小説本文



明け方、寝苦しさを覚え、時計を見れば朝の5時だった。
 隣に目をやると、そこには妻の寝顔がある。
 どことなく安堵感を感じると、再び眠りの中へと落ちていった。
 次に目が覚めた時には、早くもセミの鳴き声と、寝汗の不快感があった。


 「・・・・貴方、もうすぐ10時よ」
 夏美の声にのっそりと起き上った。
 2度寝のダルさを感じながら、顔を洗いに洗面所に向かう。


 久しぶりの夫婦の朝食は味気なかった。
 テレビをつけ、ニュースを聞き、天気を確認して。
 そして今日の予定を確認した。


 食事の後片付けを始めた夏美の後姿を、高志はぼんやりと眺めていた。
 『あなた・・・ゴメンなさい・・・』
 夕べの言葉が頭に残っている。
 妻が自分に『ごめんなさい』 などと謝った事が今まであっただろうか?
 まして、人前で涙を見せるなんて、想像する事も出来なかった。
 確かにあの時、夏美は涙ぐんでいた。


 『わたし・・・』
 あの後、いったい何を言おうとしたのか?・・・ 何を言いたかったのか?
 

 『どうしたんだい? ・・・・ 何かあったのか? ・・・・』
 その言葉に黙って頷くだけだった妻。
 気の利いた言葉も思いつかず、バスタオルを肩に掛けてあげるだけだった・・・。


 片づけを終えた夏美がニコッと微笑む。
 あきらかにぎこちないその笑いに、高志も軽く頷いてみせたが。




 

 部屋のスペアキーを夫に渡し、夏美が仕事に向かう。
 白いスカート姿は久しぶりに見る格好だったが、その身のこなしは美貌を携えた振る舞いだ。
 その横貌(よこがお)に、高志が声を掛けようとする。
 「夏美、昨夜(ゆうべ)の・・・・」
 その言葉にも軽く口を噛み、夏美はドアに手をかけた。


 一人になった高志は、部屋の中を檻の中の動物のように歩き回った。
 時折、ソファーに座り、テレビをつけ、そしてまた考えを巡らせた。
 (何か後ろめたい事があるのか?)
 (??・・)


 高志は“フーッ”と大きく一息つくと、昨夜の寝室を思い浮かべた。
 夫婦の交わりは今まで肉体的なコミュニケーションより精神的な繋がりを尊重していた、と高志は思っている。
 また、妻も同じ思いだと、そう信じている・・・・。


 それにしても・・・・。
 夏美の性格だから、このまま黙り通すはずはない。
 今晩にでも夏美から“何か”話があるはずだ。
 そんな考えにたどり着くと、とりあえず外に出かける事にした。
 あらかじめ一人の時の為に、界隈の史跡巡りを計画していたのだ。
 キャリーバックからガイドブックのコピーを取り出すと玄関に向かう。
 外に一歩出ると、いきなりセミの鳴き声と、容赦のない太陽が襲ってきた。


 エントランスを出ると、すぐ脇にゴミの集積場が目に付いた。
 この辺りでも分別化が日常化されているようだ。
 ふと、部屋の玄関横にゴミの袋が置かれていた事を思い出した。
 

 (夏美のやつ、出し忘れたのか・・)
 高志はもう一度部屋へと戻る事にした。


 両手にゴミ袋を持って階段を降りる。
 “あれっ” 半透明の袋の中に見慣れぬ物があった。
 (タバコ?)
 それは、あまり見かける事のない外国製のタバコの箱だった。
 その箱をシゲシゲと見ながらも、ゴミ山の上に転げ落ちぬように置いた。


 夏美は生まれてこの方、一度もタバコを吸った事は無いはずだ・・高志の知る限りでは。
 もちろん高志にも喫煙の趣向はない。
 ただ、普通に考えてみれば妻の部屋に同僚が訪ねて来る事もあるだろう。
 その中に喫煙者がいても不思議ではない。
 まして大学生になればタバコを吸う者もいるはずだ。
 (部屋に学生が来る事もあるのかな?・・・・)


 気づけば高志は、大きな川の橋に向かって歩いていた。
 財布から1枚の名刺を取り出し、そして携帯電話を手に取った。
 電話の先はタクシー会社。昨日の降り際に運転手から渡された名刺だ。
 待つこと5分、川の向こうから見覚えのあるタクシーがこちらに向かって来るのが見えた。


 タクシーに乗った瞬間、冷(ひや)っとした清涼感に包まれた。
 「うわっ 生き返る」
 その声に運転手が微笑みながら。
 「あれっ 昨日のお客さん? ・・・・たしか、奥さんが大学で働いている・・・・・」
 「あっ 昨日の・・・・・」


 高志は大山という初老の運転手にガイドブックのコピーを見せ、史跡巡りのちょっとしたツアーを組んでもらう事にした。
 「・・じゃあ最後は、大学の裏手の神社・・・・そこに5時ごろという事で」
 「はい、お願いします」
 高志のひと声で車はスタートした。




 車は渋滞に巻き込まれる事なく、順調に目的地を回っていた。
 高志に史跡巡りの趣味があったわけではない。
 都会の雑多を離れ、のどかな空気に触れたかっただけなのかもしれない。
 運転手の大山は熱心に歴史話を聞かせてくれたが。


 一番遠くにある峠からの景色を見終え、最終地点の寮の裏手の神社に向かう為、車は出発した。
 しばらくして・・・。
 「お客さん、疲れました? 途中からあまり真剣に観てなかったようですが」
 「あっ いえ・・すいません・・・・ちょっと気になってる事もありまして・・・・」
 「あらら・・・。せっかく久しぶりに奥様と会われたっていうのに・・・」
 「ええ まあ・・・・でもその妻の事で・・」
 「久しぶりに会って、いきなり夫婦喧嘩でもしたんですか?」
 「えっ、いや・・そういう訳じゃ・・・」


 大山という運転手の人懐っこい人柄のせいなのか、はたまた自分より年上の初老だからなのか、心の中の“つかえ”が妻である事を高志は自ら口にしてしまった。
 そして昨夜の意味深な言葉の事を・・・・。


 「ご主人は奥さんが隠し事でもしていると?」
 「う~ん・・・でも昨日の今日ですから・・・今夜にでも妻の方から話があると思ってますし、僕からも色々聞いてみるつもりですけどね」
 高志はそれまでの気持ちを振り払うように、あえて明るく答えてみせた。
 しかし、今度は運転手の大山の目元が暗く沈んだ。


 少しの間が空き、そして大山が口を開いた。
 「実は私・・・・過去に女房に出て行かれた経験をしてましてね・・・」
 「えっ!?」


 「今から20年くらい前の事ですがね、私が40くらいの時に女房に男が出来たんです・・・」
 (・・・・・・・・・・・・・)


 「その頃、私は東京でサラリーマンをやってたんですがね・・・仕事人間で女房の事をほったらかしにしてたんです・・・・」
 (・・・・・・・・・・・・)


 「あ・・・すいません。やっぱり止めておきましょうか、こんな暗い話は」
 高志の沈黙に、大山が話を折ろうとする。
 「いっ いえ 続けてください、差支えなければ。・・・・お願いします」


 高志の言葉に大山は一旦口を軽く噛んだが、静かに頷いた。
 そして再び喋り始めた・・・・・・・・。