
自分がそれを信じているからこそ今こうして行動しているのだろう。
論理的な考えは一切必要ない。
ただ自分の本能がどう感じているか。
そしてその感情のままに。
子供たち、そして妻を・・・。



1105室のドアの前で立ち止まる。
インターホンを押す。
中の音は一切聞こえない。
突然、部屋のドアが開いた。


「ああ、どうも。」


さっきの短髪の男だ。


「どうぞ」


そういうと男は中に入っていった。
俺と妻は部屋に入り、男の向かった方へと歩く。
スイートルームだろう。
少し歩いた程度では部屋の全てがわからないほど広く、いろんな部屋があるようだ。
ドアから真っ直ぐ進むと大きな窓から外の夜景が見える広い部屋があった。
キッチンや冷蔵庫、それに暖炉まである。
暖炉の前のガラスのテーブルの傍に人が立っていた。
さっき家に来ていた長髪の男。
おそらくさっきの電話もこの男だろう。
妻は今どんな顔をしてこの場にいるのだろう。


「旦那さん、さっきはすみませんでした。あいつもわるい奴じゃないんですがね、どうも短期というか・・・俺から言っておいたんでどうか多めに見てあげてください。」


短髪の男はその言葉が気に入らない様子でこっちを見ていた。


「話をしにきた。」


俺は長髪の男の目を見て言った。


「ええ、我々もお話が。どうぞお掛けください。」


そういいながらガラステーブルの横にあるソファーに手を差し出した。
妻と2人でソファーに座る。
長髪の男も向かい側のソファーに座った。


「妻と今後一切関係を切ってくれ。俺が言いにきたのはそれだけだ。」


長髪の男は俺の目を真っ直ぐ見てそれを聞いていた。
その状態のまま5秒ほど経っただろうか、男が口を開く。


「実は我々の話というのもそのことです。奥さんの今後のことです。
・・・まあ、こんな状態になったらもう旦那さんも今まで通りにはいかないでしょう。
離婚していただきたいと思いまして。その慰謝料や子供さんの残りの学費なんかの話もしなければと思いましてね。」


男は俺の目から一切視線を逸らさずに言い放った。
離婚してくれだと?


「なぜお前らにそんなことを決められなければならない!俺は関係を切れと言ってるんだ。」



しばらくの沈黙の後、長髪の男は言った。


「ご主人は、奥さんとこれからどうされるおつもりですか?
我々は・・・奥さんを女として育てていこうと考えてます。
もちろん環境も今までより豪勢な生活ができる環境になりますし、苦労はさせるつもりはありません。
これからお金を稼いでそのあとは自分の好きな人生を歩めばいいと思ってます。」


困惑、不安、焦燥、いろんな表情の入り混じった顔の妻。
この男は俺を挑発しているのだろうか。


「俺は離婚する気は無い。」


まるでこっちの言うことを聞いていないかのようにかみ合わない会話だった。
妻はもう自分たちの奴隷だとでも言わんばかりの言い方。


「離婚する気は無い?
それが旦那さんのご意思ということですか・・・。」


「そうだ。」


「旦那さんはDVDもご覧になっているのですよね?
それでも構わないと?」


妻の目に涙が溜まり始める。
俺は言った。


「俺はこれからの話をしている。」


俺の言った事が想像とは違った答えだったのだろうか。
一度も俺から目線を逸らさなかった自信の溢れたその男は少し下を向き、もう一度俺の目を見て言った。


「そうですか・・・わかりました。」


わかりました。
妻の意思などまるで無いものと同然で話をしている男。
こいつから了承を得る気は無い。
ただこの話をしなければ先に進めないことがわかっていたから話しただけだ。


それでも未練がましく話し始める。


「我々はそれでも構いません。
ただ、典子がどういう女になったのかを知らずに今後のことを考えることはできないと思いますよ。
これはあなたの為に言っています。」


そういうと男は立ち上がり、部屋の奥のほうへ行きながら俺に言った。


「旦那さん、ちょっとこちらへ。」


男は広い部屋の奥、のドアへと向かっている。
俺を誘い出してどうにかするつもりだろうか。
すると男は振り返り、少し笑いながら言った。


「安心してください。手を出したりするわけじゃありません。ちょっとお見せしておかなければならないものがあります。」


見せておかなければならないもの?
俺は立ち上がり、男について行く。
妻はソファーに座ったままだった。


「あ、奥さんもこちらへ。」


今更奥さんと呼ぶのか。
妻も後をついてきた。
男はドアの前で立ち止まり、俺や妻が来るのを待った。
4,5秒して3人ともドアの前に立ち止まり、男はドアノブに手を掛け、ドアをゆっくりと開ける。


