小説本文




 2次会の席では、盛り上がりが続いていた。
 千明の隣では、さんざん旦那の愚痴を云ったあげく、眠り込んでいた彼女が目を覚ましそうである。
 彼女が起きて、また絡まれたら困るからと、千明はトイレに行く事にした。


 トイレから戻った千明は、奥の席に山際恵美(ヤマギワ エミ)の姿を見つけた。影の薄い彼女ではあるが、役員の立場もあって、飲み会も最後まで付き合う人なのだ。それにしても、その様子は周りに相槌を打つだけで、ただその場をやり過ごしてるだけに観えてしまう。
 「恵美さん、隣いいかしら?」千明は近づき声を掛けた。
 突然の声にハッと顔を上げて、それから恵美がゆっくりと頷く。
 千明は恵美の隣に腰を降ろして、さり気なく彼女の様子を探る。
 頭の中には例の“疑惑”が浮かんでいる。
 『山際嵐(ヤマギワ アラシ)君のお母さんって、昔AVに出てたらしいわよ』
 その“噂”は半年ほど前、他の学年のお母さんから聞いたものだった。6年生の役員の中にも、既に知ってる人が何人かいたらしい。しかし直ぐに、噂を追求するのはチーム内ではタブーにしようと決めた。千明は未だ夫の貴明にも話していない。
 その後千明は、嵐の事を気にするようにした。息子の拓実は、仲良くしているようでホッとしている。勿論、噂が本当だとしても差別などするつもりもなかった。
 それでも…。
 最近になって、再びその噂が流れているのである。
 出どころはどうも子供らしい。
 ある大会に行った時の昼食の後の事だったか。
 子供の一人が『嵐のお母さんって女優なんでしょ』と、口にしたのだった。
 中には“女優”の意味が分からない子もいたようだし、云った子供の犯人探しは躊躇われた。
 結局その話題は有耶無耶になって落ち着きが戻るのだが、それは一時の事かと、千明の心配は続いている。
 そして千明の“彼”である。
 彼を初めて意識したのが、その大会があった日だった。
 自分はあの時、恵美の噂で深刻な表情をしていたのだと思う。その様子を心配してくれたのか、彼が声を掛けて来たのである。それは試合からいったん学校に戻り、解散になった直後。
 話し掛けられた時の千明自身も、情緒が不安定な時期だった。夫の帰国が中止になったり、赴任先に女の存在を妄想したりしてた時でもあったのだ。
 彼は千明の陰鬱な様子に、何かを感じていたのかもしれない。だから酒に誘って来たのだろう。
 あれを魔が差したというのか、千明は彼に奥さんがいるのを知りながら、二人だけで居酒屋に行き、そして…。
 そこまで思い出したところで、千明は視線を感じた。
 向こう側の席から、その“彼”が見ている。そう、観察するような視線を向けていたのである。
 身体の奥、ついさっきトイレで用を足したアソコがキュウんとなった。
 いつかの彼の言葉が、頭の中に蘇って来る。『女は誰でも欲望に貧欲な動物性を持ってるんだよ。別に恥じる事なんてないだろ』
 『ほら、味わってみなよ、俺の牝の本能を感じてみろ』
 最初は優しかった彼。いや、今も優しいのだろうが、その優しさが変わって来た気がする。そして主人の…夫の貴明の帰国が決まった事を告げた時から、急に冷たさを感じるようになった。なのに身体は、あの愉悦の瞬間を忘れられないでいる。
 彼には恵美のAVの噂も教えてしまっている。彼は調べてみると云ったきりそのままだが、そのうちに何か云って来るかもしれない。そうなると又、自分は彼と二人だけで会ってしまうのだろうか…夫が帰って来たというのに。




・・・・
 貴明は家を出て、宛もなく歩いていた。
 息子の拓実(タクミ)との会話は素っ気なく。その後視たネットの猥褻画像に、モヤモヤとした不穏が貴明を夜の闇へと誘ったのである。
 貴明自身も倒錯を求めていたのかもしれない。貴明は何かを探すように彷徨った。寒さも殆ど感じない。気付けば足が、昼間に行った運動公園に向かっていた。
 遠くに高速道路の灯りが見えて来た。あの手前辺りが公園である。人の気配は感じない。目にするのは、静まり返ったマンションの建物だけ。時刻は何時頃だろうか。妻はまだ2次会を楽しんでいるのか。いや、もう店を出ているかもしれない。


