小説本文



タクシーは西日を背に、目的地に向かって走り続けていた。
 後部座席では、高志がすっかり汗のひいた身体で大山の話に引き込まれている。


 「私たちには子供がいませんでね。それまでも私の稼ぎで2人十分な生活を送れていたんです。ところがある日、女房が働きに出たいと言い出したんです。私が40、女房が39の時でしたか」


 「それで自分で仕事を見つけてきましてね。・・・・事務の仕事でした」


 「それから活き活きし始めましてね。研修や職員旅行とかでいろんな所にも行くようになって・・・。私も忙しい身で女房を旅行に連れて行く事もなかったので、その時は良かったな~なんて思ったものです・・・」


 「仕事に就いてどの位経った時でしょうか・・・それまで活き活きしていた女房がある頃から暗くなってきましてね。私が聞いても『ちょっと疲れてる』って同じ返事ばっかりで・・・・その頃から夜の方も拒否される事が増えましてね・・・・」
 「・・・・そうなんですか?」


 「ええ。私も最初は更年期障害が人より早く来たのかなって程度にしか思ってなくて・・・・。でも、そのうち やっぱりこれはおかしいと思うようになりました」


 「ある時 久しぶりに妻を抱いたんですよ。・・・そうしたら何て言うんでしょう・・・違うんですよ。何て言うか・・・抱き心地が・・・」
 「“ゴクリ”・・・」


 「上手く言えませんが・・・それまでの妻と・・・とにかく違うんですよ・・クセと言うか・・・」
 「癖(クセ)?・・・ですか」


 「はい・・・その時、初めて思ったんですね、女房に男がいるんじゃないかって。・・・考えてもみなかった事でしたよ」
 「それで、大山さんはどうされたのですか」


 「はい。その頃はパソコンも携帯電話も普及されてないし、だれかに調査を頼む考えも思いつかなくて・・・ただ、心の中には“まさか”の文字だけが残っていて、兎に角自分で調べてみようと思ったんです。証拠を見つけようと思いながらも、証拠が見つからなければきっと思い過ごしだって自分に言い聞かせて・・・・」
 「奥様を尾行でもされたのですか?」


 「その前に色々と可能性を考えました。・・・そうしたら、浮気をしているとしたら仕事関係の人間だろうと自然とその考えにたどり着きましてね」


 「何度か有休を取りました。それまでは仕事一辺倒でしたから会社もあっさり休みをくれましてね。こんなに簡単に休めるならもっと休みを取って、女房孝行をしとけば良かったって後になって思いましたよ」


 「それで会社を休んで女房の仕事場の近くまで行ったり・・・。そしてある時、仕事帰りの女房を尾(つ)けたんですよ。そうしたらスーパーで買い物して、袋を2つも持って見知らぬマンションに入って行ったんです」


 「その時の気持ちは何て言えばいいんでしょうかね・・・しばらく唖然としていました。外の電柱の影で一人でずっと立ってましたよ。刑事ドラマとは違いますよね。まるで私が悪さをしている気分になって、周りの人の視線が気になって・・・・。そうしたら角部屋の窓がガラガラって開いて女房の姿が見えたんですよ。普段着の様な服に着替えていて、まるで普通の“主婦” “奥様”っていう感じでしたよ」
 「中には誰かいたのですか?」


 「わかりません。・・私も頭の中が真っ白だったんですね。不思議な気持ちでずっとそこに立っていたと思います。それから思い出したように近くにインスタントカメラを買いに行きました。その頃はデジカメなんてなかったですから・・・」
 「なるほど」


 「そして自分でもよくわかりませんが、そのマンションの写真を撮ったり、エントランスの集合ポストの写真を撮ったり。そして女房がいた部屋の写真を外から何枚も撮って・・・そんな物 証拠になる訳もないのに・・・・。そしてどこをどう通ったか気づいたら家に帰ってました」
 「奥様は帰ってきたのですか?」


 「はい。極々普通に、そしていつも通りに食事の用意をして、いつも通りに風呂を洗って・・・。私は狐にでも騙された気分でしたよ“まさかこの女房が”って。」


 「そして寝る時、言ったんです。『明日は残業で遅くなる』って」


 「次の日は早めに仕事を切り上げて、またあのマンションに行きました。前の喫茶店で女房が来るかどうかずっと待ってましたよ。その日は、夜の7時くらいに帰ってきましたよ、何と男と2人で。腕こそ組んでませんでしたが、誰が見ても自然な中年カップルでしたよ」
 「相手は大山さんの知ってる男だったんですか?」


 「いいえ、初めて見る顔でした。ただ結構いい男でした、ガタイも良くて。たぶん歳もその時の私と同じくらいだったと思います」


 「そしてエントランスを潜ってしばらくするとあの部屋の電気がパッとついたんです。・・・・私は店を出て部屋の真下から上を見上げてまして・・・・。そうしたら窓がガラって開きましてね・・・・」
 「そ それで」


 「上から男が私を見下ろしてました。逆光で表情は分かりませんでしたが、目と目があったと思います。男はジーっと見てました・・・・。おそらく向こうは私が誰か分かったんでしょうね」


 「男が窓を閉める時、もう一度私の方を見ましてね。何だかその時、男が私を誘っているような気がしたんです」
 「誘ってる?」


 「はい。私はフラフラと階段を昇ってその部屋の前に行きました。表札もなくて・・ただ、ドアの横の小窓が開いてました・・・」
 (?・・・・)


 「私はドアに手を掛けました・・・・。その時一気に震えが来ましたよ身体中に。まるで熱に魘(うな)されるような」
 「 ドアは?」


 「ドアノブを持つ手が震えて、上手く回せなくて・・・でも鍵は掛かっていたと思います。私はゆっくり隣の小窓の前に行きました。おそらく男がわざと窓を開けていたんでしょう」
 「な なんで?」


 「その時 “ハアーーン”って凄い声がしました」


 その声と同時に、高志は大きく息を呑み込んだ・・・・・・。