部屋の中は明るく、人が数人いるようだった。
男が中に入っていき、俺と妻も続いた。
すると声が聞こえてきた。
女性の声。
それもAVのような喘ぎ声。
何も無ければただテレビからAVの音がしているとしか思わなかっただろう。
しかし今この男達と一緒にいるこの空間でこの声が意味しているものは一つだった。
それでも男は中に入っていく。


真っ白なベッドの上で女性がロープで全裸で全身を縛られ、男に跨っていた。
後手に縄で縛られ、その分前へと突き出された胸も縛られ、苦しそうに張り詰めている乳房。
俺達が入ってきたことに気づいているのだろうか。
下を向き、髪が乱れ顔もよく見えない。
そして何も無いかのように腰を振り続けている。
無我夢中でそれ以外のものは一切見えない状態。



「この女も奥さんと同じ、人の妻です。
ご主人がいる普通の奥さん。
自分でもこういう関係が続くことに嫌悪感を感じているにもかかわらずまた我々のところへ来るんです。
なぜかわかりますか?
もう身体がそんな身体になってしまってるんですよ。
もちろん自分からこちらへ連絡が来るなんてことはないですよ。
ただ定期的にこっちから連絡して呼び出しています。
ちなみにこちら下の男性はうちの株主の方です。」


男がしゃべりだした瞬間、縛られている女性はこちらに気づいたようだった。
驚くよりも気が動転している様子で必死に顔をそむけている。
それを楽しむかのように株主の男は腰を強く振り始める。
通常ではありえないようなこの状況でもその女性は逃げようとせずに男に腰を掴まれ、されるがままだった。



「・・・そして、あなたの奥さんもこの奥さんも同じ境遇だということ。」


「それでも奥さんとやっていけますか?
我々はそれでも構わない。
ただ旦那さんがまた傷つくことも覚悟の上でということです。
我々も責任は取るつもりで動いてますので。」



女性の喘ぎ声がいっそう激しくなる。
自分と男が話をしているこの状況や空気、それと同じ空間にいるはずだ。
それすら理解に苦しむほど異質な状況だった。
株主の男は女性を仰向けに寝かせ、女性の腰を掴み、そこに自分の腰を力いっぱい押し付けている。
まるでオスとメスだった。
この2人が同じ人間とは思えなくなる。
水と油のように、同じ部屋にいるのに緊迫した空気と隠微な空気が混じりあわずに分離し続ける異様なもの。



男がしゃべり終るとすぐ傍の妻のすすり泣く声が聞こえてきた。


「もう・・・私は汚れてる・・・もうやだ・・・無理なの」


泣きじゃくりながら話す妻。
過去を後悔しているのだろうか、それとも今目の前にある光景に自分を重ねて見ているのだろうか。
自分が今までしてきたことを客観的に見れていたはずはない。



「いい加減にしろ。自分で自分を卑下するようなことはするな。」


弱気になり、自分を汚れたものとしかみれなくなっている妻に憤りを感じた。
俺はそんな妻を救おうとしているんだ。


そしてそのまま妻を連れてその部屋を出た。
これ以上あの部屋で話なんてできるはずがない。
あの光景を見ている分妻の中の何かが壊れていってしまう気がする。


長髪の男も後をついて部屋を出てきた。


「覚悟をして欲しかったんです。」


男が俺に向かって言った。
覚悟?
自分の妻との間の覚悟だと?


男は続けて話し出す。


「DVDで見ただけではわからない部分、あなたの知らない部分がたくさんある。
もしかしたらあなたに見せている典子の一面はほんの一部に過ぎず、我々と共にいる典子が本当の典子かもしれない。
それに典子自身も気づいていないのかもしれない。
何が正しくて何が間違っているのかなんて誰にもわからないんですよ。」


男の言葉がどこか冷めた感じに聞こえた。


「それは間違っている方に引き込んだお前が言うことか?」


男は視線を俺の目から逸らさずに数秒沈黙し、しゃべりだした。


「間違っているとは思っていません。
そして、私がなぜこんなことを言うのか・・・あなたに覚悟をして欲しかっただけです。
それがないのであれば典子はうちで引き取る意思があるということ。
今まで放した女がどうなったかはわかりません。
後追いするようなことはしませんからね。
しかし私は典子がどこまで堕ちたのかを知っています。
だから言っているんです。」



どこまで堕ちたか・・・。
そんな言葉が出る事に下らなさを感じた。
遊びの延長で生きているこいつらの生き様を見たような気がした。
そして冷静でいる自分に対してもこれでいいのかと迷いすら感じる。