 少し離れた所から光が向かって来るのが見えた。自転車?
 それが貴明の5mほど近くに来た所で、ブレーキをかけた。
 「あれっ?!」
 男の声に、貴明は竦み上がった。闇の中で目がギロリと光った気がしたからだった。
 「拓実君のお父さんじゃないですか」男が咥えタバコを手に持ち替えて訊いてきた。
 「え?」
 貴明が恐る恐る男を見据える。
 男は短髪で、丈の長いジャンバーを着ている。子供の試合会場で、よく目にするやつだ。
 「俺です、秦(ハタ)です」
 「えっと…光博(ミツヒロ)君のお父さん?」
 「そうです、ご無沙汰です。1次会でも挨拶しませんでしたね、すいません」
 「いえ、それはこちらこそです」
 柳町FCの保護者の一人、秦とはそれほど親しい間柄ではなかった。子供どうしも同じクラスになった事は無かったはずだし、試合会場でも殆ど口を聞いた記憶がない。
 「あの、秦さんはどうしてこんな所に…あれ、2次会には?」
 「ええ、2次会の帰りですよ。うちのマンション直ぐそこだから」
 「あ、そうでしたか…」
 貴明は気持ちを落ち着かせようと、何度か頷く。
 秦は視線が気になったか「ああ、この自転車…本当は不味いっスよね。お巡りに見つかったら、咥えタバコと飲酒で逮捕ですね」と、苦笑いを浮かべる。
 秦の笑いには、どことなく不敵なものがあった。見る者が見れば、“恐い”と思うかもしれない。
 「まあ、酒は結構強くてね、いつも自転車なんですよ。それより松山さんこそ、こんな所で何を?」
 「ああ、私ですか…。まあ散歩ですかね」
 「えっ散歩?!こんな時間に」
 「え、ええ、まぁ…」
 悪戯を見つかった子供のように、貴明が頭を掻く。その様子を、秦が冷めた目で見詰める。
 「じゃあ、ちょっとお付き合いしますよ」云って、頷きながら秦が自転車から降りるではないか。
 貴明は断る理由も見つけられず、一緒に歩く羽目になってしまったのである。


 話題は自然と昼間の試合の事になり、時間は流れて行った。二人はいつしか、運動公園の外周のジョギングコースを一周している。
 時おり、秦が千明の役員としての仕事っぷりを誉めてくれた。謙遜も入ってたであろうが、悪い気はしなかった。
 貴明にも新たに知った事があった。秦の奥さんはあまりサッカーに興味がないと言う事と、夫婦仲がそれほど上手くいってないという事。
 秦の自宅マンション近くまで戻って来た時だ。「さっきの嫁の話、他の人には内緒でお願いしますね」秦がニヤッと笑ってウインクした。
 その後ろ姿をマンションのエントランスに見届け、貴明は再び公園の中へと足を運んだ。秦によると2次会はとうに終わって、おそらく妻も家に着いてる筈である。貴明はLINEで妻に散歩に出てる旨を伝える事にした。




 キコンと馴染みの音が鳴って、居間にいた千明はスマホを手に取りLINEを開いた。見れば幾つかのメッセージが入っている。
 《拓実とは少し話したけど、今一盛り上がらなかった。今は酔い冷ましに散歩してる。千明はお疲れと思うから先に寝てて》
 《今日、久し振りにご主人と話したけど、相変わらず真面目そうだな。前に聞いた現地妻の話もどうかなと思ったけど、真面目な人に限ってって事はあるからな(笑)。それと、例の“疑惑”の件はまだ調べ中。もう少し待ってて》
 二人からのメッセージを読んで、千明は無意識に溜息を漏らした。
 やはり“彼”は山際恵美の調査を続けていたのだ。しかし、それよりも今は…。
 今夜、千明は夫に抱かれようと…いや、抱かれなくてはと思っている。息子の拓実も試合の疲れか、既に寝てるようだし。
 と、突然後ろから「お母さん、遅かったね」
 息子の声に、千明は飛び上がって驚いたのだった。




 貴明の足は、遊具広場の方に向かっていた。
 深夜の時間帯。広場には当たり前だが人はいない。
 頭の奥で【露出投稿画像掲示板】の猥褻なシーンが渦を巻いている。
 ジャングルジムの所まで来ると、その前は砂場だ。
 その向こうにはトイレがある。自分が子供の頃の物と比べると、そのトイレも随分とお洒落になった気がする。それでも昔のアンモニア臭いあの空間が、懐かしく思えるのは、今の自分が病的な空気に包まれているからだろうか。
 貴明は自分は今、何をしてるのだと思った。俺は何者なのだ、とも思う。深夜に徘徊をする39歳の中年男。
 まさか露出投稿サイトで視た画像と同じ光景が、ここで見れると思っていたのか。いや思ってはなくとも、病んだ気持ちは何かを期待していたに違いない。
 しかしココには誰もいなかった。露出女や変態夫婦は、何処にもいなかったのだ。
 貴明はふと、自分が股間を握っている事に気がついた。パンツの上から触れても、随分な硬さがある。
 ダメだ、これ以上の事をしてしまったら。貴明は意識して大きな息を吐き出し、家に戻る事にしたのだった…が。