小説本文




 子供達が通う小学校の近くにある、ここは柳町FC御用達の『居酒屋さと』
 そこの2階の宴会席を借り切って、6年生チームの父母会が行われているのである。
 貴明が少し遅れて部屋に入った時が、まさに乾杯をするところだった。
 貴明に気付いた総監督が、唱和を寸前で止めて、この機会にと2年の単身赴任を労ってくれたのには、驚くやら恥ずかしいやらで、貴明は何度も頭を下げながら末席に座る事にした。


 会は時間が進むにつれて、3つのグループに分かれていた。
 コーチ陣とサッカー好きなお父さんとが、真面目に戦術などを語るテーブル。もう一つは母親役員を中心とした女性のテーブル。そして貴明がいる、それ以外のテーブル。しかし貴明がいるテーブルには、役員の山際恵美(ヤマギワ エミ)がいた。
 「こちらは山際さん。嵐(アラシ)君のお母さんです。チームには1年前に入ったんですよ」貴明の隣にいた父兄の一人、高山雄大(タカヤマ ユウダイ)君のお父さんが教えてくれた。
 「ああ、嵐君…今日の試合、頑張ってましたよね。声も一番出てたんじゃないかな」
 貴明の言葉に、一瞬だけ恵美の口元が綻んだ。それにしても、この女性(ひと)はずっと大人しいなと思って、貴明は無意識に様子を窺ってしまう。
 恵美は俯いてる事が多いようだが、ほっそりとした体つきの割りには、胸の膨らみが目立っていた。髪は母親連中の中では珍しく、ポニーテールにしてるので、若く観える要因にもなっていると、貴明には思えた。
 その貴明の視線が、恵美と比較でもするように、妻がいるテーブルに向いた。
 あちらのお母さん方は、かなり出来上がっている様子だ。こちらの席が静かなせいもあるが、声がよく聞こえてくる。話の中心には奥津紀子(オクツ ノリコ)がいるようで、その周りで頬を朱くした千明や何人かが、笑ったり頷いたりツッコんだりしている。


 「そうそう、それでねぇ石井コーチと山田コーチがねぇ」
 その名前を耳にして、貴明はコーチ達のテーブルに目を向けた。
 そこには今名前を聞いた若い二人のコーチがいる。貴明には初顔だったが、2年前からコーチをやってる現役の大学生達である。聞けば柳町FCのOBで、総監督に呼ばれてコーチになったらしい。彼等二人と一緒にいる女性もOBの一人で、同じ時期にコーチになった太田由香(オオタ ユカ)、彼女も大学生だ。
 3人の若いコーチの前には、酎ハイのグラスが3つある。3人とも二十歳にはなっているらしい。


 「ちょっと聞いてよ、ねぇっ~」ひときわ大きな声が、お母さん方のテーブルから上がった。
 「私だってそれは淋しいわよ。うちの人なんて夜は滅多に相手にしてくれないんだから」
 名前は思い出せないが、お母さんの一人が朱い顔で隣に絡んでいる。
 周りでは皆んなが、一様に苦笑いだ。
 「じゃあ、この中から好きなパパさんをお持ち帰りしなさいよ、内緒にしとくから」
 と、一人のお母さんがツッコんだ言葉に、部屋中が爆笑に包まれた。
 女性陣の視線が遠慮気味に動き、その幾つかが貴明にも向いた。
 値踏みされた気分に気恥ずかしくなって、貴明は苦笑いを浮かべる。じゃあ妻はと、その様子を探った。
 千明は苦笑いを浮かべながらも、発信元のお母さんを宥めようとしているみたいである。
 そんなザワメキの中を、会はそれから暫くしてお開きとなったのだった。


 「貴方、もう帰りますよね」
 会計を済ませて外に出て来た千明が、朱い顔で夫の顔を覗く。
 「なに、2次会あるの?」小さな声で、貴明が訊く。
 聞けばこの後、何人かで次の店に行くと云う。
 他にはサッカー好き、酒好きのお父さんも何人か行くみたいだ。役員なので出席しないといけないと言う妻を置いて、貴明は帰る事にした。
 貴明は4日前に日本に戻ったばかりだし、早く息子と今日の試合の話をしたかったのだ。ゴールを決めた事も誉めて上げたい。


