小説本文




 プロローグーーー


 3年生にもなって砂場遊びなんて幼稚っぽいかもしれないけど、サッカーの練習の後は、よくここで穴を掘ったりしてお迎えを待っているんだ。
 ジャリ、ジャリっと音が聞こえて顔を上げると、砂を鳴らしながら女の人がこちらに歩いて来ていた。隣りにいた健児君と舞ちゃんも、同じようにその人を見ていた。
 最初は誰のお母さん?と思ったけど、どうも違うみたい。公園に来るお母さんは、だいたいがジーンズを履いていて、腰にポーチを巻いているのに、その人は膝小僧が見えるくらいのコートを羽織っていたから。
 コートの前で両手を交差させて、ぎゅっと身体を抱くようにしてる様子も、お母さんには観えなかった。
 この女の人は僕達に何か言いたい事でもあるのかな、と首を傾げた時に、その人が目を瞑ったのが見えたんだ。いや、薄目にしただけかもしれない。
 じぃっと見てるとその人の口が半開きになって、なんか変な感じがしたんだ。健児君も舞ちゃんも、変な気配を感じてたと思う。3人の会話が止まって、穴を掘ってた手も止まってたから。
 そうしたら、バッとその人がコートの前を開いたんだ。
 目が点になるって、そんな言葉は随分経ってから知ったけど、まさにあの瞬間、皆んなの目は点になってたと思う。何でかって、その人、裸だったから。
 正確に云うと裸の上にコートを着てたわけだけど、皆んなも唖然として時間が止まった感じがしてたと思う。
 お母さん以外の女の人の裸を見たのは、その時が初めてだった。健児君は知らないけど、その後もその話題は恥ずかしくて二人の間で出る事もなかった。舞ちゃんとは、もっと話せなかった。
 その女の人が、どれくらいコートを開げていたのか分からない。思い出せるのは、オッパイが大きかった事と、下のお毛け。
 エッチな画像は、サッカーの6年生に見せられた事があったけど、直接は…。
 でも…しかし…。
 あれから何十年経っても、ふと夢の断片が脳裏を横切るように、あの時の事を思い出す事がある。
 そして、あの日の出来事は、確実に心の奥に何かを植え付けたはず。そんな事を今だに考える時がある。その時は決まって、夢の中に忘れ物をしてきたような気分になるのだった。


1


 「松山さん、お久しぶりです」
 その声に振り返ると、松山貴明(マツヤマ タカアキ)は、あっと小さな声を上げた。
 「…康史(ヤスシ)君のお父さん…ですよね?」
 「はい、大変ご無沙汰です。単身赴任から戻って来られたとか」
 「そうなんです」貴明は頷き、大柄で威圧感のある遠藤に軽く会釈した。
 ここは少年サッカー大会の試合会場。市内にある運動公園の芝生広場。
 貴明は久し振りに子供の試合を見に来ていたのである。


 「どうですか、皆んな上手くなったでしょ」と、遠藤が視線を子供達に向ける。
 「ええ、そうですね。それに皆んな大きくなっててビックリしてますよ」
 貴明は試合に目を向け直して、その目を細める。
 「見るのは2年ぶり?」
 「いえ、単身赴任は2年でしたけど、試合を見るのは2年半振りくらいですかね」
 「そうかそうか、最後に見たのが3年生の時なら、身体の大きさとか随分違ってるでしょ」
 「遠藤さんの仰る通りです。うちの拓実(タクミ)も大きくなったと思ってたら、他の皆んなも大きくなってるから。遠藤さんちの康史君も」
 貴明の言葉に、遠藤が強面の顔を嬉しげに緩めて、それからチームの近況等を話してくれた。貴明にとっては、妻の千明(チアキ)からも聞いてはいたが、他の父兄からの話の方が客観的に聞けて良かったかもしれなかった。


 試合の方は、残念ながら負けてしまった。
 柳町FC(ヤナギマチ・エフシー)は、学年事にひとチームで、年配の総監督がいて、コーチは昔サッカーをやってたお父さんや、OBがやってくれている。
 チーム自体は伝統的にそれほど強くないが、最終学年の今年は、何とか良い成績をと考えているらしい。
 チームのサポートをするのは親の務めで、その学年の父母が役員をやるのが習わしだ。
 貴明の妻の千明は、2年ほど前から役員に就いて、色々と忙しくしているのである。


 すうっと太陽が雲で隠れて、冷たい風が吹いた。
 「ひと雨来るかな」どこかで父兄の呟きがした。
 貴明が上を見上げると、確かに曇天の空。4月になったばかりのこの季節は、まさに『春の天気は変わりやすい』だ。
 そんな天気の事を思いながら、貴明は周囲を見廻した。生まれ育った町にあるこの会場に来たのも、2年半ぶり位だが、自分が子供だった頃と比べて見ても、かなり様変わりしている。遠くに見える広場の遊具なども新しくなっているし、トイレや管理事務所の建物なども建て替えられている。