 「皆さん、明日は日曜日だけど試合はありません。だからと言って、飲み過ぎには注意で!では、お休みなさい」
 一番酔ってそうな総監督の一声で、1次会はその場で解散となったのである。
 貴明は妻にアイコンタクトを送り、一人でその場を離れて歩き始めた。
 妻達2次会のメンバーは、ここから駅の方に歩いて行くという。
 その千明達の集団を見送る3つの人影があった。二人の男と一人の女性。
 男の一人が真ん中にいる女の肩に、むんずと手を回して囁く。
 「さてっと、皆んな行っちゃいましたねぇ」
 「ふふっ、あっちの方が良かった?そんな事ないッすよね」と、もう一人の男が、酒臭い息を女に吹き掛けた。女は俯いている。
 「あのぉ、戻ってトイレに行って来ていいですか」女が男達を窺う。
 「へ、店に?ダメダメ、直ぐそこに借りた家があるんだから」
 「そうそう、秘密の館(ヤカタ)」
 「好き者が集まる秘密の隠れ家」
 男達が顔を見合わせ、示し合わせたように下卑な嗤いを浮かべる。
 「それにさ、オシッコ我慢してるなら、ちょうどいいんじゃない」
 「そっか、今日は“あっち”のプレイなんかも」
 「ふふ、そう言う事。じゃあ行こっか」
 男が女の肩に回していた手に力を込める。女は男達に挟まれた形で、歩き始める。もう一人の若い男が、女の尻に手を持って行く。
 女の頭の中には、先日のプレイの様子が浮かんでいた。ああ、今夜もまた負けてしまうのか…。




・・・・
 2次会の居酒屋。
 席に着いた千明の隣には、1次会で愚痴を吐きまくっていたお母さんが又も座っている。
 乾杯が済めば、一口飲んだだけで、その女性は再び周りに絡み始めた。その彼女に向くお父さん連中の目が、1次会と比べて遠慮が無くなっている。
 「うちの旦那、外に女いるのかしらぁ。こうなったら私も浮気したり風俗とかぁ」
 呂律の怪しい女の言葉は、千明の脳裏に夫の存在を浮かび上がらせた。
 夫の貴明…。東南アジアから2年の単身赴任を終えて戻って来た夫。赴任中は何度か帰国の機会があった筈なのに、その度にトラブルが起きたからと、1度として帰って来る事がなかったのである。
 現地妻と呼ばれる存在がいるのかと、千明はそんな事も考えたが、確かめる術もなく、心と身体のストレスになるだけだった。子供の成長に連れて悩みは増えたし、サッカーの役員になってからは、そのストレスも大きくなっていった。そして…。


 約2年ぶりに夫に抱かれた先日の夜。千明は夫の赴任先での“女”の気配を探ってみようと考えたが、聞けなかった。勇気がなかった事もあるが、自分にも負い目があったのだ。
 夫との久し振りのセックスは、呆気なく終わってしまった。勿論、それなりの快感はあったが、夫が以前と比べて淡泊になった気がした。しかし帰国して間もなくだし、疲れが溜まってるせいだと思うようにした。それに自分の中にも変化があって、それを気づかれないようにと、無意識に警戒心が生まれていたのかもしれない。
 千明は部屋の顔ぶれをそっと見廻した。“彼”は周りと会話を楽しんでいる。身長は夫と同じくらいで170ほどだが、胸や腰回りがどっしりしていて、安心感がある。顔つきは強面の部類に入ると思うが、笑った時とのギャップにドキッとする事がある。
 と、後ろの方から囁くような小さな声が聞こえた。
 「目ぼしいのがいたらチェックしておいてくれよ」
 「分かってるわ。あの人なんてどうかしら?」
 「ああ、悪くない。だけどやっぱりこの人の…」
 女の耳は性感帯の一つ…そう教えたのも“彼”だったか。千明はそんな事を思い出しながら、後ろの声に集中した。
 目ぼしいとは、どういう意味だろう?
 あの人とは?
 それに、やっぱりこの人とは?もしかして私の事?
 千明はコッソリ振り返ろうとしたが、その時、又も隣から絡まれた。
 「ねぇぇ松山さ~ん、旦那さん帰って来たんでしょ~。じゃあ早速やったぁ?」
 あまりにもあっけらかんと、そしてその声の大きさに、場は一瞬静まり、それから一斉に呆れ混じりの笑いが爆発した。
 その一瞬、千明と“彼”の視線が交差した。
 その目が『どうなんだ、旦那とは久し振りにやったのか』そう問い詰められてる気がして、千明は狼狽えた。
 あぁ、自分は普通の主婦のつもりだったのに、どうしてあんな事を…。
 倦怠期という言葉は知っていた。女にだって欲求不満はある。それにしたってだ、母親でもある自分が…。
 『女は幾つになっても女だよ』又も彼の声が聞こえた気がして、千明の体温が上がった。
 「どうしたんですか松山さん。お疲れみたいですね」
 東山誠也(ヒガシヤマ セイヤ)君のお父さんが、ニヤニヤ笑いながら覗き込んでいた。「松山さんには元気でいてもらわないと」
 「いや私なんか…」
 「へへっ、ここだけの話、松山さんは皆んなの人気者なんですよ」
 「東山さん、酔っぱらってます?」
 「ええ勿論、酔って早めに松山さんを口説かないとライバルが大勢いますからね」東山が声を潜めて、早口で告げた。
 千明はそれだったらと、悪戯っぽく笑って隣を見た。が、夫の愚痴をばら撒いてたその彼女は、気持ち良さそうに舟を漕いでいたのである。