 コーチの大きな声がした。集合が掛かったらしい。
 遠藤や何人かの親達が子供達の方に歩き出した。貴明はどうしようかと目を向けた時、本部席から小走りでやって来る妻の姿が目に付いた。
 「貴方どうだった」
 「やあ、皆んな上手くなってて、びっくりだ」
 「本当?試合ちゃんと見てたの?アタシ、チラチラ貴方の方も見てたけど、ずっと誰かと話し込んでなかった?」
 「ああ、遠藤さんと喋ってたけど、試合はちゃんと見てたよ。拓実のシュートなんて凄かったじゃないか」
 貴明の言葉で、千明の口元がいったん締まり、そして綻んだ。役員の立場があっても、我が子の事となると、素直な反応である。
 「ほんと拓実も上手になったわ。あの子も貴方の前でゴールを決めれて喜んでるはずよ」
 「それなら僕も嬉しいね」貴明がニコッと表情を崩した。
 「それでね、今夜7時から父母会があるけど、貴方どうします?」
 「ああ、そういうのがあったな」
 「アタシは6時から役員会があるから、先に行ってそのまま出席するけど」
 「う~ん、分かった。他の親御さん達とも久しぶりだし出るよ」
 「去年くらいから出席する顔ぶれは殆ど決まってて、今日はたしか…」
 妻から父母会の顔ぶれを聞いてから、貴明は一旦先に家に戻る事にした。
 ここから家までは、歩いて20分ほど。2年半前は、ここで試合や練習がある時は車で送り迎えをしていたが、6年生になった今は、子供達は皆んな自転車で来ている。妻は用具など運ぶ物があるから車だが、貴明は健康の為にも歩きなのだ。


 同じ25で結婚した貴明夫婦は、今年で共に39歳。
 年齢的には中年に差し掛かるところだが、見かけはどうだろうか?身長は175の体重が60くらいの中肉中背だから、悪くないと貴明は思うようにしている。妻の千明も、子供の世話に追われてるせいか健康的で活発だ。体型だって久し振りに拝まてもらったが、以前と変わってない感じがしている。
 公園の出口に向かって、ジョギングコースを渡ると、貴明の目に遊具広場の様子が入ってきた。
 ジャングルジムの前は、砂場になっている。その辺りで今は、小さな子供達が砂遊びをしている。その時、突然、貴明の中に空洞が広がる変な感触があった。それはどこか儚く、不穏な高鳴りでもあった。


 千明は、先に戻るという夫の背中を見送り、役員が陣取る本部席に戻って来た。今日の試合は全て終わったが、役員はやる事がたくさん残っている。
 「千明さんのところのご主人、単身赴任から戻ってらしたのね」
 一緒に役員をしている奥津紀子(オクツ ノリコ)が、話し掛けてきた。
 「ああ、はい、そうなんですよ」
 「ご主人は夜の父母会には、いらっしゃるの?」
 「ええ、一応…」
 千明の声が、少し小さくなっていた。
 奥津紀子は千明よりも身長で10cmほど高くて、170の大柄なうえに、少しお高く留まった感じで苦手にしてる人が多いのだ。千明は役員どうしという事もあって、何とか付き合っているが、歳も四つ上だし、なるべく大人しく接している。
 そして奥津紀子といえば、千明は昨年末の役員で行った一泊の親睦旅行を思い出すのだった。


 「さあ、手の空いてる方は、後片付けのお手伝いをお願いしま~す」紀子が周りの父兄達に声を掛けた。
 テーブルを畳み始めた紀子の後ろ姿に、何人かのお父さん連中の目が向いている。
 千明の背に「しっかし、凄いお尻だな」と、囁き声が聞こえた。
 「ほんとですね。それにオッパイも」
 「しっ、声、デカイです…」
 紀子がお父さん連中に人気があるのは、以前からであった。
 今の声も6年生の父兄の誰かであろう。最終学年となれば、親どうしも良い意味、悪い意味でも付き合いが生まれている。最近ではそういった連帯感が、好奇な目になって母親達に向く事がある。


 「千明さんお疲れ様です」
 振り返るとそこに、パイプ椅子を持った女性が立っていた。
 やはり役員の一人の山際恵美(ヤマギワ エミ)だった。
 「あ、恵美さんね、お疲れ様」
 恵美が軽く会釈して顔を寄せて来る。「千明さんのご主人は、夜の飲み会は」
 「ああ、恵美さんが今夜の幹事だったわね」と言って、千明は夫も参加する旨を伝えた。
 頷きながら倉庫の方に歩き出す恵美の背中を見ながら、千明は小さな溜息を吐いた。
 相変わらず恵美の様子は暗い。一人息子の嵐(アラシ)君が入団したのが5年生になってからと、皆んなより遅い事に負い目があるのかと千明も最初は心配していた。彼女の歳が父母の仲でも若い部類に入るから遠慮があるのかと、そんな事も考えた。けれどそれとは違う何かがあると思ったのは、彼女の“噂”を耳にしたからだった。
 勿論、噂はあくまで噂であって、千明が耳にしたのも大会の打ち上げの酒が入った席だったので、あまり真剣に考えなかったのだが。
 それでも彼女には影のようなものを感じている。ご主人が試合を見に来る事も殆どなくて、来たとしても遠くにいるだけで、他の父兄達と話す姿を見た事がない。
 色んな親がいるので、千明は気にしないようにしているが、やはり何処かで引っ掛かりを覚えているのだ。
 やがて後片付けも終わり、千明達も引き上げる事になった。